ひとりで生きる(ヴィターリー・カネフスキー)

 もう、何度見たことだろう。
 九条、シネ・ヌーヴォで「カネフスキー特集」と聞いて、また行ってしまった。映画館にかかる度に見に行っているが(それでも日本での上映は15年ぶりのようだ)、カネフスキーは、見るたびに私の中の何かを刺激する。行ったこともない場所の風景、会ったこともない少年、少女なのだが…。

 第二次大戦後のロシア、沿海地区。収容所地帯と化した小さな炭鉱町、スーチャン。学校のトイレにイースト菌をばら撒き、あたりに糞尿をあふれさせては、機関士に復讐しようと機関車を転覆させ、挙句の果てには、悪党に染まって強盗殺人に加担していく。そんな、『動くな、死ね、甦れ!』(1989年)の少年「ワレルカ」も、15歳になった。

 もちろん、蓮實重彦が「かけねなしの傑作であり、これを見逃すことは生涯の損失につながるだろう」と絶賛した『動くな』も素晴らしいが、私は、この『ひとりで生きる』の方が好きだ。こんなに、シークエンスごとに絶句させる映像(露悪的という意味ではない)がちりばめられた作品を、私はほかに知らない。

 飼い豚がナイフで屠殺され、ガソリンをかぶったネズミの大群が炎に包まれて走り回る。訳の分からないことをわめき散らしては、子供達に石持て追われる狂人、泥酔してぬかるみにつかった仮死状態の酔っ払い、それにまたがって「不凍液だよ」と顔に小便をひっかける女、暖を求め合うように白い尻だけを出して、所かまわずセックスする男と女…。遠くで汽笛が響き、霧が晴れると、海のような大河が日の光にきらめいている。

 悪行が重なって退学処分になり、警察にまで追われる身となったワレルカは、ひとり町を離れる。『動くな』で彼の犠牲となって死んだガーリャの妹ワーリャは、守護天使のように彼の身を案じて手紙を送り続けるが、彼は何かに憑かれたように、ひとり、どんどんと故郷を離れていく――。

 おそらく、彼のような存在を、「ブラトノイ」の末裔というのだろう。「ブラトノイ」とは、一匹狼のならず者、悪党、まさに「ひとりで生きる」者である。ラーゲリの抑留者だった日本の文学者、内村剛介によれば、ブラトノイの発生は十六世紀に遡る(以下、主に『内村剛介ロングインタビュー 生き急ぐ、感じせく――私の二十世紀』による)。

 リューリック王朝からロマノフ王朝への移行期に、ロシアでもいわゆるエンクロージャー(土地囲い込み)が起こった。これによって、権力と対峙した民衆は、大きく分けて三つの階級に分裂した。領主に完全降伏した「クレポスノイ」、新天地を求めて徒党を組んで逃亡した「コザック」、そして頭も下げず逃亡もしない徹底してアナーキズムの「ブラトノイ」である。彼らは、「ヴォール・ヴ・ザコーネ」とも称された。国家権力を認めず、法に従わない一匹狼を貫く者だけが「人間(ヴォール)」であり、それだけを「律法(ザコン)」とした、との謂である。

 彼らの行動原理は、「働かざる者食うべからず」ではなく、「働く奴は食うべからず」だ。「働く」とは、権力におべっかを使った証にほかならないからである。

 内村剛介は、スベルドロフスクの監獄にいた時、ブラトノイの末裔に出会った。その十七、八歳の青年が、ある日、パンの上前をはねたので、皆で看守に訴えたところ、彼は「理由は何であれ、お前らはこの俺を官憲に売った。だから、今後俺はお前らに何をしてもかまわない。何でわれわれ内部で解決してくれなかったのか」と言い放ったという。むちゃくちゃな理屈だが、むしろ内村は、この徹底した権力への抗いにこそ、ロシアの「正統」を見出していくことになる。いったい、なぜ、内村は、ブラトノイに共感したのか。

 「あの独ソ戦のときでも、「お前たち共産主義者は、労働者は祖国を持たない、と常日頃言ってるじゃないか。だったら『大祖国戦争』なんて嘘っぱちじゃないか。ソ連邦が祖国であるならば、それは共産主義じゃない。そんなウソで固めたロクでもない『祖国』に、なんでこの俺様が仕えなきゃならんのだ」というのが彼らの言い分でした」

 スターリンは、独ソ開戦に際して、悪名高き「国民に告ぐ」演説を行なった。プーシキントルストイチャイコフスキーゴーリキー、チェホフらを生んだ「祖国を守れ」と叫んだ。だが、真のマルクス主義者ならば、「同志よ起て」というべきではないのか。内村は、ここに、肝心な時に芸術家に頼るスターリンの文学性と、それと一対のナショナリズムを見て反発した。自分をラーゲリに監禁するスターリンの権力も、この国家も、結局は嘘っぱちでインチキだ。この地点で、内村とブラトノイは交差するのである。

 やがて、ブラトノイは、「スーカ」と呼ばれる裏切り者の異端を生んでいく。彼らは権力に媚びを売りながら着々と勢力を伸ばしていき、ついにはブラトノイを滅ぼしていく。スーカは、その後ロシアン・マフィアとして台頭、ソ連崩壊後は「ニューリッチ」を形成していった。したがって、内村は、正統のブラトノイが異端のスーカに滅ぼされたことが、ソビエトのみならずロシアをも崩壊させたのだと見る。それ以降、資本主義や国家権力とズブズブに癒着したニューリッチ天国が、全世界に漏れず、この国にも広がっていったのだ。

 カネフスキーのフィルムは、自身の少年時代の記憶に基づいていると言われる。ひょっとすると、彼自身も、ブラトノイの末裔だったのかもしれない(無実の罪ながら、八年間の投獄経験もある)。実際、この『ひとりで生きる』(1991年)に続いて、『ぼくら、20世紀の子供たち』(1993年)を発表、さらに一本撮った後、カネフスキーは沈黙し、忽然と姿を消すことになる。まるで、ワレルカのように。その沈黙と失踪は、内村のいうように、ソビエトのみならずロシアも崩壊したことを、身をもって雄弁に語っているようにも思える。

 ブラトノイのワレルカが、収容所地帯で「ヤマモト」なる捕虜(彼の歌う日本の唄が、作中ずっと響いている)と言葉を交わすシーンには、まるでカネフスキーと内村が交わっていたかのような錯覚すら覚える。そして、「俺なんかいない方がいいか! 死んだ方がいいのか!」と叫びながらカメラを凝視するワレルカが、冷たい大海を泳いでいくという、激しく胸を打つラストシーン。だが、ここでも、シベリア抑留者石原吉郎の言葉が思い出されてならない。

 「河はついに、目指すところへは至らぬだろう。それが、河の流れることの意味である。よしんば海へあふれる規模で、エニセイ河が流入したにせよ、河はおのれのこころざしに導かれて、海を、さらに北へ向かうはずだと私は思った。海よりもさらに海を流れる河。私はこの言葉に一つの志向を託送したかったのだと思う」(石原吉郎「海を流れる河」)

 ひとりで流れていく河が、心安らぐ海に抱かれて終焉を迎えることは、この先もきっとない。ひとりで、北へ、さらにまた、北へ。だが、ブラトノイは、そして収容所の抑留者は、いったいどこへ向かおうとしていたのか。死の欲動? 私にはよく分からない。私は、これからもきっと、内村剛介石原吉郎を読み、カネフスキーを見続けるだろう。

中島一夫