愛の勝利を ムッソリーニを愛した女(マルコ・ベロッキオ)

 「反体制右翼マガジン」と銘打たれた『デルクイ』創刊号で、外山恒一や三浦小太郎が、ムッソリーニの再評価を促している。外山がムッソリーニに傾倒したのは、自らの遍歴と重なったからだという。

ムソリーニ自身が、かなりアナキズムに近いマルクス主義者としてずっと活動してきて、それがしかし左翼の間で孤立を深めていき、その果てに当初は左翼運動の新しい展開のつもりでファシズムという運動を始める。そういうところが、ぼく自身の、最初は素朴な戦後民主主義者であり、それがどんどん極左化して、その果てに左翼の間で異端視されてしまうという経験に……自分と同じようなムソリーニの伝記的な事実というのを非常に切実なものとして受け取った。

 ベロッキオの新作は、まさにその、ムッソリーニ社会主義者からファシストへと転じて行く過程を描いている。その際大きな役割を果たした、ムッソリーニの愛人イーダ・ダルセル(ジョヴァンナ・メッゾジョルノ)という、歴史上埋もれてきた名前を明るみにしていくのが、作品最大の見どころだ。

 作品(が基にする資料)を信ずるならば、ムッソリーニ第一次大戦への参戦を主張し、平和的な社会主義者らと袂を分かっていくとき、新しい新聞発行の資金を準備したのがほかならぬイーダであった。彼女は、家財のすべてを投げうってムッソリーニに賭けた。

 この新聞=メディアが、ムッソリーニファシズムを生み出させる母胎となった。したがって、いわばイーダこそはファシズム「母」だといえる。ムッソリーニとイーダとの息子役を、若き日のムッソリーニと二役でフィリッポ・ティーミに演じさせた(ムッソリーニが憑依したかのように、息子が演説を真似るシーンもある)ベロッキオの意図も、おそらくそこにあったはずだ。イーダは、言われるように「共同体のイロニー」たるアンティゴネーというより、むしろ(ファシストの)妻であるとともにまた母でもあるという、『オイディプス王』のイオカステを彷彿とさせる。

 イーダの悲劇は、ムッソリーニにメディア=新聞を与えることで、自身と彼との間にメディア=媒介を差し挟んでしまったことにある。映画では後半、イーダのもとを離れたムッソリーニの姿は、一貫してアーカイヴによってムッソリーニ本人の映像に差し替えられる。もはや、出会ったころの体温が感じられたムッソリーニ――生声の演説を聞き、追ってくる警官を巻くために路上で抱擁し口づけを交わし、何より体を求め合った――を直接的に感じることは叶わない。

 妻と子のいるムッソリーニにとって、イーダは邪魔者でしかない。結婚証明書を提示できないイーダが、いくら「ムッソリーニの妻だ」と言い張ったところで、戯言としか受け取られない。現に彼女は精神病院に隔離されてしまうだろう。メディアを掌握した者の言説が「真」であり、そこから排除された者は「偽」として歴史から抹殺される。そして、実際抹殺されてきたのだ。

 病院のイーダが、チャップリンの『キッド』に涙するシーン。イーダの涙には、『キッド』さながらに我が子と切り離された悲しみとともに、独裁者を演じたこともある画面上の男が、もはや(画面や紙面の)「向こう側」の人でしかないムッソリーニと重なって見えたこともあるのだろう。新聞(の写真)であれ、映画であれ、メディアは切り離すと同時に現前させる。だからこそ、降りしきる雪のなか、病院の外壁=フェンスによじ登って、新聞、映像、ラジオといった一方向的なメディアの「向こう側」にいるムッソリーニに向かって、必死に手紙を放り投げようとするイーダの絶望的な姿が胸を打つ。

 それにしても、今回はじめて、ファシスト外山恒一のスタンスが腑に落ちた気がする。本人も言うように、それは、すが秀実の68年論の延長に出てくる発想なのだ。

……すが秀実さんの〝全共闘は勝利している〟論とも結びつく話ですが、世間一般的には、全共闘は敗北して、左翼運動も壊滅して、みたいに思われているけれども、実際には全共闘に発する「反差別」的な問題意識、今で云えば「PC」ですね、そういうものが体制側の自民党民主党の人たちにさえ共有されていますし、あるいは環境問題・エコロジーの問題意識だって全共闘発祥ですよ。実は、気づかないうちに世の中は、いつのまにかむしろ左傾していて、とすれば、左傾した国家権力・体制に反抗するために、左翼ではなく右翼の立場に身をおいた方が、現実に対応しうるのではないか。

 私自身は、「PC」と耳馴染みのよいタームで呼ばれた瞬間、それはすでに68年の反差別闘争がネオリベ体制に簒奪されたものでしかなくなったと考える。同様に、反原発運動を「脱原発」として、まさに反体制を脱色したうえで回収をはかろうとする現在の政権(首相?)や体制が、左派的なものだとはまったく思わない(しばらくは、日本において原発建設など不可能なのだから、声高にいうまでもなく今後は「脱原発」にならざるを得ない、というようなことは、(ネオ)リベラリストですら普通に言っているではないか)。

 だが、68年以降、次々と反体制を骨抜きにする体制の不気味さ嫌らしさを打破するために、いっそムッソリーニをもってくるべきだとする思考は、今あえてスターリニズムをもってくるジジェクの姿勢とも重なって、その真摯さ率直さにおいて共感できる。

中島一夫