チェンジリング(クリント・イーストウッド) その1

 最近、映画を見に行けていないので、改めて、昨年の映画の中でも圧巻だったこの傑作を、2回にわたって。

 「真実の物語」と始まるこの作品のストーリーは、きわめてシンプルだ。失踪した息子を5ヶ月後に警察が発見、だが連れ戻されたのは別の子だった。母は、腐敗しきっていて一向に再捜査にとりかからない警察と闘いながら、息子を探していく――。

 2009年は、この『チェンジリング』といい、ポン・ジュノの『母なる証明』といい、警察(公権力)と闘う「母」の年だった。彼女らは、まさに「共同体永遠のアイロニー」(ヘーゲル)たる「女」であり、現代のアンティゴネーだ。そして、アンティゴネーが登場する背景は、市民社会の衰退にほかならない。

 『チェンジリング』の母(アンジェリーナ・ジョリー)は、警察(=理性)から徹底して「女」(=非理性、狂気)と見なされる。取り替えられた子供と駅で対面するシーンでも、ろくに警察側の説明も聞かずに列車に向かって走り出す彼女を、警察は「女ですね」と表現する。警察と結託して、偽の子を本人だと強弁する医師は、医学的見地から息子の肉体的変化を証明し、「母親の私に息子が見分けられないとでも?」という問いにも、「母親だからこそ客観的になれない」と冷たく突き放す。

 やがて、彼女は精神病院に強制収容されていくが、公共的=客観的理性を持たない「狂気」として「女」ばかりが集められたこの場所で、彼女は売春婦らとともに矯め直されていくのだ。取り替えられた子を、息子本人だと見なすようになるまで。

 こうした警察組織の腐敗と公権力の濫用に対抗する勢力として、教会の牧師(ジョン・マルコヴィッチ)が登場する。彼は、教会の信徒でもない彼女のために祈り、また彼女に接近しては事件にコミットしていく。聖職者=知識人たる彼は、教会での演説やラジオ番組を通じて事件について主張することで、日々ひどくなっていく警察の腐敗を告発していこうというのだ。

 もちろん、アンジェリーナ・ジョリーにとっては非常に心強い存在であり、やがて敏腕弁護士をつけることが出来たのも彼のおかげなのだが、両者の闘いは根本的に異質である。「私は警察と闘いたいわけではなく、息子を取り戻したいだけなんです」という彼女の言葉に、それは端的に表れているだろう。

 警察に非を認めさせ、裁判に勝利すると、事態は明確になる。牧師は、彼女に、すでに息子がどこかで死んでいることを受け入れさせ、自身のためにも次の人生へと進んでいくよう進言する。彼の闘いの目的は、あくまで警察に勝利することであり、市民社会を理想のそれへと導くことなのだ。

 したがって、一般的で公共的な理性に着くという点では警察と方向をともにしており、最後の最後で馬脚をあらわすように、「息子はすでに死んでいる」という「知=情報」を警察と共有してしまうのである。もちろん、彼女は頑として譲らない。「息子は生きています。存在を感じます」。

 彼女に、そう信じさせているものは何か。おそらく、ここに、この作品の核心がある。

中島一夫