ストリートの思想――転換期としての1990年代(毛利嘉孝)

ストリートの思想 転換期としての1990年代 (NHKブックス)

ストリートの思想 転換期としての1990年代 (NHKブックス)


 たちの悪い冗談なのだろうか、今「思想」が来ているらしい。おそらく、それには、本書もいうような次のような背景がある。

 「けれども、現在のポストモダン的な状況では、どれほど強力なイデオロギー批判もやはり相対的なものでしかなく、けっして真実の言説にはなりえない。かつて近代を規定してきた真なるもの、善なるもの、美なるものといった絶対的で普遍的な目的が崩壊してしまった結果、どれも相対的なものでしかなくなったのだ。それに代わる新しい基準は、正しいかどうかではなく、おもしろいかどうかである。今では、人は正しいけれどもおもしろくない世界よりも、多少正しくなくてもおもしろい世界を選択するようになったのだ。…誰もが…その内部でゲームに参加するしかない」。

 要は、思想は今、ゲームとして「おもしろい」のだ。また、おもしろいゲームだけが「思想」と呼ばれる。「正しい」ことの普遍性が崩壊した以上、相対的な「おもしろさ」だけが勝負だ――。だが、裏を返せば、それは「正しい」ことの普遍性を問わずに済ませる方便であり、また問わないことではじめて成立するゲームなのではないか。

 私は、いわゆるアクティヴィストを、基本的にリスペクトすることにしている。自分が出来ないようなことを行う人々は、それだけですでに尊敬に値するからだ。ただ、その行動(力)に敬服することと、その思想的な可能性を判断(すなわち批評!)することとは、また別のことだ。

 本書に登場する「ストリートの思想家」たちは、ガタリに始まって、ECDや小田マサノリ(イルコモンズ)、松本哉素人の乱)、湯浅誠年越し派遣村)、ネグリ/ハートなど、実に多種多様である。彼らの行動は、実にアイデア豊かでまた粘り強い。だが、本書のいうように、それら「ストリートの思想」の思想的な核心がグラムシだとしたら、本当にそれはアクチュアルといえるのだろうか。
 「「ストリートの思想家」は、アントニオ・グラムシが言うところの「有機的知識人」の現代版である。…けれども、「知識人」では伝統的な大学人と混同されるおそれもあるため、本書ではあえて、彼ら・彼女らを「思想家」と呼びたい。…この新しい思想家たちは変幻自在にストリートに顔を出す。神出鬼没の存在だ。」

 だが、大学の「伝統的知識人」は言うに及ばず、今やグラムシ的な「有機的知識人」もまた失効しているのではないか。それは、十全に機能する西欧の市民社会を前提とするものだったはずだからだ。本書もまた、現在、市民社会(本書の言葉では「ストリート=公共圏」)が縮減していることを、一応ふまえてはいる。だが、その闘争が、「現在ストリートで切り詰められている「公共性」を、ダンスや音楽など身体的な身振りによって取り戻そう」というものだとしたら、やはりそれはグラムシ的な「陣地戦」の域を出るものではないのではないか(グラムシの「有機的知識人」や「陣地戦」の機能失調について、その論理的かつ歴史的考察は、すが秀実『革命的な、あまりに革命的な』、『1968年』、『吉本隆明の時代』など参照 *1)。

 もちろん、いまだ「陣地戦」が有効な局面もあろう。だが、「公共圏」の奪還という「陣地戦」の発想は、得てしてハーバーマス的な(対等なコミュニケーションによる)「合意形成」に基づいているし、現に本書でもその核心でハーバーマスが導入される。しかも、ダンスや音楽といった身体性による「合意形成」においては、ともするとハーバーマス的な言語による討論すらオミットされるのだから、それは必然的に一時的で祝祭的なものにとどまらざるを得ない。

 さらにいえば、ストリートや公園といった公共圏は、何も国家や資本によってのみ奪われているのではない。もはや「市民」同士の「合意形成」が不可能なほど、その共同性は毀損されているのだから、公共性を奪っているのは「市民」自身でもあるのだ。つい先日のTV番組には、日中(夜ではない)の公園に響く声が「うるさい」というクレームが、頻繁に役所に寄せられている現状が映し出されていた。公園に集まって遊ぶ子供達は、グローブやバットを脇に置いたまま、ベンチで静かにゲームに興じている。もちろん、噴水や灰皿の設置などもってのほかだろう。今や公共圏には、家族間、世代間、階級間、嗜好間など、さまざまなレベルでの「抗争」が絶えないのだ。

 壊滅的なまでに公共圏が崩壊している現在、そう簡単にコミュニケーション(たとえ身体的なものでも)による「合意形成」がなされるとは思えない。もはや「合意」とは、あらかじめ存在しているところにしか成立し得ないものだとすらいえる。本書は、結論部で、そうした「コミュニケーション能力」が「ストリートの思想」には不可欠だという。だが、「コミュニケーション能力」とは、そもそも企業の言葉ではなかったか。それは、現在、就活する学生たちが、最も要求されるものである。

 それゆえであろうか、「コミュニケーション社会が到来したいま、コミュニズムは以前ほどユートピア的ではなくなったといえる」と楽天的に語る「ストリートの思想家」ネグリに対して、「どうでしょうか。…創造するということは、これまでも常にコミュニケーションとは異なる活動でした」(『記号と事件』)といって、むしろコミュニケーションからの切断をはかろうとするドゥルーズのことを、本書を読みながら思い起していた。


(*1)現在「1968年革命」がブームになっているが、それらの言説は、すが秀実が、ずっと以前からそれを論じてきたことを奇妙なまでに隠蔽している。それまでほとんど日本では疎んじられてきた1968年革命を、一人思想的に肯定する論陣を張り始めたすがに対して、当時私は、非常に驚き、また何ともいえず冷や冷やするような感じを抱いたことを覚えている。やはり、そこに「批評」を見たからだろう。それに引き換え、現在のブームは、「1968年革命」を(冒頭の言葉でいえば)「思想」の「ゲーム」と化している。

中島一夫