空気人形(是枝裕和)

 「現実の女は面倒だ」という板尾創路演じる中年男が、日常(食事も仕事のグチもセックスも)を「共に」するのは、スタイルも顔も完璧な「空気人形」(いわゆる「ダッチワイフ」)。だが、その人形が、ある日心を持ち、ビデオ店の店員(ARATA)に恋をする――。男のフェティッシュな欲望が加わった、現代版ピノキオというところだが、ペ・ドゥナの「人形」ぶりが気になって見に行った。

 謎はただ一つだ。なぜ、ARATAは、ペ・ドゥナに「空気を抜かせてほしい」と懇願したのだろうか? それ以外は、すべて作中で説明されている。
 業田良家の漫画(「ゴーダ哲学堂 空気人形」)が原作なので、そちらを読めば分かるのかもしれないが、少なくとも、映画の中では今一つ明らかになってはいない。

 素直に見れば、かつて恋人を失ったARATAが、「空気人形」のペ・ドゥナの空気を抜いたり吹き込んだりすることで、その死と再生の儀式を通して、自らの喪失感を乗り越えようとしたということだろう。

 だが、それでは、このとき二人がなぜ全裸なのかが説明つかない。やはり、これは、擬似的なセックスシーンと見るべきだろう。おそらく、ARATAは、最初にアクシデントで「空気人形」に息を吹き込んだ時の快楽が忘れられなかったのだ。それは、好きな彼の息で全身を満たされたペ・ドゥナの方も同様だろう。彼は、彼女に問う。「空気が抜けたとき、気持ちよかった?」

 イケメンのARATAは、実は変態だった――。そう考えるほかない(彼のバイトの後釜が盗撮男であることも、それを示唆している)。「あなたのために何でもしてあげる」というペ・ドゥナに、「本当!」と目を輝かせ、彼は何度も何度も彼女の中に、自分の息を入れたり出したり繰り返す。

 ひょっとして、ARATAは、その行為の果てに心中をはかるつもりだったのかもしれない。空気を「入れさせて」ではなく「抜かせて」と懇願し、彼はあわてて「もちろん、すぐに入れるから」と付け加えていた(すでに命綱の空気入れを捨て、一回きりの生を選択したペ・ドゥナは、もし空気を入れてもらえなければ死んでしまう)。

 すると、その後ペ・ドゥナが、かつて「自分も似たようなもの(=空気人形)だから」とつぶやいていたARATAの腹をかっさばいて、お返しとばかりに空気を出してあげようとしたのも、あながち無知や誤解によるものではなかったのかもしれない。あの場面のARATAには、「あなたのために何でもする」という彼女に対して、「じゃあ、俺を殺してくれ」と答えるような雰囲気すら漂っていた。

 そう考えると、これは、ほとんど三島由紀夫憂国』の「麗子」(=零子―霊子―空気人形?)が目にする切腹シーンのパロディではないかとみることもできよう。登場人物たちも皆「からっぽ」の「空気人形」だと言われるとき、そこに三島―村上春樹的な主題(=主体がない、『誰も知らない』?)を見出さない方がかえって不自然だろう。

 そして、村上作品に顕著な、男の話に頷いては性欲処理を受け入れる女性は、この作品ではさらに進んで、心を持ったダッチワイフと化している。それを韓国の女優に演じさせることに、フェミニズムやら従軍慰安婦問題やらを持ち出さないまでも、ゴミと化した空気人形が「キレイ」と言われるラストシーンは、「美(学)化」などという領域をはるかに踏み越えて、そこには「これは人間ではなく、ましてや韓国の女優などではない。あくまで無国籍な「空気人形」なのだ」というエクスキューズめいた居直りすら感じられる。

 もちろん、ペ・ドゥナを殊更に「韓国の女優」と捉えるのも逆に差別的だ。だが、ではいったいこの役を、名のある日本の女優が演じることがどこまで可能だろうか。そう考えてみれば、事態はより明瞭になるはずだ。

中島一夫