J・エドガー(クリント・イーストウッド)

 歴代アメリカ大統領も恐れたという、あの豪腕のFBI長官、J・エドガー・フーヴァーを演じるのが、なぜレオナルド・ディカプリオなのか?

 そんな最大の疑問も、今作の脚本が、ガス・ヴァン・サント『ミルク』のダスティン・ランス・ブラックと聞いて「もしや?」となり、今回浮かびあがるJ・エドガー・フーヴァー像が、ゲイでマザコンだった(事実かどうかは微妙なようだが)というものだと知って「やはり」となる。さすがはイーストウッド、その華麗な裏切りには思わず「にやり」とせずにいられない。

 精巧な老け顔メイクを施された、ディカプリオ演じる老年のフーヴァーが、口述筆記で若き日の回想を綴りながら、作品はそれに沿って時間を行きつ戻りつ進行していく。FBIの前身である司法省捜査局時代から、FBI設立にこぎつけ、さらに長官として君臨したのち、互いの権力を牽制しあいながらも、通算八人の大統領時代を駆け抜けたこの男のヒストリーは、まさにアメリカ現代史を体現したものといえよう。

 冒頭、すべての始まりを告げる事件が映し出される。フーヴァーが仕えるパーマー司法長官宅をはじめとする連続爆破事件が勃発し、ばら撒かれたビラから共産主義者の仕業と判明、ここからフーヴァーの生涯を賭けた共産主義アメリカの敵との闘いの火蓋が切っておろされる。

 この同時多発爆破テロは、露骨に9・11を想起させる。そういえば、当時外務官僚だった佐藤優も、9・11後に、アルカイダ型の国際的なテロ組織による世界革命の脅威に対抗するために、本格的なインテリジェンス機関を日本に設立すべく動き出したのだと語っていた(柄谷行人『「世界史の構造」を読む』)。

 かねてから佐藤は、反革命の尖兵=「西側」外交官として、ソ連を崩壊に導く工作に動いていた。リトアニア、ラトヴィア、エストニアの沿バルト三国の独立派をサポートし、モスクワの異端派に働きかける。このとき使われたのが、フーコーデリダラカンなどのフランス現代思想や、アドルノ、ホルクハイマーらのドイツ・フランクフルト学派の思想だったという。結局一番効果的だったのは、きわめて古典的な、人権やナショナリズムに訴える手法だったというが、現代思想が、ソ連崩壊というリアルな政治とは無縁に受容され消費されたのは日本だけではないのか(また、そのことを明確に指摘したのは武井昭夫だけだ)。インテリジェンスとは、常に「思想=情報」戦争の問題なのだ。

 したがって、フーヴァーの共産主義との闘いが、FBIという巨大情報機関の設立に帰結していったのは必然だった(その情報整理と合理化の発端が、国会図書館の図書カードだったとは!)。口述筆記の役を務めた若い局員は、平気で法をねじ曲げ、至る所に盗聴を仕掛けていた当時のフーヴァーのやり口を聞いて、「少しやり過ぎだったのでは」と口を挟むが、フーヴァーは「あのときそうしなければ、君は共産主義の国民として生まれていたんだぞ!」と一蹴する。

 すでにインターナショナルな共産主義の脅威が「過去」のものとしか感じられない局員に対して、第一次大戦からロシア革命世界恐慌後の、一寸先はどっちに転ぶか分からない思想戦争をくぐりぬけてきたフーヴァーにすれば、少しでも緊張を緩めれば、いつだってアメリカは世界革命に覆われ得たのだという思いがぬぐえないのだ。あの、忠誠を誓った長官宅のテロの記憶とともに。

 そう、フーヴァーが、最も重きを置いていたのは忠誠心だった。決して互いに嘘をつかず、心から信頼しあえる関係。それがすべての秩序の基礎であり、またフーヴァーの求める「愛」だった。彼にとって、それこそが最愛の母との絆であり、また秘書のヘレン・ガンディ(ナオミ・ワッツ)や片腕のクライド・トルソン(アーミー・ハーマー)との、愛と信頼で結ばれた堅い関係だった。逆に言うと、他の誰をも信用していない男として描かれている。

 だが、トルソンとの愛は、フーヴァーにとって自己矛盾以外の何物でもなかった。なぜなら、いつも「強い男になるのよ」と教え諭していた母は、断じてホモセクシャルを認めなかったからだ。それは、そのまま最愛の母への裏切りであり、しかも母の保守性は、ゲイ=マイノリティーが市民権を獲得する前夜のアメリカにあっては、何ら特異なものではない。当時フーヴァーの愛は、周囲はもちろん、自分自身すら認めるわけにはいかないものだったのだ。

 物語の末尾で、フーヴァーが、マーティン・ルーサー・キングノーベル賞受賞を阻止する工作をはかる一方、ニクソンが新大統領の座につきフーヴァーに敵対心を燃やしていくことは、極めて示唆的だ。これらは、フーヴァーの最期が、世界革命たる「68年」を象徴する黒人というマイノリティーによる公民権運動と、ついにアメリカが共産主義陣営と手を結んでいくことになるニクソン訪中という二大トピックを目前にしたものだったことを示している。

 だが、フーヴァーが「キングは、社会に無秩序をもたらす共産主義者だ」と叫んでも、もはやそんな感覚は時代遅れだというように誰も耳を貸さない。その後、堰を切ったように広がっていくマイノリティー運動が、自由で平等な「民主主義」に形を変えた共産主義革命の一環にほかならないことを、それを必死に塞き止めようとしていたフーヴァーほど敏感に感受していた者もいなかったかもしれない。

 最大のジレンマは、ほかならぬ生涯革命と闘ったフーヴァー自身の中に、革命が宿っていたことだ。フーヴァーは、マイノリティー運動の席巻を最も恐れていながら、最もそれを望んでいた存在ではなかったか。

 結局、フーヴァーが、公然とゲイをカミングアウトし、トルソンへの愛を堂々と表明できる時代を生きることはなかった。ラスト近く、死の直前にあるフーヴァーは、一度倒れて以降ろれつが回らなくなったトルソンと、柔らかな日差しが差し込む食卓をともにする。そして、最初で最後の優しいキスをするのだ。出会ったときと同じく、白いハンカチーフが、手から手へ静かに手渡されていく。前作『ヒアアフター』が、ついにキスをしない二人の物語だったとしたら、今作はたった一度の禁断のキスの物語とでもいおうか。老いた男同士の、しかもおでこへの口づけが、こんなにも胸を打つ作品を、私はほかに知らない。

中島一夫