カノジョは大丈夫(安川有果)

 今年もふらっと「桃まつり」(自ら映画を製作・配給・宣伝する女性監督を中心とする集合体)に行き、何本か若手女性監督の短編を見た。
 なかでは、安川有果の『カノジョは大丈夫』がよかった。内容云々というより、映画の画を見せてくれたからだ。

 ストーリーは、地味で平凡な男が、奔放な女に振り回され翻弄されるという、ベタでたわいないものだ。だが、「物語がベタなのに、何でこんなに面白いのか」という映画を目指し、「映画はやはり演出だ」という映画観を持つこの監督にとって、まさに今作はその狙い通りだろう。

 特に、二つの場面が目を引く。
 一つは、男女が同じふとんに入りながらも、男は上を向き、女は横を向いてたばこを吸っているというシーン。何てことはないが、格好良さが漂う画だ。

 もう一つは、女が寝ているところに帰宅した男が馬乗りに襲い掛かり、暗い中でもみくちゃになるシーン。暗がりなので互いの表情がよく分からず、全体的にコメディタッチのこの作品において、ひときわ緊迫感に満ちている。

 今回の「桃まつり」のテーマは「うそ」ということだが、この作品は、自覚的で意識的な「うそ」ではなく、無意識的なレベルのそれを描こうとする。
 男にとって、自分の不在の間に他の男を家にあげるのはもってのほかだが、女は、どうせ鍋を囲むなら大勢の方が楽しいと思う。
 男は、映画館で寝られるのが嫌で怒るが、女はそんなことで怒られるのがとりわけ嫌いだ。
 久々に会った異性の先輩とふらふらと二人で飲みに行ってしまうのが、男にとって「あり得ない」ことなら、気に入らないプレゼントを一方的に渡して悦に入るのは、女にとって「あり得ない」ことだろう。

 この監督の巧みさは、一面的に見ると、ダメ男を振り回す女の「悪」(映画監督の佐藤央は、「何故主人公の女性(牧野鏡子)が男たちにモテるのか?」が「謎」だとコメントしていたが、その「声」とノリの良さは、ある種の男にとってたまらなく魅力的なのだろう)に映ることが、だが別の角度から見れば、それは一方的に「悪」とも言い切れない、男と女の非対称性からくる不可避的なすれ違いにも見えてくるように撮っていることだ。

 さんざん振り回されたことに嫌気が差した男が、ついにキレて「僕はゴミ箱じゃないんだ!」と叫ぶシーンがある。だが、もし女にまったくそんなつもりがなかったとしたら、おそらくこのとき彼女は、ただただ唖然とするほかなかっただろう(このときお互いの表情は暗くて見えなくなっており、観客がいかようにも解釈できるようになっているのも巧みだ)。

 いわば、ここにこの監督の「悪意」がある。その「ゴミ箱発言」もそうだが、この作品の「笑い」は、基本的に不器用でダメな男の挙動に向けられている。「ある人に、こういうキャラクターって女の子が好きな男の子のキャラクターだよね、って言われて……それはかなり鋭い指摘だなと思いました」と監督は語っているが、まさにこの作品の「笑い」の背後には、こうした「女の子」の無意識の「悪意」が潜んでいる。もちろん、悪い意味で言っているのではない。この種の「女性」の「悪意」が垣間見られることこそ、「桃まつり」の魅力のひとつがあるのだ。

 だが、もし、この監督が、沖島勲が言うように、本当に「将来、アントニオーニになるかもしれない」としたら、それはやはり五分と五分の男女が描かれるときだろう。「次は、男性と女性をちゃんと描いた長編を撮りたい」と早くも次回作への意気込みを語っているこの監督にとって、その日はそう遠くないかもしれない。

 (「もしや?」と思い、「やはり」そうだった! 監督の安川有果は、詩人の安川奈緒の妹だそうだ)

中島一夫