ベンダ・ビリリ!〜もう一つのキンシャサの奇跡(ルノー・バレ&フローラン・ドラデュライ)

 あるインタビューで、この作品の被写体であるバンド「スタッフ・ベンダ・ビリリ」のリーダーの「リッキー」は、「ポリオで下半身不随になってしまった自らの身体の障害をどう思うか?」という問いにこう答えている。「手足は関係ない。俺は頭で考えて生きているから」。確かに、これは、コンゴ民主共和国(旧ザイール)の首都キンシャサの路上を生きる障害者たちの知性の映画だ。

 監督自身も「これは音楽映画ではない」と明言している。だから、間違っても、この映画を見て、彼らの音楽の素晴らしさに「勇気と感動をもらった」とか、「自分たちもがんばらなければと思った」などというお決まりの感想を漏らしてはならない。そうした無意識の「上から目線」に抗うように、彼らは「トンカラ(ダンボール)に暮らしている自分たちを、なぜ馬鹿にするんだ!」と歌っていたのではなかったか。

 「スタッフ・ベンダ・ビリリ」は、車椅子や手こぎ三輪車のミュージシャンたちと、その家庭環境から不良化を宿命づけられていたところを彼らに拾われた、「シェゲ」と呼ばれるストリートチルドレンたちによって編成されている。だが、決して彼らは、ここキンシャサのストリートにおいては、何ら特殊な者たちの集まりではない。

 現地の光景を見れば一目瞭然だ。ここは、車椅子と手こぎ三輪車と松葉杖、そして車にたかるストリートチルドレンたちで占められているといっても過言ではないからだ。

 ピンボケ当たり前のカメラワークや、構成、編集にやや難があり、正直、とても映画の映像とは呼びがたいものの、やはり被写体が被写体だけに圧倒されてしまう。「ポリオ」と「シェゲ」が、コンゴを語るうえでのキーワードだというのは、この画面を見るかぎり、決して誇張でも単純化でもない。

 バンド名の「ベンダ・ビリリ」とは、リンガラ語で「外見を剥ぎ取れ=内面を見よ」という意味だという。これが、障害者という「外見」にとらわれずに、自分たちの魂(内面)の歌を聴いてくれ、というまっすぐなメッセージであることはもちろんだが、彼らが置かれた状況は、この言葉に多義性を含ませずにおかない。

 たとえば、それは、1997年の独裁政権崩壊後、複数の部族が乱立する混乱状態に置かれたコンゴにおいて、「部族=外見」(ここでは、年齢や住んでいる場所の前に、まず部族を聞かれる)の差異をこえ、「ベンダ・ビリリ!」の合い言葉ひとつで結集していこうとする、彼らの「友愛=内面」(!)の精神の表れともとれるだろう。

 だが、私は、見ていて、「ベンダビリリ」を、「外見を剥ぎ取って内面を見よ」ではなく、むしろその逆に「内を剥ぎ取り外を見よ」と捉えたい衝動に駆られた。どういうことか。

 内戦和平後初となる、2006年の大統領選と国民議会選挙のシーン(カビラ大統領への投票を呼び掛ける選挙カーなどが横切っていく)がさりげなく挿入され、その後、ベンダビリリが政治(家)を罵倒する歌を叫ぶシーンが続くとき、それは明らかになろう。

 彼らは、自分たちが、代表制の「内側」ではなく、その「外」にいる存在であることを痛感しているのだ。代表制という「内を剥ぎ取って外を見よ」。でないと、ベンダビリリの真の歌声は耳に届かないだろう――。彼らの歌には、冒頭のリッキーの言葉通り、そうした「知性」があふれている。

 したがって、普段の練習場所であるキンシャサの動物園からヨーロッパへ飛び立とう、というたびたび語られる彼らの「夢」も、単純に「音楽で一発当てて有名になり、いい暮らしをしたい」という欲望ととるべきではないのかもしれない。

 彼らにとって「ヨーロッパ」とは、海の向こうにある巨大な「内側」である。いみじくも子供たちが呟くように、「ここと比べるために、神様はヨーロッパという国を作った」のだ。

 おそらく、彼らは、ヨーロッパに受け入れられたいとは思っていなかっただろう。ヨーロッパに受け入れられることは、珍奇な黒人の障害者バンドとして登録され、再び「動物園」へと連れ戻されることにほかならない。「誰も聴いたことのない音楽で、奴らを圧倒するんだ!」。彼らは、何とかヨーロッパの鼻をあかしてやりたいと思っていたはずなのだ。

 空き缶と一本の弦を組み合わせた手作りのギター「サトンゲ」を武器に、ベンダビリリに拾われた幼きロジェ。この作品は、彼の成長物語でもあるが、学校に必要なものを売り払ってしまった彼が、母に言った言葉が象徴的だ。「学校に行ってちゃヨーロッパには行けない。音楽じゃないとヨーロッパに届かないんだ」。

 彼は、学校の延長線上には「内」しかないことを、直感的に知っていたのだろう。あくまで彼は、「外」から「内」を破壊する武器として手作りの一弦ギターのテクニックを、来る日も来る日も磨き続けるのだ。

 小泉義之は、「街路が自動車によってではなく車椅子や松葉杖で埋められているほうが、よほど美しい社会だと思う」、「まずは価値転倒です。劣等なものこそ優等である。(中略)この価値転倒は、感性や趣味に関する美学的な争いだと思います。政治的な争いでも道徳的争いでもない」(『生殖の哲学』)と言っている。

 ベンダビリリがもたらそうとする「価値転倒」に、これほどふさわしい言葉もないだろう。車椅子から降り、腕だけでブレークダンスをする彼らは、ただただ単純に、美しく、かっこいい。

中島一夫