引き裂かれた女(クロード・シャブロル)

 シャブロルを見ると、いつもつい「いい気なもんだ」とつぶやきたくなってしまう。良くも悪しくも、典型的なフランスのブルジョアの姿が描かれているからだ。

 見るからに若くてキュートで活発なガブリエル(リュディヴィーヌ・サニエ)が、なぜあんなにもあっさりと初老の作家シャルル(フランソワ・ベルレアン)の軍門に下ってしまうのか。それなりに理由や必然性があるはずだが、シャブロルはそれを一切無視する。誰かを好きになってのめりこんでいく感情のつぶさな描写など、余裕あるブルジョアにとってはどうでもいいことだとばかりに。

 これは、現在流通している映画や小説にもいえる。そこでは、なぜ好きになり、また嫌いになったのかはほとんど描かれない。だが、これは、「恋愛は理屈じゃない」というブルジョアの「気分」の悪しき蔓延ではないのか。

 もちろん、ガブリエルの胸中を察することができなくはない。彼女は「お天気キャスター」だ。華々しい業界の中に身を置きながら、どこかそれに染まりきってはいない、純粋な初々しさを備えている。だからこそ、この世界に引きずり込み、いろいろな色に染め上げてやろうという邪悪な欲望の対象にもなっていく。「天気の仕事に満足しているのかい?」上司や関係者の誘惑はひっきりなしだ。

 そんななか出会った作家のシャルルは、業界に接していながら、その喧騒とは適当に距離を置こうとするように、自然豊かなリヨン郊外に住んでいる。業界の周縁にいるという意味で、ガブリエルと似たポジションにいるともいえる存在なのだ。おそらくは、この条件が、何となく二人を接近させていったのだろう。

 二人の本格的な出会いの場所も、決して大きくはない、こじんまりとした街角の本屋だった。そこでシャルルの出版記念サイン会が行われたのだ。また偶然にも、その本屋を営んでいたのはガブリエルの母親だった。ガブリエルが、日ごろ業界人に対して施していた武装を、このときばかりは解除していただろうことは想像に難くない。

 だが、彼女は決して作家の読者ではなかった。ここに、シャブロル特有の「悪意」がある。「はじめから、男に興味や敬意を抱いている女を、徐々に自分色に染め上げ愛に溺れさせたとして、いったい何が面白いのか」。あとは、作家が、店に並んだ新刊に、まるでサインでも書くようにさりげなく待ち合わせ場所を書いてガブリエルに渡せば、その後の物語は、勝手に彼女が読みこみ、また続きを紡ぎだしていくだろう。

 もちろん、監督は、安易に初老の作家に「天国」(彼が彼女を引きこむ秘密の部屋は「天国」と名づけられていた)を与えはしない。作家にとっての最大の誤算は、ガブリエルがあまりにも純粋であったために、フィクションの戯れをまったく理解しない「読者」だったことだ。彼女は、作家の弄する物語を誤読し、「本気」で彼を求め、「真実」の愛を求めてしまう。本作の隠れたテーマは、この「本気=真実」と「フィクション」の対立・葛藤にある。

 「本気」の側につく人物として、作家からガブリエルを奪おうと彼女に近づく、実業家の御曹司たるポール(ブノワ・マジメル)が登場する。ぶっきらぼうに物を放り投げたかと思うと、指をくわえて甘えた表情を見せるポールには、若さゆえの全能感と劣等感が同居している。ガブリエルが自分を見てくれないと見るや、突然彼女の首を絞めたりする彼の一つ一つの行動は、見るに耐えないほど青臭くイタい(後々彼がそうなってしまった「過去」が語られるにしても)。

 この若い二人の、社交界には場違いな「本気」が、のらりくらりと虚飾に満ちた「フィクション」の世界を生きようとする作家の日常に、その後いかなる恐慌をもたらすのかは触れずにおく。その「恐慌=強行」の後始末たる裁判においても、ガブリエルは「自分の真実を述べるしかない」というように、フィクションではなくあくまで「真実」の側に立とうとする(おそらく作家に連れていかれた秘密クラブでの行為を、赤裸々に告発したのだろう)。

 だが、ラストで、自らの胴体を「引き裂かれる」というマジックの舞台に立つ経験をしたことで、彼女はフィクションの何たるかを身をもって知っていくことになる。胴体を切られながら観客から顔を背け、はらはらと涙を流すガブリエル。そしてその「仮死」の後、「蘇生」した彼女が見せる晴れやかな表情は、確かに掛け値なしに美しい。だが、このフランス「ヌーヴェル・ヴァーグの巨匠」の映像美は、やはり何度見ても私には贅沢すぎる。

中島一夫