何も変えてはならない(ペドロ・コスタ)

 こういうことを書くと、きっと映画を「愛する」映画関係者や批評家、シネフィルなどから叱られるのだろうが、『骨』以降、ペドロ・コスタの強度はどんどん落ちているのではないか。

 もちろん、それを、「路地」(『骨』、1997年)から「路地の解体」(『ヴァンダの部屋』、2000年)、そして「再開発」(『コロッサル・ユース』、2006年)へといった図式的な理解で分かったつもりになっているわけではないし、そもそも新作には、思わずくぎ付けになってしまうショットや、忘れがたいシーンがいくつも存在することは疑いない。

 特にこの新作では、ジャック・リヴェットの『ランジェ公爵夫人』などの主演を張った女優としてではなく、歌手としてのジャンヌ・バリバールをはじめて見る/聴くことができ、個人的にはそれだけでも貴重なフィルムだったといえる。そのリハーサルやライブのシーンには、今まさに、音楽が生成する瞬間に立ち会っているという、得も言われぬ感動もあった(実際、ドルビーでもないのに、あの音の厚みはさすがだ)。

 だが、すでにタイトルからして、ブレッソンの『シネマトグラフ覚書』の一節、「何も変えてはならない。すべてを変えるために」を反復したゴダール『映画史』を、さらにまた反復したものだ。そのことが、はからずも象徴的に示しているように、この『何も変えてはならない』は、全編がいつかどこかで見たことのある映像だという既視感を、ついに拭い去ることができない。

 ボーカルのバリバールと、ギタリストでかつ編曲家のロドルフ・ビュルジェとの共同作業のシーンにしても、ストローブとユイレの編集作業をフィルムに収めた、あの『映像作家ストローブ=ユイレ あなたの微笑みはどこに隠れたの?』(2001年)の劣化した反復を感じるし、オッフェンバックの喜歌劇『ラ・ペリコール』を、ピアニストの背後左下の固定カメラから捉えるシーンも、それこそストローブ・ユイレの映像の二番煎じを否めない。

 ひとつのアイデアから徐々に音を重ね、やがては曲を作り上げていくプロセスの映像化という点でも、どう見てもゴダールの『ワン・プラス・ワン』の凄みと強度には、やはり及ばないだろう。

 にもかかわらず、映画誌、文芸誌ほか、各誌でさかんにこの作品の特集が組まれているのを見るにつけても、もはやペドロ・コスタは、その種のポテンツを下げた反復や既視感すら、「いや、それは敬意とオマージュに満ちた引用なのだ」と許されていく「巨匠」の席を、すでに与えられてしまったのだと痛感する。

 だが、ストローブ=ユイレならともかく、あくまでそこに映っているのは、もちろんチャーミングな声ではあるものの、歌うたびに半音ずれてしまい、歌曲のレッスンでも講師から何度もやり直しさせられるほど、まだプロフェッショナルとはとても言いがたいジャンヌ・バリバール、なのだ。それが「見逃せない傑作」のようにもてはやされてしまうのは、監督が、ほかならぬペドロ・コスタだからではないのか。

 だが、バリバールにカメラを向けることについては、かつて「二十一世紀の映画は、ペドロ・コスタからはじまる」と最大限の賛辞を捧げた蓮實重彦ですら、「できすぎた罠かも知れない」と警戒を見せているのだ。この新作を「ペドロ・コスタの作品なのだから」と手放しで肯定してしまうことには、殊更の警戒感が必要なのではないか。

 少なくとも、私は、その映像から、『骨』を見たときのような緊張感を感じることはできなかった。

 心地よい作品ではある。
 これは、映画館の席に静かに腰掛け、目を凝らして見るような映像ではなく、ことによると、画面の中のバリバールよろしく、タバコを吸い、ワインを傾けながら、体でリズムを取って「楽しむ」映画なのではないか。
 だが、この作品が、カラーで撮られていながら、わざわざモノクロに脱色されているとなると、それすら禁じられているということなのだろうか。

中島一夫