1Q84(村上春樹)

 ここ数日、書評の仕事のために、村上春樹の新作『1Q84』を読んでいた。
 “謎とき”はそちらでしておいたが(来週発刊の「週刊読書人」)、ここでは、100万部突破(実売数は不明)の一つのきっかけになったと思われる、エルサレム賞受賞講演について触れたい。

 なかでも話題になったのは、「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」というセリフだった。いかにもこの作家らしい比喩に満ちた言葉だ。だが、この「高い壁」や「卵」がいったい何を指すのか、正確に知っている人は、意外に少ないのではないだろうか。

 場所や状況から考えれば、「高い壁」はイスラエルであり、「卵」はパレスチナだと考えるのが自然だろう。だが、改めて全文を通して読んでみると、実はそうではないのだ。「高い壁」は「爆弾、戦車、ロケット弾、白リン弾」、「卵」は「これらによって押しつぶされ、焼かれ、銃撃を受ける非武装の市民たち」だというのである。

 注意してほしい。両者は同じようで、まったく異なる。後者においては、政治性が完全に消されているのだ。ニュースでしか発言を見ていない人は、おそらく、今やノーベル賞候補の常連にもなりつつある日本を代表するこの作家が、“暴挙を繰り返すイスラエルに単身乗り込み、イスラエルの聴衆を前に堂々と批判を敢行した”といったような、“武勇伝”のイメージを抱いたことに違いない。

 次のように発言が続くとき、それはよりはっきりする。「私たちは皆、多かれ少なかれ、卵なのです。(中略)私たちは皆、程度の差こそあれ、高く、堅固な壁に直面しています。その壁の名前は「システム」です」。敵はお互いではなく、あくまで「システム」である、皆で「システム」に立ち向かおう――。このような発言を耳にした聴衆が、まさか「自分たちは批判された」とは思わないだろう。

 当時のガザの状況を、「壁」や「卵」といった比喩で語ってしまうこと自体に対する違和感は、この際措く。あえて、その比喩に乗っかれば、しかし、「卵」を叩き潰すのも、また、隣りの「卵」ではないのか。「壁」と「卵」が争っているのではない。争っているのは、いつだって「卵」と「卵」なのだ。

中島一夫