リミッツ・オブ・コントロール(ジム・ジャームッシュ)

 空港のトイレでゆっくりと太極拳を行なっている男が、鏡に映っているかのように、いきなり逆さまに映し出される。「孤独な男」というコードネームを持つ殺し屋だ。彼は、その後「自分こそ偉大だと思う男を墓場に送れ」というミッションを受けることになる。同系色のシャツとスーツ上下をクールに決めた、ジャームッシュ作品におなじみのその男、イザック・ド・バンコレは、スペイン中を経巡りながら、仲間らしき者ども(これまたジャームッシュファミリー)と街角のカフェで落ち合ってはマッチ箱に隠したメッセージを取り交わし、徐々にターゲットへと迫ってゆく――。

 「自分こそ偉大だと思う男」とは、この世界のシステムを支配している男のことのようだ。だが、世界のシステムとはいかなるものか。

 この世界において、我々は、全員が直接民主的に政治を執り行うことが出来ないということになっている。そこで選挙によって、他の誰かに自らの権利を表象=代行(representation)してもらわねばならない。これこそが、世界を支配するシステムというものだ。完全なセキュリティを備えた荒野の要塞には、システムの頂点に君臨する、この世界の代表者がいるらしい。この滑稽な設定にふさわしく、ビル・マーレイ扮する世界の代表者は、例によってその滑稽な存在感と演技でそのありさまを上演(representation)しているだろう。

 だが、男は、あっさりと監視網をかいくぐり、いつのまにか代表者の執務室に座っている。
 「どうやって入ってきた?」「想像力を使った」――。
 ストーリーらしきストーリーもないまま展開されてきた映像詩のようなフィルムは、この瞬間、あの「想像力が権力を奪う」という1968年5月フランスで叫ばれた革命のスローガンを、見る者に突然思い出させるのだ。「想像力」(イマージュ)こそが、権力による「支配のリミット」にある!(「リミッツ・オブ・コントロール」というタイトルは、いち早く「管理社会」を分析し始めたバロウズのエッセイからとられている)。

 そういえば、男は、ことあるごとに美術館へと足を運び、絵画を鑑賞していた。その後では、皿に乗った実在の洋ナシも、静物画のように見えてくる。このとき、彼は、絵画を現実の再現(representation)として見ているのではない。現実そのものをイマージュとして見ているのだ。宮川淳風にいえば、イマージュは現実の再現ではなく、単に現実に「似ている」のである(『鏡・空間・イマージュ』)。もはや「これ」は「あれ」の代理=代表ではない。このとき、この世界の表現(representation)システムの自己同一性は、決定的に揺らぐだろう。

 冒頭からちりばめられた「鏡」のモチーフ、イザックの前に左右に置かれた「2つの」エスプレッソ、メッセージを交換するための「2つの」マッチ箱、素肌の裸婦と透明なレインコートをまとった裸婦、「あの」現実に似た「この」イマージュたち……。もちろん、それらを映し出している「この」映画自体が、現実に似た姿をしたイマージュなのだ。

 「偉大な男」は「孤独な男」(自己同一性を欠いた「非人称の男」というべきだろう)に問う。「この世界のシステムの仕組みを知っているのか?」「“自分なり”に知っているつもりだ」。これは、代表制に対するイマージュの闘いなのだ。

 また、男が日課にする太極拳は、権力の鎧を身体性から脱構築するものだろう(アメリカの権力を中国で換骨奪胎する?)。さらに、彼は、頑なにスペインでスペイン語を話さない男でもある。この太極拳(気功)と「国語」批判という取り合わせは、またしても68年的な津村喬という存在――革命を、「自分の身体と言葉をとり返す」という身体性と言語のレベルから考えていた――を想起させてやまない。

 だが、宮川淳もいうように、イマージュには、その可能性の核心において「アキレス腱」がなかったか。

 「…イマージュは…もはや、単なる対象の写しをこえて、現実のより真実で、本質的な把握、現実よりもすぐれたもうひとつの〈現実〉になるかに見える。しかし、そのとき、そのこと自体によって、この可能性のアキレスの腱となるもの、それはまさしくそれがイマージュにすぎないということではなかっただろうか。」

 イマージュがイマージュに過ぎなくなるとき、それは現実に対して劣位を帯びた比喩となる。津村が、当時から「政治権力を奪えばいいことが起きるなんて全然思ってなかった」ので、結局は、「権力闘争といったものは比喩としか思ってなかった」(『LEFT ALONE』)と暴露したのも、同じことだろう。

 ついに、映画は、現実の権力闘争に「似ている」「比喩」でしかないのだろうか。

中島一夫