あんにょん由美香(松江哲明)

 デビュー作『あんにょんキムチ』以来、松江哲明の作品は、いくつかちらちら見てきたが、この新作には、旧作に見られる韓国、AV、ダメ男(の純粋さ)といったテーマ群が総動員されており、その意味でひとつの到達点を示している。

 2005年に急逝したAV女優、林由美香が出演した、幻の韓国産AVの『東京の人妻純子』が発掘。あとから字幕を入れれば済むものの、なぜか韓国人の出演者は全員拙い日本語で(濡れ場も含めて)演技している。その「すごく間違っている」、おかしな「日本」の映像に爆笑しながらも、松江はふと「何で由美香さんはこの作品に出たのだろう」という疑問を抱く。かつて自作を「松江君、まだまだね」と軽くあしらったこのカリスマ女優に、いつかきちんとした作品でレスポンスしたいと願っていた松江は、その幻の映画に導かれるように林由美香の幻を追いかけていく――。

 一見、夭逝した伝説の女優へのオマージュ的作品だが、もともとの動機が女優への返信という個人的なものであり、やはりその意味で、松江が一貫して追求してきた「セルフドキュメンタリー」といっていいだろう。逆にいえば、何を撮っても、彼の作品は「セルフドキュメンタリー」なのだ。童貞青年のフィールドワーク(生身の女性に直面できない彼らに、意中の女性に告白させ、あわよくば童貞を捨てさせようとする)である前作『童貞。をプロデュース』にしても、登場する青年たちは、あくまで映画制作を目指す松江の後輩的な存在であり、そこにかつてのへたれの「自分」が投影されていることは疑いない。そもそも、デビュー作の『あんにょんキムチ』からして、そこに見られるのは、在日韓国人をめぐる政治的な問いかけというより、そうした政治的な主題が、「でも自分にはキムチが食べられない」という私的(セルフ)な生活実感へと軽やかに、かつコミカルに回収されていく事態なのだ。

 松江作品に他者は存在しない。究極的には、そこには等身大の「自分(セルフ)」しかいない。したがって、「松江さんが欲しているのは他者ですよね」(大寺眞輔によるインタビュー、「文学界」10月号)という言葉ほど、松江作品から遠いものもない。どんなに過激でエグい被写体が画面に映し出されても、基本的にその作品は見やすく、決して観客を脅かし突きはなすことがないのはそのためだ(松江作品の特徴でもある、微温的で自己解説的なナレーションもそれに一役買っている)。

 これは否定的にのみ言っているのではない。しょうがないなあ、と思いつつも、ついつい彼の作品が気になって見てしまうのは、その他者(政治)の不在ぶりが、ひとつの「症候」としてリアリティをもっているからだ。したがって、例えばその他者の不在に、いわゆる「セカイ系」の想像力を見ることも可能だろうが(渡邉大輔「セカイへの信頼を取り戻すこと――ゼロ年代映画史試論」参照)、やはりそれは、カタカナの「セカイ」ではすまないことが、今作で明らかになったように思う。

 この『あんにょん由美香』は、かつて林由美香にのめり込み(そして私的にも「関係」し)、それぞれ彼女の代表作を撮った映画監督、カンパニー松尾いまおかしんじ平野勝之といった面々と思い出の撮影現場を訪れ、当時を追体験していく。そうこうしているうちに、ついに『東京の人妻純子』の監督、ユ・ジンソン(何とあのヨン様デビュー作の監督)に辿りつき、一行は韓国へと渡ることになるのだ。とっくに監督業を廃業していたユに、松江は、脚本にはあるものの、結局はカットされてしまった『純子』のラストシーンを撮ってくれるように頼み込む。そこに書き込まれた、「誰も純子を所有できない」というセリフほど、林由美香を語るにふさわしい言葉もほかにないと考えるからだ。

 交渉の結果、ユ監督のメガホンで、主演女優不在のまま、この幻のラストシーンを東京で撮影することにこぎつける。こうしてめでたく『純子』は真に完成し、これをもって松江は、林由美香への返答責任を果たした感慨にふけるのだが、いったいこのとき何が「完成」したのだろうか。

 そのとき「完成」したのは、「誰も所有できな」かった林由美香を不在の中心とした、残された者、疎外された者らによる悔恨と孤独の共同体にほかならない。そして、このスクリーンに投影される不在の中心によって立ち上がる共同性が、天皇制の構造をそのままなぞっていることは、今さら言うまでもないだろう。作中つぶやかれる、「林由美香は二度死ぬ」(死後も作品は残る、すなわち彼女は不死である)という中野貴雄のセリフは、まさにこの作品全体を支配する、「王は不死である」(「王の二つの身体」)という天皇制の構造(天皇が死んでも天皇制は残る)をはからずも示していよう。

 たとえ軽やかにであれ、自らのアイデンティティ(松江には『アイデンティティ』という作品もある。後に『セキ☆ララ』に改題)に意識的なはずの在日コリアン三世の松江は、いったいこの事態にどこまで自覚的なのだろうか。

中島一夫