あぜ道のダンディ(石井裕也)

 「宮田淳一、なお後方。まだ上がってこないか。最後の直線勝負か。宮田淳一、なお後方!」。

 北関東とおぼしき地方都市のあぜ道を、自転車で行く中年男。自らを競走馬に見立て、自ら尻を叩いてムチを入れ、実況中継しながらひらすら自転車をこぐ光石研(宮田)の姿。

 映画出演は140本以上にのぼるが、主演作は32年ぶりだという。その光石が出てくるだけで、何やら地方の匂いがしてくるという存在感はさすがだ。

 対照的に、光石の出ない青山真治の新作『東京公園』の東京の画は、まるで魂を抜きとられたように、幽霊たちが徘徊するリアリティのない空間になってしまっていた。もちろん、青山は、そのように「東京」を描こうとしたのだろうが。

 「なお後方」という声とともに映し出される、ラストの光石のアップは、だがその力強さとは裏腹に、おそらくもう「宮田」は、ムチが入っても一向に上がっていくことができずに、「後方」のまま人生のレースを終えていくだろうことを想像させる。何ともいえない哀しみ。

 振りかえってみれば、冒頭で、やはり自ら尻にムチを入れた宮田は「最後の直線」で駆け上がり、「見事一着でゴールイン」していた。だが、その後の宮田の姿を、すでに映画を通して見てしまった観客は、あの冒頭の姿が夢想にすぎなかったことを知る。冒頭とラストの、ズレをはらみながらの反復が、より一層のペーソスを誘う。

 実際、宮田は競馬をやるわけではない。金がないからだ。運送業の休みの日に、もっぱらTV観戦で競馬を楽しんで……、いや「哀し」んでいる。馬たちが「走らされている姿」が、自分に重なってくるというのだ。

 ゴルフのスイングの練習をするものの、実際にゴルフをするわけではない。息子と一緒にやろうと対戦型ゲームを買ってくるが、実際には機種を買い間違ってできずじまいだ。娘を叱ろうと思うが、他人の娘は叱れても、自分の娘をきちんと叱ることはできない。胃の痛みから、妻と同じように、近く自分も胃がんで死ぬと思い込み遺影まで撮影するが、彼が実際に死ぬことはない。唯一の友人、真田(田口トモロヲ)と、お決まりの居酒屋のお決まりの席で、ひたすらぐだぐだする毎日だ。「真田、俺は、がんにもなれないのかよ…」。

 思ったこと、行動したことに、常に実際の姿は裏切られていく。確かに、宮田のそうした姿は格好いいものではない。だが、発想を逆転させてみてはどうか。実際の姿は違うけれど、必死にそうなろうと思い行動すること。実際にカッコいい男でなくても、必死にカッコいい男を目指そうとすること。実際は「あぜ道」の自転車だが、いつも一着の競走馬を夢見ること。これこそ、宮田の目指す「ダンディ」、男の美学である。

 このドンキホーテのような宮田を、いつも支えているのがサンチョパンサの真田だ。二人は、中学時代にいじめられたとき、「将来はカッコいい男になろう」と誓い合った仲だ。

 真田は、会話もままならない宮田と子供たちの間を、潤滑油のような役割で取り持とうとする。その結果、子供たちについて自分も知らないようなことまで知ることになる真田に、宮田は腹を立てもするが、何だかんだ言って、結局はお互いがお互いを必要としている二人の姿は、笑いとともに涙を誘う。光石研田口トモロヲの掛け合いがまた絶妙だ。

 真田は真田で、親は死に、妻にも逃げられ、子供もいない。親を介護するために仕事もやめ、会社の同僚もいない彼は、宮田以上に孤独な日々を送っている。だから、宮田の子供たちが、東京の大学進学が決まり、家を出ていってしまえば、彼らは本当に身を寄せ合って年を取っていくほかないだろう。二人の行く末には、無縁社会化する地方の影がすでに忍び寄っている。画面に表れない「あぜ道」の先は、狭く先細っている。

 それでも、二人は、カッコよさの象徴たる帽子を互いにかぶり合い、「ダンディ」を貫こうとするだろう。おそらく、実際は「後方」から上がってくることはできない。だが、彼らは前方をうかがう姿勢だけは、きっと失わないだろう。

中島一夫