1968年と宗教

 少したってしまったが、先日12月15日、京大人文研で行われた公開シンポ「1968年と宗教」の後半から聴いた。講演者に武田崇元すが秀実、聴衆に津村喬外山恒一といった錚々たる面々が一堂に会するという、またとない機会だった。配布資料が膨大で、正直いまだ咀嚼しきれていないので、素朴な感想のみを。

 一言で言えば、左派(左右を問わず?)もいよいよ宗教を真正面から考えねばならなくなったということか。最近話題のジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか』などを見ても、宗教に一章を割いてその有効性を論じている。オルグの「戦場」として、いまや宗教が浮上してきているということだろう。少し前までとりあえずは共有されてきた、近代とは「脱魔術化=脱宗教」の時代であるという前提は崩れつつある。日本のオウム事件清算され、アメリカの9・11も乗り越えられた?

宗教を超自然的な行為者に対する一連の信念としてとらえるのなら、誤解は避けられない。そのような信念は、愚かな妄想と、さらに言えば私たちの脳を巧妙に利用する寄生虫とさえ見なされるのがオチだからだ。しかし宗教に対して(帰属に焦点を置く)デュルケームの、また、道徳に対して(マルチレベル選択を含めた)ダーウィンのアプローチを採用すれば、全体像は違って見えてくるはずだ。」(『社会はなぜ左と右にわかれるのか』)

 ダーウィン+デュルケーム。とりわけデュルケームの、個人レベルではなく集団や共同体レベルの功利主義。宗教とは「個々のメンバーを一つの道徳共同体へと統合する、信念と実践を一体化させたシステム」であり(ハイト「宗教とはチームスポーツだ」!)、「私たちは、低次の存在(個人)と高次の存在(集合体)のあいだを行き来するよう(自然選択によって)設計された、ホモ・デュプレックスである」。

 まがりなりにも、近代合理主義に根差していたマルクス主義による党の形成は、冷戦崩壊以降いよいよ行き詰まり、それに代わる宗教的な道徳共同体の形成が模索されているということか。

 こうした宗教によるオルグを、特にインテリは概して軽蔑してきたが、今やそれでは民衆を獲得できないということだろう。そういえば、シンポの主催者である栗田英彦も、「知識人」をキーワードに総括的なコメントを述べていた。

 さて、後半最初の武田崇元の講演は、戦後から1968年を経て80年代にかけて、「民衆宗教」観の変遷を追ったものだった。なかでも、旧左翼の村上重良の「土俗」蔑視から、新左翼梅原正紀による「土俗」の革命性重視へ、という180度の転換を焦点化。講座派史観の村上にとっては、土俗やその共同体は、近代合理主義によって乗り越えられるべき「半封建」でしかない。だが、科学重視の近代合理主義がリミットに達し、一気に批判の対象へと転じていったのが68年だった。土俗的、呪術的なもの、ヒッピー、ニューエイジカウンターカルチャー、オカルト、スピなどが、近代合理主義に対する「代替知」として必然的に要請され、民衆の革命性の結集軸として続々と導入されていった。にもかかわらず、インテリ左翼は、そうしたものを蔑視し忌避してきた結果、決定的に民衆を捉え損なっていったのではなかったか。梅原正紀の批判は、その点をついたものだった。ゆえに今なお、いや今こそ有効だろう、と。

 続く、すが秀実の講演は、だがそうした68年の革命性も、反天皇制を明確に掲げてこなかったつけとして、結局は戦後天皇制という「宗教」に包摂されてしまったといえるのではないか、と。敗戦という神の死を逆手にとって、国民全体が天皇の下へと包摂される(というか、それによって国民として(再)統合しようとする)ようなオルグを可能にしたのが、柳田国男の「神学」であり、いわゆる「祖先崇拝=トーテミズム」にほかならない、と。

 戦後天皇制とは、敗戦によってトーテム(象徴)化した天皇を、国民全体の「祖先」として崇拝せんとする「トーテミズム」である。八・一五で国民主権は成就したとする「八月革命説」(宮沢俊義)は、フロイト「トーテムとタブー」の影響著しいケルゼンの「国民主権はトーテミズムの仮面」説をふまえることで、国民主権という革命性を、天皇制=トーテミズムという宗教性へと回収するイデオロギーだった。「戦後民主主義」が天皇制という宗教の「仮面」である以上、それが現在天皇制に回帰しているのも、その表現たる戦後憲法を守ろうとするのも必然だろう、と。

 打ち上げでの私的な会話だが、外山恒一も「インテリは天皇制廃止でいいけど、大衆には無理。依然として天皇制という神話、物語が必要」と述べていた。オルグを実践する活動家の皮膚感覚だろう。聞いていて、中野重治の言った、国民の「天皇を「いただく」ことへの愛着」というやつを思い出した。中野は、国民のその「純粋」な「愛着」と、「天皇制護持商売人」の欺瞞的なそれとを「弁別」しなければならないと言った(「文学者の国民としての立場」1946年)。

 その弁別が今でも有効なのか、また中野自身、例えば共産党幹部として憲法発布直後に柳田宅で柳田と対談し、「天皇制護持商売人」の片棒を担いだのではないかという疑問は今は措く。いずれにせよ、今回のシンポは、この「愛着」に手を突っ込むには、宗教的なものを思考せざるを得ないことを痛感させるものだった。「1968年と宗教」。68年が近代合理主義のリミットである以上、それは不可避的に「宗教」という脱近代のとば口でもあったのだ。

中島一夫