遅すぎる、早すぎる――小柳玲子と石原吉郎 その4

 そして、小柳は、この石原の「形式=定型=枠」へのこだわりが、「性」の問題とも関わっていると見ていた。小柳はアトリエや画廊を経営し主宰する人間だったので、「大体石原吉郎の絵画の好みは幻想派のものであり、文学臭の強いものである」とその偏りを評していたが、なかでも石原が好きだというグスタフ・クリムトをめぐるやりとりは、ある意味で石原の核心をついたものだったといえる。

 

 ある時石原が小柳にクリムト画集を見せながら言う。「今、この絵が気に入っています。徹底した様式美の中に、情念もなにもかも、きちんと嵌め込んだ絵でしょう? 今の僕は自分自身をそういう形式の中へ塗り込んでしまいたいんですよ」。石原がクリムトに、俳句=定型と同じものを見ていたことが分かる。したがって、すかさず小柳は「後の日に『禮節』『足利』『北條』……とタイトルからして形式美を思わせる詩集を書いていった石原吉郎の、片鱗のようなものが、クリムトをめぐる短い会話の中にもひそんでいたことが面白い」と書くのである。

 

 やがて話は、C・M・ネーベハイ『クリムト』におけるクリムトの性生活に及び、そこから石原の性生活へと展開する。

 

確かに一人の人間の性生活、また愛に触れる時、慎重にすぎる配慮は必要であるが、石原吉郎を語る時、この問題はやはりいたずらに避けてばかりはいられないことの一つだろう。彼の苦行僧めいた表面の様子とは全く別に、性も含めて愛は彼の詩人としての生涯に大きな問題だったのである。彼の極めて強い羞恥心は、そうした部分をことさら作品の上では隠蔽しているので、クリムトの芸術のようにあらわなエロスの感じられるものは一篇もない。シベリアでの長く苦痛な体験によって、石原吉郎はほとんど人間を信じることはできなくなっていた、人間の中でもことに男性には常に敵を感じ、固く心を閉ざしていたのが分かる。しかし彼にとって女性はまた別の問題だった。それは優しいもの、弱々しい故に彼が庇護してやらねばならぬものだったらしい。平穏の中では女性のほうが逞しきものであることを、彼はついに認識できなかった。

 彼には男性詩人を扱った論(跋文を含めても)がほとんどなく、女性詩人への小論はおびただしい数にのぼるのを見ただけでも、そのことはほぼ推測がつく。

 

 小柳は石原を語る時、性愛の問題は避けられないという。石原を論じる者が触れない視点である。「石原吉郎の女性に関わる言動につき、スキャンダラスに取りあげればきりもない数になってしま」うというのだから、相当な数だったのだろう。クリムトのように、芸術にエロスを露わにはしなかったものの、小柳は石原詩の「定型」を含めた「形式」の「輪郭」は、常にエロスと接していたのを感受していたのである。石原と知己を得てからまだ日が浅いというのに、石原は小柳を前にしてやおら女性とセックスの話をしだしたという。

 

「抑留生活の八年は当然として、その前の軍隊生活の間も、僕は女性をほとんど見かけることがありませんでした」と彼はいった。

「ですから、帰国の船で診察に立ち合った看護婦さんが近くで見た初めての女性といってほぼ間違いがないんです。抑留の間で会ったのはソ連のおばあさんぐらいですからね。看護婦さんを見てね、どうしたと思います? こわくて、顔があげられなかったんです」

「は、」と固くなって答えたものの、頭の隅では(私が小学校四年生の時、終戦になって、始めて男女同級になった頃、何だかきまりが悪くて男の子の方を見られなかった――あれと同じかなあ)などと気楽に考えていた。

「それでね、僕の女性に対する気持というのは非常に神聖なもの、恐怖心を伴うほど大切なもの、そんな感じです。要するに未知のものなんですよね」

「……」ここまでは分からなくはない。男の子という未知のものが、私も怖くておどおどしていた時代があった。

「ところが半面女性に向かう時、けものじみた欲望がありましてね。これはまた平穏な青春を過した人には理解されないほど烈しいもので、もう野獣と同じです」

「は、」私はたぶん情けない声を出して合づちをうったことだろう。前にも書いたようにその頃私にとって石原吉郎は優れた詩を生み出す機械のような存在であった。機械が女性を愛したり、セックスを感じたりしてよいものだろうか。私にはひたすら不思議なだけで、恐らく珍しいものを見るように彼の顔を見ていた。彼もとんだ人に女性談義をしたもので、のちの日、後悔したことだろう。

 

 抑留生活が「定型」への矯正=強制だったとして、その一つが性愛の問題だったことは想像に難くない。石原は、己の「形式」に性への情動を「圧縮」して生きてきたのである。石原の外見についてよく言われる「苦行僧めいた表面の様子」もそこから来るものだろう。だが、その「輪郭」においては、恐怖と欲望とがせめぎ合いを繰り返し、常に「危機」に見舞われていたのである。小柳が感じていた「機械」石原は、ここでいきなり吐露された「野獣」石原とあまりにかけ離れていて、決定的な「溝」を形成しただろう。石原は、シベリア後、俗に言う「デビュー」を果たしたのだ。

 

 だが、小柳が真に「機械」石原と「野獣」石原とを「溝」として受け止めるのは、石原の死後だったのではないか。石原が自らを「野獣と同じ」と吐露したことは「以後ずいぶん長い間私の脳裏に甦えることがなかった」のであり、「何故ならそのあと石原吉郎との交際が繁くなるほど、彼と野獣のイメージはかけ離れていて、「本当にそうだな」と思い当ることがなかったからである」と。おそらく、小柳に「機械」のイメージの修正を迫ったのは、先に触れた数々の自らへの侮辱的な行為のみならず、例えば一見まったくそのようには読めない「いちまいの上衣のうた」という詩が、実は恋の詩だったことを、石原の死後に知ったことだろう。

 

追悼会の折、竹下育男が石原吉郎の恋愛について触れ、「石原さんが女性として関心を寄せていたのは、そこにいる佐々木双葉子さん一人だと僕は思っている」といった発言をした。このちょっと現実離れのした妖精のような美女はけろっとした感じでそれを聞いていた。後日、石原吉郎が有名になってから、彼からラブレターをもらった、短歌を贈られたと、彼との関わりを後生大事にする女性詩人たちと違って、詩などに野心のない彼女は詩人の求愛をしりぞけてしまったようである。

 のちに花神社が『石原吉郎全集』を編むにあたり、広く詩人たちから彼の書簡を集めた。この時初めて石原吉郎が彼女に宛てた愛の告白書簡を私は読んだ。それは書簡というより一篇の詩であって、複雑な意味で私を驚かせた。

 一つには「いちまいの上衣のうた」という一篇の詩が恋の詩だとは私が思っていなかったことである。この詩からはどう読んでも恋の匂いはしない。三十九年〈鬼〉誌に発表された、この詩はおそらく三十八年に書かれたものだろう。私がまだ彼と面識のなかった時期の作品であり、事柄である。

 一つは、私からみれば不惑の年齢であり、妻帯者であり、およそ恋愛沙汰とは無縁の雰囲気の詩人が、そのような失恋の痛手を負っていたということ。何しろこちらは彼を機械だと思っていたのだから始末が悪い。

 私が読んでは恋の詩には思えなかった、この詩が送られるなり、件の女性は拒絶の手紙を出したのであるから、この詩には詩人と彼女にだけ分かる愛の告白が含まれているのだろう。

 

 おれは 今日

 いちまいの上衣をきてあるく

 いちまいの上衣をきて

 おれがあるく町は

 おなじく絵のような

 いちまいの町だ〔…〕

 

 この詩には確かに愛という文字が四回使用されている。石原詩の中で愛という文字はそう沢山使われるものではない。

 

 そのように言われて読まなければ、確かに「いちまいの上衣のうた」が妻帯者の失恋の詩だとは誰も読まないだろう。そのとき、石原詩に「機械」を見ていた小柳は、ひょっとしたらあらゆる石原の詩の「形式」に、おしなべてその種の情動がはらまれているのではないかと思い直したのではなかったか。「しかし前回触れたように「いちまいの上衣のうた」が恋愛詩であることが判明している現在、石原吉郎はあの全ての詩に現われる美しく清潔な言葉の地下に測り知れない泥沼を抱いていたのだと思われる」。このことが呼び水となって、出会った当初から石原が自らを「野獣」と呼んだことや、当時克明につけていた性の日記などが後から後から思い出されてきたのだろう。

 

失恋沙汰のほうよりさらに彼が困ったのは克明につけていた性についての日記であろうと思う。彼が野獣という言葉を使ったのはおそらく、そうした日録を彼が記さずにはいられないほどに荒んだ心になっていた時期についての弁明だったのだ。ごく初期の〈ロシナンテ〉の仲間はこの日記を知っており(彼が無邪気にもそれを幾人かの仲間には見せていた)、やはり初期〈ロシナンテ〉同人に属するほうの私が、誰彼からそれを聞き及んでいると推測したのである。それは取り越し苦労だったのだが、〈ロシナンテ〉が結成された二十九年の頃、私たちの大半は大学生であり、赤線地帯へ出かける勇気のあった同人はたぶんいなかったろう。彼はそこでの武勇伝を「そら、読んでみろ」という感じで書きつけていたと思われる。

 追悼会から四、五日経て、私を訪ねてきた吉田睦彦が非常に不思議そうにこの話を切り出した。

「ねえ小柳さん、あの日記帖はどこへいっちゃったんでしょうねえ」と彼はいった。

「石原さんはことによくその日記を読ませてくれました。おまえは体が悪い身の上だから、女についてはおれが教えてやるって。そのあと石原さん、有名になって、時々日記抄なんてのが発表されたでしょう。本にもなったし。僕、あの日記を出したのかと思って心配したら、ぜんぜん違うのね」

「そりゃあそうでしょう」茫然としながらも私はいった。機械のイメージは、その頃すでに壊れ果てていたので、私はこの話を不潔という感覚で受け取ったのではない。むしろ痛々しい思いが心を噛んだ。あの頃、そんな日記をつけて楽しんていた頃、石原吉郎は自由だったのだ。生活は苦しく、心はふさいでいても、自由ではあった。少なくとも私のように人間性を無視して、彼を自分の理想のイメージで固めあげてしまうようなファンはいなかった。ラブレターを書こうが、恋をしようが、イメージが狂う心配はなかったし、彼には彼なりに遅れてやってきた青春を享受する必要があったのだ。

 

 もし、小柳が、ともに〈ロシナンテ〉同人だった頃から石原の性日記を読んでいたら、当初から「機械」のイメージは作られていなかったかもしれない。それぐらい、初期〈ロシナンテ〉時代、石原はラーゲリで失った「青春」を取り戻すように、「自由」に性を謳歌していた。石原にとって詩の「定型」や「形式」とは、帰国後にいったん解放された性的欲望や情動を再び押し込める必要から生じた生々しいものとしてあった。小柳はクリムトの描きかけの裸婦に石原に通じるものを見る。

 

イーゼルには描きかけの「花嫁」がかけられていた。絵の右側には、裸婦がややひざを開いて立っている姿がある。女の脚の間には、はっきりと性器が描かれ、その上をあのクリムト独特なきらびやかな衣裳が描かれようとしていた。絵が完成すれば性器は見えなくなる。このような方法は幾人かの画家も試みているもので、格別珍しくはないが、これが単に時代の検閲を逃れるための手法ではなく、画家の地下世界にうごめいていた複雑な性的欲望、地獄のようなものの現われだとすれば、かつて石原吉郎が私に告げた、クリムトの絵を愛する弁とまっすぐにつながってくる。

 全ての情念をモザイクのようにきっちりと装飾と形式の中に閉じこめる――ことに詩人は共鳴したのだった。ことさらにエロスが表面に出ているクリムトと、およそエロスの匂いのない石原詩とは、その頃どうやっても私の中でつながらなかった。私はかろうじて、形式美ということによって、この二者をつなげていた。しかし前回触れたように、「いちまいの上衣のうた」が恋愛詩であることが判明している現在、石原吉郎はあの全ての詩に現われる美しく清潔な言葉の地下に測り知れない泥沼を抱えていたのだと思われる。

 言葉たちは地底の闇を吸いあげているため、美しいのと同時に、どこか底光りのする暗さを秘め、異様な重量感を私に与える。

 おそらく、石原吉郎の地下世界は性の欲望ばかりではない、シベリア時代の泥沼がせめぎあっていたことだろう。その泥沼は、かつて石原吉郎の作品を通して彼を敬愛した若い人々が考えるような、形而上的な泥沼などでは決してない。机上で考えつくような罪意識や言葉に酔っただけの苦悩ではないはずである。

 

 小柳が石原について「形而上(的)」という語を使う時は、きまってネガティヴな意味である。石原の詩に、エッセイに、「形而上的」なものしか読み取らない石原崇拝者に小柳は辟易していた。その「言葉の地下に測り知れない泥沼を抱えていた」こと。それは石原詩に、あの「溝」を刻み込まずにおかないが、小柳に言わせれば「この溝を抜きに」石原を語ることなどできないのだ。

 

(続く)

 

遅すぎる、早すぎる――小柳玲子と石原吉郎 その3

石原吉郎は己をサンチョ・パンサである、と思う意識が強かった。強大な敵に向かってガムシャラにつっこんでいく日本というドン・キホーテは、多くのサンチョに「わしに従いてくれば、やがて島を一つ与え、そこの王様にしてやる」といったわけなのだ。揚句、木賃宿で無銭宿泊をした騎士のかわりに、サンチョは毛布にくるまれ宿の荒くれ達にボールのように宙に放りあげられる。泣いても叫んでもドン・キホーテは塀のうしろをうろつくばかりで助けには出てこない。『ドン・キホーテ』の、このくだりを私が好きなのは、一つにはこの映像がそこはかとなく石原吉郎に重なっていくためである。

 己について厳しく、サンチョである、という哀しい自覚があった石原吉郎ですら、賛辞と喝采のワナからは逃れられなかった。彼は大勢の若い信奉者たちの前で、無理な姿勢をとり続け、まるで古武士か苦行僧のような言動をくり返し、崩れていった。(小柳玲子『サンチョ・パンサの行方』)

 

 「強大な敵に向かってガムシャラにつっこんでいく」日本=ドン・キホーテのツケを払わされるようにシベリアに抑留され、強制労働をさせられたサンチョ・パンサ。だが、小柳は、石原が「サンチョ・パンサ」として「帰郷」したにもかかわらず、あたかも「ドン・キホーテ」のようになっていく過程=行方を見ている思いだっただろう。

 

〈文章倶楽部〉の投稿欄に彼が登場した折の、つまりごく初期の石原作品には、シベリア抑留を連想させる語句はほとんどない。ただ彼が吸いとった闇が難解な言葉の飛躍のすきまから底びかりを発しているのみである。私たちが彼を抑留生活体験者だと知るのは、一年のちの、鮎川信夫谷川俊太郎(この二人が投稿欄の選者であった)の招きによる座談会においてである。

 私は彼の体験を知らない時期に、すでにその詩だけに打たれてしまった人間なので、のちの散文の仕事はあくまでも詩の付録だと思っているが、世間一般はそうではない。そしてこの世間一般というのがライナ・マリア・リルケの言葉ではないが実に恐しい力を有っているのである。

 石原吉郎をいやがうえにも有名にし、胴上げ騒ぎでもしかねない人気者にしてしまったのは、やはり散文の影響だと思われる。ことに多くの人々によってたびたび引用され鹿野武一に関する一節である。

 

 もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない

 もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない

 

 石原吉郎が詩壇を席捲していた頃、この言葉はまるで石原吉郎自身のもののように錯覚され、鹿野武一の人となりはあたかも石原吉郎その人のように英雄化されてしまった。その熱狂の渦中から毅然として身を引けといっても、それは無理というものである。彼がもっとも危険の多いワナに足をとられたのが今の私には理解できる。喝采と一緒に宙に放りあげられ、やがてゆっくりと落下し、砕け散っていくさまを、私は見ているしかなかったのだ。

 

 「荒くれ達にボールのように宙に放りあげられる」サンチョ・パンサのイメージと、「胴上げ騒ぎでもしかねない人気者」石原のイメージが対比的なのは言うまでもない。その変節の要因となったのが、小柳の見立てでは先のようにシベリア抑留を綴った「散文」の影響だった。

 

 小柳の考えでは、本来「石原吉郎にとってシベリアは言葉などで説明できるものでなく、その具体的記録は思い出すにしのび難いものだったに違いない」。だからこそ、〈文章倶楽部〉の投稿欄に登場した時の、小柳が最初に触れた石原のごく初期の詩には、「シベリア抑留を連想させる語句はほとんどない」。確かに、石原自身も、「帰郷」後、「失語」にあった自分にとって、「散文」は駄目だったが「詩」の言葉だけは書けたといろいろなところで述べている。そこには、小柳が読んだように、「ただ彼が吸いとった闇が難解な言葉の飛躍のすきまから底びかりを発しているのみである」。小柳はこの「底びかり」に反応し触知したのだ。これは、ほとんど詩を介した小柳と石原の個と個の関係性でしかあり得ない。

 

 だが、詩と比して、散文は「世間一般」に向けて書かれ、また「世間一般」が反応するという関係性にある。したがって、小柳にとって、二重に「のちの散文の仕事はあくまでも詩の付録」であっただろう。石原の散文に自分が触知した詩の石原は不在であり、しかも散文に本当のシベリアは存在しないのだ。

 

 とりわけ多くの人々が反応し、たびたび引用されたのが鹿野武一の言葉「もしあなたが人間であるなら…」であった。私もご多分に漏れず、この言葉に震撼させられた者だが、この強烈な「断念」を含んだ「断言」は、「まるで石原吉郎自身のもののように錯覚され」がちである。石原詩の「断念」と容易に呼応するからだろう(あるいは石原の「断念」自体が鹿野からきていると言ってもよいかもしれない)。いずれにしても、この言葉の主である「鹿野武一の人となりはあたかも石原吉郎その人のように英雄化されてしまった」。石原のこの「英雄化」は、小柳にとって重大な変節だったであろう。それは「散文=世間一般」の「ワナ」なのだ。「彼がもっとも危険の多いワナに足をとられたのが今の私には理解できる。喝采と一緒に宙に放りあげられ、やがてゆっくりと落下し、砕け散っていくさまを、私は見ているしかなかったのだ」。

 

 石原は、詩と散文について言う。

 

私たちはことばについて、おそらくたくさんの後悔をもっていると思う。私たちが詩を書くのは、あるいはそのためかもしれない。

 「いわなければよかった」ということが、たぶん詩の出発ではないのか。いいたいことのために、私たちは散文を書く。すべては表現するためにある、というのが散文の立場である。散文に後悔はない。

 詩とはおそらく、表現すべきではなかったといううらみに、不可避的につきまとわれる表現形式でないのか。それにもかかわらず、なぜ詩が書かれるのかといえば、ある種の不用意からだとこたえるしかない。(「私の部屋には机がない――第一行をどう書くか」一九七二年)

 

 石原は、「詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば、「沈黙するための」ことばであるといっていい」(「詩の定義」)とも言っている。小柳にすれば、石原のシベリアエッセイは、詩にまとわりつくこれらの「後悔」や「沈黙」を、どこかに「忘れて来た」としか思えなかった。ましてや、石原を尊敬する女性詩人に囲まれて(「十人以上」!)「シベリア体験談に余念がなかった」という「後悔」や「沈黙」からはほど遠い姿など何の冗談かと思って見ていたに違いない。

 

 小柳にとって石原は「優れた詩を生産する機械のような存在であった」。したがって、「人間ばなれした存在としての石原吉郎を認識していた私としては、長い間彼のごく人間的な通俗性や哀しみ、ことに淋しさというものを理解することができなかった。石原吉郎は淋しさなど毅然として受けとめ一人耐えるべき人であったのだ――私の内では」。

 

 石原を詩の「機械」と見なすことも、先の散文の影響とはまた別種の「英雄化」ではあろう。だが、石原詩を、「機械」が「人間的な通俗性や哀しみ、ことに淋しさ」に崩れていく「過程=行方」と捉えることは、機械/人間という凡庸なたとえを措いてもやはりある核心をついていると言えよう。それはいわば、「詩は表現ではない」(入沢康夫)という非—疎外的にして非―集団的(集団からの疎外こそが「表現」(者という特権)を可能にするというのが、いわゆるそれまでのロマン主義的な「戦後詩」の理念であったろう)な石原詩のありようを、小柳のいう「機械」に重ねてみた時に見えてくる「過程=行方」である。「もしあなたが人間あるなら…」という鹿野武一の言葉に、まるで厳粛なテーゼのように体現されるらしいシベリアラーゲリとは、最も「集団」や「疎外」から遠い場所であったからだ。石原詩を規定する「断念=断言」の姿勢とは、まずもってこの「表現」への「断念」にほかならない。「断言」とは「表現」の反意語なのだ。「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない」なら、戦後詩のように、生き残った男や帰還=帰郷した男が「死んだ男」を代弁=代表することなどあり得ないだろう。いわば、小柳の読んだ「機械」の言葉は、「もしあなたが…」と、「表現」する「人間」を拒絶したところから、「書くまい」という「「沈黙するための」ことば」として「不用意」に発されたものだったのだ。

 

 「機械」はおそらく「定型」の問題ともかかわる。石原について誤解されがちなのは、俳句を書き始めた時期だ。句集の発刊が死の三年前の一九七四年だった(歌集に至っては死後)ので、何か晩年に俳句を始めたイメージがあるが、すでに一九五八年にハルビン俳壇の佐々木有風主催の俳句結社「雲」に参加し、石原青磁(のちに「せいじ」)の俳号を得ている。これは、石原詩の出発点だった詩誌〈ロシナンテ〉と並行していたし、この年には「荒地」(の最後期の)同人にもなっている。石原が最も俳句に熱中していたのは、むしろ初期の五八、九年だったといえる。すなわち、石原詩は、その初期から「定型」についてきわめて意識的だったのである。

 

誤解を避けずにいうなら、俳句は結局は「かたわな」舌たらずの詩である。ということは、完全性に対する止みがたい希求と情熱が、俳句を成立させる理由と条件になっており、その発想法の根拠となっていることを意味する。しかも、この希求がみたされるということは、俳句がついに俳句であることをやめることでなければならない。それが、完全性への希求を断ち切られた姿勢のままで立ちつくそうとするとき、俳句のあの独自な発想法が生れ、それがかたわであるままで、間髪を容れずもっとも完全であろうと決意するとき、句作はこの世界のもっとも情熱的ないとなみの一つとなる。「自由」な現代詩は、このようなパラドキシカルな苦悩と情熱を知りもしないだろう。(「定型についての覚書」)

 

 俳句=定型が「完全性への希求を断ち切られた姿勢のままで立ちつくそうとする」というのは、石原詩の「直立」という姿勢そのままだろう。石原にとって、「完全性への希求を断ち切られた」「かたわな」俳句とは、ほとんど自らのシベリア体験と重なって見えたといってよい。シベリアとは、まさに人間を「定型」へと「矯正=強制」しようとする場所としてあった。だからこそ、そこからの「脱出」や「抵抗」が問われるのである。

 

結論をさきにいっておこう。僕らは定型に対して、常に不安でいなければならない。それは、定型に不安を抱いている者こそ、定型に対して生き生きとめざめているものだからである。定型に安堵し、これにもたれるだけの詩人、十七音字の枠にもはやなんの不安も抱かぬ者は、もはや「定型詩人」ですらありえない。そこでは、最も重要なことがすでに喪われている。彼が定型をうしなったか、定型が彼をうしなったか、おそらくはその双方であろう。

 定型は「不断に」これを脱出するためにある。定型の枠が存在することによって、はじめてこれに対する抵抗がうまれ、脱出するための情熱と、圧縮されたエネルギーがうまれる。いわゆる自由な詩形が「自由でしかありえない」ゆえんは、それが脱出すべきいかなる枠をももたない点にある。今日、前衛俳句の作家たちが、いぜんとして定型詩人であるといわれるその根拠はどこにあるか。それは、彼らの抵抗に意味を与えるものがまさしく定型であるからであり、定型がうしなわれるとき、その抵抗は意味をうしなうからである。いうなれば、彼らの抵抗は定型によってささえられているのである。

 

 「定型の枠が存在することによって」「抵抗がうまれ」「情熱と圧縮されたエネルギーがうまれる」というのは、ほぼフロイトのいう「機知」としての言語そのものだろう。「定型」に「圧縮」されることで「情熱」ならぬ(詩的)情動が「うまれる」。したがって、石原が、〈ロシナンテ〉の初期から俳句=定型に赴いたのは、かえってそこにこそシベリアで抑圧されていた「自由」な情動があったからだ。というか、「定型」という「枠」、「形式」があるからこそ「意味=シニフィエ」として記述し得ない「自由」な情動の存在を確認できるのである。「定型」の認識があってはじめて、石原はシベリアを「表現」し得ないことを、「沈黙」として担いなおすことができたのだ。

 

 したがって、石原にとって、最初から(現代)詩とは潜在的に「定型詩」としてあったといえる。詩人とは「定型詩」を書こうが書くまいが「定型詩人」でなければならない。そして、その目は不断に「定型の外へ向かってかがやいていなければならない」のだ。

 

では、どの程度まで、この不幸な逸脱がゆるされるか、と問う人があるかもしれない。一歩か。五十歩か。しかし、そのような問い方をする人は、すでに形式というものの本当の意味がわかっていない人である。もし、脱出して「しまったら」、あとはどうなるか。忘れてはならないことは、脱出は一回限りのものではないということである。それはくりかえして行なわれるものであり、脱出と回帰を永遠に伴なう不安な過程としてとらえなければならない。決壊した堤防を一度限りあふれて終る濁流のようなものではなく、たえず突破と収縮をくり返すこと、みずからの住居についに安住すまいという意味を持つこと、それが定型詩人であるということの意味である。作家の目は常に定型の外へ向かってかがやいていなければならない。

 そこでは定型はいわば危機として与えられている。

 

 「定型」という「輪郭」が、その外への「脱出」と、内への「回帰」を同時に発生させる。そしてそれ以降、その両極が「永遠に伴なう不安な過程」を歩まねばならないので、「定型」は不断に「危機」なのだ。

 

風がながれるのは

輪郭をのぞむからだ

風がとどまるのは

輪郭をささえたからだ(「名称」)

 

(続く)

 

遅すぎる、早すぎる――小柳玲子と石原吉郎 その2

 まずは、小柳玲子が詩を読んでいた頃に持っていた石原吉郎への尊敬を失っていった、いくつかの「断片」を見てみよう。石原の死の三年前にあたる一九七四年、石原は詩人・杉克彦の三回忌を行わなかったと言って、なぜか小柳を非難する。

 

「杉君の三回忌、とうとうやりませんでしたね」と唐突にいった。口調の中に色濃く非難が含まれていたので私はすぐに返答ができなかった。

「あなたたち、追悼文ばかり書き散らして三回忌の集まりもやる気はなかったのですか」

 私ははかばかしい返事をしなかった。しようがなかったのである。そのままずるずると外へ出て、私たちは銀座の人混みを歩き出した。私は金沢星子と二人で歩いていた。話題は何のはずみか前出の生路洋子に及び、私はその詩人の作品はあまり読んだ記憶がない、と彼女に告げた。私の声が大きかったのかもしれないが、ずっと前方を嵯峨信之と連れだって歩いていた石原吉郎が、突然くるりと向きを変え私たちの方へ戻ってきた。

「生路洋子の詩は立派なものですよ。それに目のくりくりした可愛い人です」

 私の前に立ちはだかるようにして語気荒くそういった。

「くりくりしているか、どうか知りませんが――」私はやっとの思いで激しくなる声を抑えていった。「私は石原さんに話していたのではありません。金沢さんと話していたのですから」

 何とも可愛げのない返事をしたものであるが、要するに石原吉郎が私に向けてつきさしてくるトゲのようなものを私は察知したのだ。杉克彦三回忌も生路洋子も言いがかりにすぎない。何かもっと奥深いもの。彼が口に出すわけにいかない憤懣のようなもの。しかし何日考えてもそれは私に分からなかった。

 何故なら書くまでもなく私は石原吉郎に較べて、ごみのような詩人であり、遠方から尊敬していただけの関係である。それだけに私としては石原吉郎に憎まれるのは悲しかった。

 

 当時、病気の子供を二人抱えていた小柳に、とても杉克彦の三回忌をとりしきる余裕はなかった。やりたかったら石原自身がとりしきればよいだけの話だ。つまり、「この時すでに石原吉郎杉克彦などどうでもよかったのだ」。この時のことに触れて、小柳はこう述べている。

 

まだほとんどの人が気付いていなかったが、この頃から石原吉郎は少しずつ毀れ始めていた。杉克彦をかまっているゆとりはなかったのである。

 詩誌〈ロシナンテ〉の時代から、私が尊敬し信奉していた石原像は内部から亀裂を生じつつあり、その初めの徴候が、私の見ている限りではこの日にあった。

 

 また、その二年後の一九七六年、小柳は石原に次のように持ちかけられる。

 

「今年のH氏賞、Kさんの詩集に一票入れてくれませんか」

 この言葉を石原吉郎の口から聞いた時、私が耳を疑ってしまったのは、先に書いた事情があったためである。断っておくと、この件はKが彼に頼んだのではなく、彼が一人で彼女の詩集に肩入れをして身勝手に走りまわっていたのである。

 

 誰かの詩集に一票入れよ、などは別に何ほどのこともない。よくある文(詩)壇政治だろう。だが、小柳にとって、これはほとんど石原の変節、転向といってよかった。なぜなら、小柳は、それまでさかんに「詩だけを見なさい。詩に直接関係のないことに惑わされては駄目です。人柄によって詩の評価を上下させるようでは自分も駄目になります」とか、「詩が良いと思った人に一票入れなければ駄目です。目上の詩人から頼まれて入れたり、徒党を組んだりしないように」という教えを受けてきたからである。小柳は次のように述べている。

 

ロシナンテ〉の生き残りということで石原吉郎の、当時私に対する労わりは過分のものがあった。折をみては私の仕事場である画廊に訪ねて来て、右も左も分かっていない私に詩壇での身の処し方を諭してくれた。それは大変厳しく内面的なもので、私は固唾を呑んで一言一句聞き逃すまいとしたものだった。

 私は石原吉郎のストイックな教えを守ろうと必死であったが、晩年の彼は、自身が私に諭したことと正反対のことを一つ一つ私の眼前で実行し、私を救いようのない失意の底へ堕して他界した。

このことについては後に詳しく触れるが、どのように後の失意が大きくとも、この当時の至福の時間を思えば、私の詩人としての半生は満ち足りたものだといわざるを得ない。

 

 そして、同じく七六年、小柳が「襟巻事件」と呼ぶ出来事が起こる。この年の七月、崔華國の娘夫婦が来日し、崔に世話になった詩人たちが歓迎パーティーを開いた。西脇順三郎、吉原幸子石垣りん吉増剛造といった錚々たるメンバーである。その席で小柳は石原に「ここへ来なさい」と隣の席に座らされる。

 

「小柳さんに注意したいことがあります。ひとつは友人を次々取り変えること。これは悪いことですよ」とまず彼はいった。

「私が? 友人を――ですか?」

「そうでしょう。あなたはいつ崔さんと知り合ったんです? 今日集まった人は皆崔さんの高崎時代からの知人ですよ。新顔はあなたくらいでしたよ」私はあきれたあまり返事ができなかった。

「それに詩学社の新年会にも出ていたでしょう? あなたは詩学研究会に何の関係もないでしょう」

「それが何か石原さんにおさしさわりがあるんですか?」おそらく私は蒼ざめていたことだろう。自分がひどい侮辱を受けているのだということが遅ればせながら分かってきたのだ。

「もうひとつはね、お喋りをつつしみなさい。あなたのお喋りのために、私は今回公的な席をおろされたんですよ」

 私は悲鳴に近い声をあげてしまった。そんな馬鹿な話がどうしてあり得よう。私のような雑魚がどうやってこの著名な詩人を公の席から追い出せるというのだろう。

「私は長年続けていた(東京詩学の会)の講師の席を退めさせられたんです。あなたがあの時の襟巻の話を喋るからですよ」

「あの時? 襟巻? (東京詩学の会)?」私は金切声を上げていた。「嘘です。そんなアホらしい三題噺、私には分かりません。だいたい私は(東京詩学の会)なんて一度も出たことがありません。いつ、どこで、開かれているのかも知りません」

 残念だがこの話はここで途切れてしまう。喫茶店閉店時間になり私たちは外へ出されてしまったのだ。私はよろよろと道路へ出た。折よく先に外へ出た村岡空と目が合った。おそらく泣き出しそうな顔で事の顛末を私は彼に喋った。

 

 そして、石原が忙しいから自分から退めさせてくれと言ったのを、誰も引き留めなかったためにそのまま引っ込みがつかなくなったという事実を知るのだ。

 

そうか――何ともおそまきに私は納得したのだった――子供っぽいまでの石原吉郎における淋しさ。胸の痛くなるような孤独。大勢の中で泣き出して慰められる、「退める」と言って「退めないでください」と引きとめられる、そんなにも見えすいた慰めすら彼には必要だったのか。彼の散文や後期の詩に現われる毅然とした姿とは何と裏腹な、弱々しく、人間らしすぎる詩人像だろう。〔…〕その引っ込みのつかなくなった恨めしさの八つ当りがなぜか私の頭上に降ってきてしまったのだった。

 

 この前年、石原が小柳に声をかけ、「これ僕のために編んでくれたんですよ」と「著名な女流詩人の名をあげて」襟巻をうれし気に見せてきたことがあった。その時、ある会の受付をしていた小柳は、受付に戻って来てその話を周囲にした。ある講演会の受付を襟巻事件とは、これを受けた石原の妄想に端を発する。

 

石原吉郎の言によれば、その私のはしたない話を、傍らで(東京詩学の会)会員が聞いていた、そしてそのようなおのろけをいう石原吉郎は公の席の講師にふさわしくないと訴え、彼は役目をおろされたのだ、とこうなるのである。

 当時、私はこの私への非難を、それなりに半分くらいは信じていた。現在思えばかわいらしいものである。私はごく最近になってこの襟巻の件の真相を教えられ失笑してしまった。それは襟巻を贈った主にも、ましてや私には何の関係もない痴話げんかのとばっちりだったのである。(公の席)が聞いてあきれる(私の席)、犬も喰わないという類いの話だったのである。この詳細を今私が書くわけにはいかないので、何とも奥歯にものがはさまってしまうが、大きな才能を有つ人間は、些細な言動でも周囲をゆり動かしてしまうし、そうした才能の持主が崩れていく時は多くの他者を傷つけずにはおかないのだろう。

 

 石原による妄言や「ひどい侮辱」は小柳を「打ちのめし」、小柳に「彼の散文や後期の詩に現われる毅然とした姿とは何と裏腹な、弱々しく、人間らしすぎる詩人像だろう」と思わせる。信じられないような侮辱を受けた時期に、リアルタイムで発表された「散文や後期の詩に現われる毅然とした姿」は、小柳にとってはあの深い「溝」でしかなかっただろう。「私には詩人がしばしば使った(断念)という言葉は真実のところよく分からない。あんなに酔い痴れ、ぼろぼろになり断念でもなかろうに――という気持が強い」。「(断念)などというそらぞらしい断言」。小柳にすれば、「何が「断念」だ」という思いだったろう。

 

 そして、その思いは、石原を知る前に感動し尊敬した詩からも小柳を遠ざからせるのだ。詩集『サンチョ・パンサの帰郷』所収の「おれが忘れて来た男は/たとえば耳鳴りが好きだ」で始まる詩「耳鳴りのうた」を引きながら、小柳はこうつぶやく。

 

彼はあの清冽な男を、どこへ忘れてきてしまったのか。悲しみすら清潔で初々しかったあの男と彼はどこですり変わってしまったのか、何が彼をこんなに無惨に、ずたずたにしてしまうのか、私には今でも分からない。その頃から死までの、ほぼ一年余り、彼はそこそこの女流詩人にやたらとラブレターまがいのものを送り付け、電話をかけ、のたうちまわっていた観がある。

 

 晩年、アルコール中毒に陥った石原は知られていても、小柳をはじめ、周囲に迷惑をかけまくる石原(先にも言ったが、今だったらハラスメントで訴えられるレベルだろう)はどれぐらい知られているのだろうか。

 

 小柳の石原の覚え書「サンチョ・パンサの行方」というタイトルは、むろん石原の詩集『サンチョ・パンサの帰郷』をふまえている。戦後、突然シベリアから「帰郷」したサンチョ・パンサという「清冽な男」が、しかしその後その姿を自ら「忘れて」いく過程=行方。その過程=行方にどうしようもなく居合わせてしまった小柳にすれば、「帰郷」前のシベリア体験は、さらに遠いものであったろう。小柳が、石原のシベリア体験をそれほど重視しないゆえんである。

(続く)

 

遅すぎる、早すぎる――小柳玲子と石原吉郎

 

 

 人は詩人に詩の中で会うのか、それとも詩の外で会うのか、詩に内と外はあるのか。

 小柳玲子の『サンチョ・パンサの行方――私の愛した詩人たちの思い出』(二〇〇四年)を読むと、そんな愚問を発さずにいられない。

 

 昨年、詩人の小柳玲子が亡くなった。会ったことはない。小柳の『サンチョ・パンサの行方』は何度も読み直すほど好きで、ずっと会ってみたいと思っていた。本を読んで書き手に会いたいと思うことはめったにない。また小柳のような詩人(というか「人との」と言うべきだろう)との関わり方をする詩人(あとがきに「詩人としての愛が、世の常識のものとはまったく様相を異にしているのだということを、私が愛した詩人たちが分かってくれていると、いまはそう信じている」とある)と会ったところで、おそらく何か話が合うことはなかっただろう。それでも会ってみたかった。

 

 もちろん、本の大半を占める石原吉郎のことを聞いてみたかったのは大きい。石原の詩「夜の招待」の引用で幕を開ける本書は、次のように続く。

 

どうか石原吉郎の詩を読んでいただきたい。そこに石原吉郎が確実に存在する。他者が記した「石原論」の中にはほとんどいない。彼自身が記した、見事ないくつかのエッセイ、その中にすら真の石原吉郎はいないように思える。エッセイの中に現われる石原吉郎は何かの役を演じているような趣きがかすかにあり、すべては整然としすぎている。

 私たちが石原吉郎という人を全く識らず、ただその詩を読んだ瞬間の、衝撃。それをもう一度味わってくれと頼むことはすでに不可能であるが、せめていくつかの初期の名作を、この稿と共に読んでいただくのが、私の第一の目的である。(小柳玲子『サンチョ・パンサの行方――私の愛した詩人たちの思い出』。以降、特に断りがない場合は本書)

 

 私は石原吉郎のエッセイを論じて批評を始めた。だから、この一節を自分への批判として読んだ。もちろん、一九八六年から八九年にかけて連載された小柳の上記の一文が、二〇〇〇年の拙稿に対するレスポンスのはずはない。だが、拙稿は、石原のエッセイばかりで詩をまったく論じていないという批判を多々受けた。それに対しては繰り返さない。また、ある時期から、シベリアエッセイに傾きがちだった石原への関心を、「ポエジー復権」とばかりに詩の方へと引き戻そうとする論調にも全く同意できない。石原にとって(短詩も含めた)詩と散文とは両極をなしており不可分である。どちらか一方を重視することは、石原への無理解でしかない。

 

 「どうか石原吉郎の詩を読んでいただきたい」という小柳の主張は、一見それらの論調に連なって見える。だが、小柳の本に描かれた石原像はあまりに生き生きと(なまなましくと言った方が適当か)魅力的で、かえって読む者が石原詩に向かうことを妨げているようにすら思える。小柳の一冊は、石原を読んだことのない者を詩に近づけるかもしれないが、そうでない者にとっては、むしろ石原詩を粉砕しかねない破壊力を備えている。そして、それは、当の小柳玲子自身を襲ったことでもあるのだ。

 

石原吉郎が亡くなってすぐの頃、つまりは昭和五十二年から五十三年にかけて、女性詩人の何人かが「自分は石原吉郎に愛されていた」「自分はラブレターをもらった」「自分は××をもらった」とかしましく言いたてて周囲を辟易させた。それぞれの女性には、それぞれの言い分があるのだろうが、つきつめれば自己顕示欲なのである。顕示するに足りる自己だという信念があるのなら、自分の才能によって名をあげればよいものを、有名詩人に愛されたことのみで、何とか注目を浴びたいと、必死になる輩である、どうせろくな詩人ではない。詩人と呼んでいいのかどうかも判然としない。いや、もしかするとそういうのが詩人なのかもしれない。〔…〕要は石原吉郎がやはり存在として大きかったことである。あれが壊れた小詩人であったら手紙など誰が五月に書こうが、六月に書こうがよかったのである。私が悲しいのはそんなことではなく、この騒ぎが静まった後も、この詩を読むともう以前のような透明感がなく、どのように頭を振って読み直しても、雑々たる想念が詩を汚らしくしてしまうことである。

 

 ならば、石原の「覚え書」をなまなましく描くことは、読む者の「雑々たる想念が詩を汚らしくしてしまう」ことにならないか。なにしろ、ここに描かれた石原は、現在であればパワハラ、セクハラで訴えられてもおかしくないような人物像なのだから。おそらく、そうした訴えによって関係が切断されずに、このような文学者の肖像が描かれることが可能だった最後の時代だろう。

 

 いや、本書で小柳は、一時期異様に高まっていた石原吉郎の神話破壊を目論んだのだろう。そのうえで、人々にまっさらな状態で石原の詩に向き合ってほしかったのだろう。小柳の描いた石原像にはそんな愛と憎しみがあふれている。

 

 小柳は最初、当人を知らずに読んだ石原の詩に圧倒され、尊敬し、だがやがて知り合った人間石原に翻弄されていく。「書かれたものと書いた人間との間にある深い溝」に茫然とするのである。だが、小柳にとって、詩とは、詩を読むとは、この「溝」をも含めてあるものなのだ。「しかし石原吉郎はこの溝も含めて、いつかずっと後の日に、静かに伝説になりきるだろう。この溝を抜きにして彼を語っていれば、彼は中途半端な像をしか結ぶことができずに終わってしまいそうである」。これは石原に限らず、本書で描かれる黒部節子杉克彦、水沼靖夫、北森彩子についても同様だといえる。

 

 むろん、「書かれたものと書いた人間との間に」ギャップがあることなど当たり前だ。小柳にとっての石原が特異だとしたら、この「溝」がそのまま石原の文学そのものがはらむ「溝」であり、さらに言えば現代詩が直面した歴史性をも体現していたことであろう。いわばそれは、ただの「溝=ギャップ」ではなく、そうした意味において「深い溝」だった。しばらく、この「深」さを漂ってみたい。

 

(続く)

 

平和憲法の「門前」――デリダ、カフカ、鷗外 その2

残念ながら、われわれの掟はあまりよく知られていない。支配者である小さな貴族間の秘密であるからだ。古い掟はきちんと守られているとみていいのだが、自分の知らない掟によって支配されるのは、けっこう苦痛なものである。だからといって、掟に対するさまざまな解釈のこと、またほんのひと握りの者たちだけで、民衆全体は解釈に加われないこと、あるいはそれによって生じてくる不都合のことを述べているのではない、それはたぶん、たいしたことではないだろう。掟自身がとてつもなく古く、何世紀にもわたっていろいろ解釈されてきたので、すでに解釈自体が掟になっている。いぜんとして解釈の余地はあるとしても非常に限られており、それに解釈に際して貴族たちが、もっぱら自分たちの利を考え、民衆の不利なように取りはからうなどのことはなさそうだ。そもそものはじめから貴族のために定められた掟であって、貴族はその拘束の埒外にある。だからこそ掟はひとえに貴族たちの手にゆだねられているのだろう。むろん、そこに英知がうかがわれるが――古い掟に英知がこもっていないはずはないだろう?――われわれにとって苦痛であることにかわりはなく、まったく、なんともしようのないことなのだ。(カフカ「掟の問題」一九二〇年)

 

 とりわけ重要なのは、法=掟の周囲に「貴族」階級が存在しており、そのことが「英知」と呼ばれていることだ。デリダは、これを受けて、「法は、慣習的にソフィストに割り振られている因襲尊重の慣習より、もしこう言えるなら、はるかに精巧にできている(ソフイステイケ)」(「先入見」)と言った。そこに「法」の「秘密」があるのだ、と。

 

法はつねに隠されており、或る階級――たとえばカフカが『掟の問題』に書いている貴族階級――が保持するふりをしているだけの秘密であり、同時にこの秘密への委任である。秘密とは何ものでもない。そして何ものでもないということが、しっかり守られなければならない秘密である。秘密とは、現前する何ものでも、現前可能な何ものでもないが、この何でもないものが、しっかり守られなければならないもの、ぜひ守られなければならないものなのである。そして、この秘密保持の役目を委任されているのが貴族階級である。貴族階級とはそうしたものでしかなく、『掟の問題』が暗示しているように、庶民階級が貴族階級なしに済まそうとすれば、数多くの危険を冒すことになるだろう。庶民階級は法の本質が皆目理解できないだろう。貴族階級が必要とされるのは、この法の本質が本質を持たず、それが存在することも、そこに現存することもできないからである。この本質は、卑猥でもあり、同時に呈示不可能なものでもある。だから、貴族たちにこの本質を引き受けさせておかなければならない。そして、そのためには貴族でなければならないのだ。神でなければならない、とは言わないまでも。

 

 「法」の「秘密」とは何か。デリダは、「秘密とは、現前する何ものでも、現前可能な何ものでもないが、この何でもないものが、しっかり守られなければならないもの、ぜひ守られなければならないものなのである」と言う。すなわち、ファイヒンガー―森鴎外のいう「現前」する「かのように」ある、「何でもない」が「守らねばならないもの」である。

 

一番正確だとしてある数学方面で、点だの線だのと云うものがある。どんなに細かくぽつんと打ったって点にはならない。どんなに細くすうっと引いたって線にはならない。どんなに好く削った板の縁も線にはなっていない。角も点にはなっていない。点と線とは存在しない。例の意識した嘘だ。しかし点と線があるかのように考えなくては、幾何学は成り立たない。あるかのようにだね。〔…〕法律の自由意志と云うものの存在しないのも、疾っくに分かっている。しかし自由意志があるかのように考えなくては、刑法が全部無意味になる。〔…〕そうして見ると、人間の智識、学問はさて置き、宗教でもなんでも、その根本を調べて見ると、事実として証拠立てられないある物を建立している。即ちかのようにが土台に横わっているのだね。(森鴎外「かのように」一九一二年)

 

 「かのように」の「秀麿」が言うように、「人間のあらゆる智識、あらゆる学問」は、この「かのように」という「秘密」が「土台」となっている。デリダは、カントの実践理性の問題とからめて、「法」の文脈において、この「かのように」を重視している。

 

すなわち、「汝の行為の格率が、汝の意志によって普遍的な自然法則となるべきであるかのように行え」という定言的命令の第二の定式における、「かのように」(als ob)である。この「かのように」によればこそ、実践理性が或る歴史的な目的論、つまり無限の進歩の可能性と調和することができるようになる。私は、法の思想が語り始め道徳的な主体に問いかけ始めるときに、まさにこの法の思想の只中で、いかにして潜在的に「かのように」が物語性と虚構とを導き入れるのかを、かつて示そうとしたことがあった。法の審級があらゆる歴史性や経験的な物語性を排除するように見え、法の合理性があらゆる虚構や構想力(それが超越論的なものであれ)と無縁なものに見えるとき、そのときにもなお、法の審級は自らの寄生者にア・プリオリに保護を与えるように思われるのである。(「先入見」)

 

 一見、「法」の「合理性」は、「物語」や「虚構」といった「かのように」の対極にあるように見える。だが、「法の審級」は「自らの寄生者=かのように」に「ア・プリオリに保護を与えるように思われるのである」。そして、その「かのように」を「保護」しているのが、人格的には「貴族階級」なのだ。

 

そして、この秘密保持の役目を委任されているのが貴族階級である。貴族階級とはそうしたものでしかなく、『掟の問題』が暗示しているように、庶民階級が貴族階級なしに済まそうとすれば、数多くの危険を冒すことになるだろう。庶民階級は法の本質が皆目理解できないだろう。貴族階級が必要とされるのは、この法の本質が本質を持たず、それが存在することも、そこに現存することもできないからである。

 

 鷗外も、「かのように」が「危険」なのではなく、逆に「かのように」という「秘密」が保持されないことこそが「危険」なのだと言っている。

 

ねえ、君、この位安全な、危険でない思想はないじゃないか。神が事実でない。義務が事実でない。これはどうしても今日になって認めずにはいられないが、それを認めたのを手柄にして、神を瀆(けが)す。義務を蹂躙する。そこに危険は始て生じる。行為は勿論、思想まで、そう云う危険な事は十分撲滅しようとするが好い。しかしそんな奴の出て来たのを見て、天国を信ずる昔に戻そう、地球が動かずにいて、太陽が巡回していると思う昔に戻そうとしたって、それは不可能だ。そうするには大学も何も潰してしまって、世間をくら闇にしなくてはならない。黔首を愚にしなくてはならない。それは不可能だ。どうしても、かのようにを尊敬する、僕の立場より外に、立場はない。

 

 知られるように、「かのように」は「大逆」事件への応接として書かれた。ここは、その鷗外の「大逆」事件に対する思考の核心が表れている箇所である。「神」は「事実」ではなく、「王」は「神」ではない。「法」の要請する「義務」も「事実」ではなく、「汝の行為の格率が、汝の意志によって普遍的な自然法則となるべきであるかのように行え」という「かのように」(als ob)による「命令」である。もはや、「神」も「王」も「法」もザインではなくゾルレンの位相にあるのだ。だが、そのように科学的な「事実」を暴露することが「危険」を生じさせる、その結果が今回の「大逆」事件だ、だからこそこの「かのように」を「法」の(神の、王の)「秘密」として守るべきだと鷗外は主張しているのである。

 

 その「かのように」の「秘密」を体現するのが「貴族階級」なのだ。鷗外が「大逆」事件に反応して、「かのように」をはじめとする「五条秀麿もの」という「華族=貴族階級」の人物を主人公とした一連の作品(「かのように」「吃逆」「藤棚」「鎚一下」)を書かねばならなかったゆえんである。「五条秀麿もの」で問われているのは、一貫して近代の啓蒙的理性の時代における「宗教」(神)問題と「道徳」(法)問題なのだ。真っ当な保守として当然の思考である。その鷗外の「秀麿」に相当するのが、カフカの「門番」であろう。何度も引くが、次のデリダの言葉にある「貴族階級」は、すべて「門番」に置き換え可能であるといってよい。

 

そして、この秘密保持の役目を委任されているのが貴族階級である。貴族階級とはそうしたものでしかなく、『掟の問題』が暗示しているように、庶民階級が貴族階級なしに済まそうとすれば、数多くの危険を冒すことになるだろう。庶民階級は法の本質が皆目理解できないだろう。貴族階級が必要とされるのは、この法の本質が本質を持たず、それが存在することも、そこに現存することもできないからである。この本質は、卑猥でもあり、同時に呈示不可能なものでもある。だから、貴族たちにこの本質を引き受けさせておかなければならない。そして、そのためには貴族でなければならないのだ。神でなければならない、とは言わないまでも。(「先入見」)

 

 「貴族」や「門番」は、「神」である「かのように」、「法」の「秘密保持の役目を委任され」ている。彼らが「必要とされるのは」、彼らが「保持するふりをしているだけ」の、「現前」することのない「何でもない」「秘密」のためなのである。

 

 「かのように」の秀麿は、父から「皇室の藩屏」となるように期待されている。まさに皇室が「神」である「かのように」機能するために、皇室の「門前」で存在しない「秘密」を守護するよう求められているわけである。

 

 したがって、秀麿が考えているように、秀麿と父とは決して対立しているわけではない。「皇室の藩屏」が、実際は周囲の「塀=門」しか存在しないことを知っている秀麿に対して、「知らない」あるいは「認めない」「そんなふうに考えられては困る」と思う父という相違があるにすぎない。双方とも、皇室を守護する「門番」となること自体には異存はないのだ。

 

 カフカの「掟の問題」(一九二〇年)も鷗外「かのように」(一九一二年)とほぼ同様の認識を示している。だが、「貴族」階級が「滅びる」ことに言及しているぶん、カフカの方に「一筋の光明」が見られるだろう。カフカ自身、「掟の門前」(一九一四年)の段階では、まだ見られなかった認識である。

 

現在のところ見通しは暗いが、いずれ伝統とその研究が晴れて終止符をうち、すべてが明らかになって、掟は民衆に帰属し、貴族が滅びると信じているふしがあって、これが見通しに一筋の光明を投げかけている。

 

 カフカ自身、「掟は民衆に帰属し、貴族が滅びると信じているふしがあっ」たのだろう。貴族やブルジョアに帰属するブルジョア法ではない、民衆やプロレタリアートに帰属する「法」である。だが、カフカがその先に言っているのは、事態はそう簡単ではないということだ。カフカは、デリダが言うように、「…庶民階級が貴族階級なしに済まそうとすれば、数多くの危険を冒すことになるだろう。庶民階級は法の本質が皆目理解できないだろう」と考えているのである。

 

そのことを憎悪をこめて貴族に伝えたりしない。とんでもない、誰もそんなことはしないはずだ。それというのも、われわれが憎悪しているのは、このわれわれ自身であって、われわれがまだ掟に値しない身であるからだ。掟の存続を信じない小党派が、ある意味ですこぶる魅惑的な主張を掲げているにもかかわらず、あいかわらず小さな党派にとどまっているのも、この理由からである。いいかえればそれは貴族および貴族の存続の正当なことを認めたことになる。といったわけで、なんとも厄介なことながら、とどのつまりは一種の反語を用いていうしかなさそうだ。掟に対する信仰をもって貴族を非難すれば、すぐさま全民衆の支持が得られるだろうが、しかしながら、だれひとり貴族を非難する勇気をもたないのだから、この種の政党はあり得ない。こういった危うい一点にわれわれは生きている。ちなみにある文筆家がつぎのように要約した。われわれに課せられた唯一目に見える歴然とした掟が貴族であり、それをわれわれは、この手でなくしてしまおうというのであろうか?(カフカ「掟の問題」)

 

 「われわれ」は「まだ掟に値しない身である」。だから、「掟」に対する政治的批判は広がらず、「掟に対する信仰」はやまない。そして、それは「貴族の存続の正当なことを認めた」のと同じことだ。要は、カフカは、「貴族階級」とは人格化された「掟」の正当性なのであり、「掟=法」を認める以上、「貴族の存続の正当なことを認めたことになる」と言っているのだ。

 

 エルンスト・カントロヴィチが言うように、『ローマ大全』(=古代ローマ法の集成)に基づいた13、4世紀の法学者たちは、貴族や法学者など君主の助言者たちの意向や見解が、「王の口」を通じて発せられることで「法」となると考えていた(『王の二つの身体』)。まさに、「王の口」という「法」の正当性の人間化であり身体化である。いわばカフカは、「掟=貴族」なき社会はあり得るかと問うていると言ってもよい。カフカは、もしかしたらそれはあり得ないのではないかという方向に傾いている。したがって、「こういった危うい一点にわれわれは生きている」と言うのである。

 

 言い換えれば、カフカー鷗外の「掟=法」に関する議論は、「主権「者」論」でなく「主権論」であると言えよう。「主権「者」論」が「結局誰が決めるのか?」という問いこそが「主権」の核心だと考えているのに対して、「主権論」は「法」の「正当性」は「何に担保されるのか?」を問う。前者がいわゆる「決断主義」に収斂するのに対して、後者は「空虚」や「無」に帰結するだろう。「法=掟」には「門前」しかなく、「門」の向こう側は「空虚=無」であるという認識に。

 

 『法の近代』の嘉戸一将は、「八月革命説」の宮沢俊義と、まさに「主権「者」論」か「主権論」かで論争した尾高朝雄が依拠する、田辺元の「絶対無」を論じて次のように言う。

 

〈絶対無〉として表象される主権とは何か。何者でもない〈無〉だ。主権に関する言説は、歴史的に見れば、それが一神教的な神の至高性に由来し、そしてまずはその神に教皇が、君主が、自然(自然法の「自然」だ)が、あるいは人民、国民が取って代わってきたように、主権の場所を埋めるようにして、さまざまなフィクション(擬制)が主権の場所を〈有〉なるものとして演出してきた。それらが消費され尽くした歴史の末端にあって、結局、主権の場所が空虚だったと、つまり〈無〉だったと発見したのである。しかし、主権に関する言説が法の法としての正統性を説いてきたように、その空虚な場所なくしては法は法ではありえなかった。権力と暴力、政府と盗賊とを区別しえなくなるのである。その区別を可能にしてきたのが、空虚な場所を充填する演出なのだ。つまり、たとえ〈無〉であっても、それが〈有る〉ように、存在するかのように可視化することで、法秩序は存立してきたのである。

 カール・シュミットは、それを決断者という主体の機能の肥大化した観念によって表現した。しかし、それは決断する主体などではなくても良いのである。ただ権力と暴力、政府と盗賊とを区別させる仕組みがあれば良い。必要なのは、区別するという分別であり、理由を問うという理性だ。主権とは、その意味において、法秩序において理性を作動させるための機能なのである。そして、その理性が権力の限界を定めるのである。そのことを、〈絶対無〉主権論は告げているのである。(『法の近代』)

 

 「権力と暴力、政府と盗賊」とが「理性」や「分別」で「区別」され得るかは今は措く。「主権」が、もし「空虚=無」が存在する「かのように」機能しなければ、「権力と暴力、政府と盗賊とを区別させる仕組み」が無化してしまうということが重要だろう。まさにカフカが言うように、「こうした危うい一点をわれわれは生きている」のである。先に述べたように、権力と暴力とが渾然一体とならないように、「空虚=無」を「秘密」として保持する役目を担ってきたのが「貴族階級=門番」である。だから、デリダが言うように、「庶民階級が貴族階級なしに済まそうとすれば、数多くの危険を冒すことになる」のだ。権力と暴力とを分かつ「門」が、ただそのためだけに存在する「門」が、なくなってしまうからである。

 

 もちろん、これらの議論は、基本的に「空虚=無」として「君主」を、「ふた=門」として(のみ)君臨させておくべきだというヘーゲル君主論」のバリエーションである。神にスラッシュが引かれて以降は、先の嘉戸が言うように、神は教皇、君主、自然(法)、人民、国民らにとってかわり、「さまざまなフィクション(擬制)が主権の場所を〈有〉なるものとして演出してきた」。そういう意味においては、君主権だろうが、人民主権国民主権だろうが、「神の死」以降の「空虚=無」な「主権」の場所を埋めるべく、「さまざまなフィクション(擬制)」のバリエーションにすぎない。だが、われわれは、その「神」の残滓=空席としての「主権」という枠組でしか、依然として権力や法を思考し得ないこともまた確かである。その意味で「主権」や、そのありか(主権「者」であろうが、正当性であろうが)を示す「法」は、ラカンの言う「モノ」としてあると言わざるを得ない。「主権」も「法」も神が十全に機能している空間においては、そもそも必要のないものであり、したがって「神の死」以降は、(本来は)「ない」にもかかわらず(ここでは)「ある」としか言いようのないものだからだ。

 

 だが、だからといって、戦後、天皇主権(君主権)から国民主権へと移行したことを、それは単なるフィクションのバリエーションにすぎないと言いたいのではない。むしろ、「主権」が、神の「ファルス」としてのり越え不可能な「モノ」としてある以上、それはその都度の「移行」の歴史しかないともいえるからだ。

 

マッカーサー草案」の前文や第一条で用いられていたsovereigntyやsovereignという語は、手交直後の外務省訳では「人民(people)」に「主権」があることを意味する語とされていたが、「憲法改正草案要綱」では「人民」は「国民」に改められ、さらに「主権」という語は周到に避けられ、「国民」の意思が「至高」であると表現されている。

 この点について、憲法問題調査委員会の委員の一人だった憲法学者宮沢俊義は、幣原喜重郎の提案により、委員長の松本丞治が「苦心」のうえ「主権」ではなく「至高」を訳語として採用した、と後に回想している(入江俊郎『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題』)。というのも、戦時期に「国体」に「夢中になっていた」人々に、「国民主権」を掲げた草案を呈示することは、「途方もないショックを与える」ことになると予想されたからだった。しかし、GHQは国民主権憲法で明確に定めることを要求し、結局、帝国議会での審議を経て、「至高」は「主権」に改められた。

 当時の政府が危惧した「途方もないショック」とは何か。要するに、主権的権力が国民にあると規定することで想定された「ショック」である。なぜ、主権的権力が国民にあると規定することが「ショック」を与えうるのか。

 帝国議会での草案審議を前にして、一九四六年四月に作成された「想定問答」集に見られるように、当時の政府にとって主権的権力とは憲法制定権力を意味するからだった(拙著『主権論史』参照)。政府が依拠していたのは、言うまでもなく、カール・シュミットの主権論である。つまり、明治憲法第七三条に定められているように、明治憲法の改正は天皇の勅命によってのみ帝国議会で審議されうるのに対して、改正草案において国民主権を定めると、国民の発議によって改正の審議がなされることを意味し、もはや憲法改正は改正ではなく革命を意味することになる、というのである。この点を明確に指摘したのが、宮沢俊義の「八月革命」説だった。すなわち、ポツダム宣言を受諾した時点(一九四五年八月一四日)で、国民主権を採用することが決定づけられていたのであり、実はそのとき「革命」が起きていたのだ、と。(嘉戸一将『法の近代』)

 

 「戦時期に「国体」に「夢中になっていた」人々」に、「国民主権」が「途方もないショックを与え」たのは、おそらく「国体」に「夢中になっていた」人々に、「王殺し」をしてしまったと思わせたからだろう。そして、述べてきたように、その「ショック=後悔」こそが共同体に「平和」をもたらし、憲「法」に「平和(国家)」を書き込ませた。だが、これまた述べてきたように、「平和国家」を最初に披瀝したのは、「昭和」天皇自身であり、帝国議会(一九四五年九月四日)における「勅語」だった。すなわち、王自身が「王殺し」を行ったといえる。その1で述べたように、その方が王の死後の統治が強まるからである。

 

 先の引用のように、「明治憲法第七三条に定められているように、明治憲法の改正は天皇の勅命によってのみ帝国議会で審議されうるのに対して、改正草案において国民主権を定めると、国民の発議によって改正の審議がなされることを意味し、もはや憲法改正は改正ではなく革命を意味することになる」(『法の近代』)はずである。だが、「平和」憲法の根幹が「勅語」によってもたらされることによって、前もってその「革命」は簒奪された。「明治」の憲法発布と国会開設という「自由民権運動=革命」の成果であるべきものが、あらかじめ「明治」天皇の「詔勅」によって横領されていたように。それは、日本近代文学の文脈でいえば、政治小説の主題の簒奪=無効化である。 

 

knakajii.hatenablog.com

 

 日本近代文学の課題は、「平和」憲法が、この「明治」憲法における革命の簒奪=無効化の反復であることを、まずもって認識することだろう。というか、見てきたように、おそらく「王殺し」という問題構成自体に、「革命」を無効化する防衛機制=ロジックが組み込まれているのである。

 

 宮沢俊義の「八月革命」説も、それと論争した尾高朝雄の「ノモス主権」論も、ともに天皇制存続のためのイデオロギーの二側面だった。それはともに、いかに天皇制と国民主権とを矛盾なく縫合するかというロジックに基づいており、敵対的な「論争」を装っていたにすぎなかった。いうなれば、一方は「門番」、もう一方は田舎から来た「男」として、ともに「平和」憲法の「門前」に居合わせたようなものだ。両者の問答=論争自体が、平和憲法の「秘密」を支えているのである。だが、戦後憲法によって、あの「貴族=華族」階級がようやく廃止されたこともまた確かだ。またしてもデリダを引けば、「『掟の問題』が暗示しているように、庶民階級が貴族階級なしに済まそうとすれば、数多くの危険を冒すことになるだろう」(「先入見」)。それぐらいには、「危うい一点にわれわれは生きている」(カフカ「掟の問題」)といえる。

 

中島一夫

 

平和憲法の「門前」――デリダ、カフカ、鷗外

 戦後の平和憲法が、いわゆる「八月革命」(宮沢俊義)による「王殺し」によってもたらされた共同体の「平和」とその憲「法」への書き込みという、フロイト『トーテムとタブー』のような「出来事」だったとして、重要なのは、デリダが分析したように、われわれはそれを「王殺し」という「出来事」として措定できないということだ。

 

フロイトが道徳の起源に関する当初の図式を越えて、カント的な意味での定言的命令という名称を用い始めるのは、一見したところ歴史的な図式の内部においてである。一つの物語が、原父殺しという出来事の特異な歴史性へと差し向けるのだ。『トーテムとタブー』(一九一二年)の結論は、そのことを明確に想起させている。「原始社会の最初の倫理的掟や倫理的制約は、われわれの見解によれば、その行為者にとって『犯罪』という概念の起源となった行為への反作用によって解釈されるはずであった。この行為を後悔して[だが、もしこの後悔が道徳以前、法以前に為されるとしたら、それはなぜ、どのようにして為されるのか? ジャック・デリダ]、行為者たちは、もうこうした行為が決して起こってはならないし、ともかくも、こうした行為の実行が、もう決して誰の利益の源になってもならないと決心した。あらゆる種類の創造を豊かに生み出すこの罪意識は、われわれの間でもまだ消え去ってはいない。(ジャック・デリダ「先入見――法の前に――」、『どのように判断するか――カントとフランス現代思想』一九九〇年)

 

 「息子」らが全員一致で「原父」を殺してしまったという「後悔」が、「殺すなかれ」というタブー=法とそれによる道徳=平和をもたらしたとして、例によってデリダは、だが法や道徳が「前」もって存在しなければ、どうして「息子」らは「後悔」し得たのかと問う。この場合「後悔」とは、「法=道徳」に反したことを「後」から反省して「悔」やむことだからだ。そうでないと、まさに「後悔」が先に立ってしまうではないか、と。

 

 しかも、その「後悔」は「原父殺し」が成功ではなく「失敗」したことに基づいているとフロイトは言う。「息子たちの誰も、父の地位を手に入れるという源初の欲望を満たすことはできなかった」。そして、原父殺しという犯罪が無益であったために一層恐怖が募り、その結果「父」への情愛に満たされるのだ、と。「後悔」とは「犯罪」を犯したことに対するものではなく、それが「無益」だったことに対するものなのだ。「道徳=平和」の発生は、「原父殺し」をしてしまったことによるのではなく、むしろ以前より「父」に対する恐怖や情愛が増加し、その結果「平和」がもたらされたことによっているのである。したがって、デリダは次のように分析する。

 

父殺しは失敗する、なぜなら死せる父はなおいっそうの権力を握るからだ。父を殺す最良の仕方は、父を(有限なままに)生かし続けることではないのか。そして父を生かし続ける最良の仕方は、父を殺害することではないのか。ところで、こうした失敗が道徳的反作用を助長するとフロイトは明言する。だから道徳が誕生するのは、実は誰一人殺すこともない犯罪、到来するのが早すぎるか遅すぎるかして、いかなる権力をも終わらせることのない犯罪、そして、実は犯罪以前にすでに後悔が、それゆえに道徳が可能でなければならなかった以上、何ものも創始することのない犯罪、こうした無益な犯罪からなのである。フロイトは出来事の現実性に固執しているかに見えるが、この出来事は一種の非—出来事、取るに足らない〔無の〕出来事、準—出来事でしかなく、これが物語的語りを要請すると同時に破棄しもするのである。

 

 戦後民主主義のいわゆる「悔恨共同体」の「後悔」が、「原父殺し」をしてしまったことによるのではなく、それが「失敗」したことによるということが重要だろう。「原父殺し」が「いかなる権力をも終わらせることのない犯罪」であり、したがって「無益な犯罪」であったということ。いや「無益」どころではない。その「犯罪=革命」は、より「父」の権力を強めてしまったのだから有害ですらあったといえよう。

 

死せる父が存命中かつてなかったほどに強くなり、自分の死をいっそう巧みに糧として生きる以上、そしてきわめて論理的に言って、存命中にすでに死んでおり、死後においてpost mortemよりも生前においていっそう死んでいたのであろう以上、父殺しは通常の意味における出来事ではない。ましてや道徳律の起源ではない。その固有の場における父殺しに出会った者は誰一人としておらず、生起しつつある父殺しに直面した者も誰一人としていないだろう。それは出来事なき出来事、何ごとも起こることのない純粋な出来事、物語をその虚構の内に要請し廃棄する出来事の出来事性である。何一つとして新しいことは起こらないが、しかしこの何一つとして新しくないことが、法を、そして殺人と近親相姦というトーテミズムの二つの根本的禁忌を創始するのであろう。このたんに想定されただけの純粋な出来事が、歴史の内に不可視の裂け目を刻印するわけである。

 

 「王=原父」は「存命中にすでに死んでおり」、さらには「自分の死をいっそう巧みに糧として生きる」のである。「王殺し」という「出来事」は、何者かに殺された=無化されたのではない。それは最初から「出来事」としては存在しないのだ。そのかわりに、というかそれゆえに、「法を、そして殺人と近親相姦というトーテミズムの二つの根本的禁忌を創始」したのである。

 

 戦後の「平和」国家への転換が最初に言及されたのは、一九四五年九月四日の帝国議会の「勅語」によるという。日本の「平和」主義は、占領軍から「押しつけ」られるより「前」に「昭和」天皇によって導入されたのである。

 

一九四五年九月二日、降伏文書に調印して、連合国に対しポツダム宣言を受け入れた。

 その翌々日の四日、帝国議会が開会され、昭和天皇勅語を発している。改めて確認いただきたいことだが、敗戦の決定を公表した八月一五日からわずか半月のことである。

 そのなかで昭和天皇は、帝国議会でこう宣言した。「朕は終戦に伴う幾多の艱苦を克服し国体の精華を発揮して信義を世界に布き平和国家を確立して人類の文化に寄与せんことを冀い日夜しん念措かず」。

 なんと「平和国家」は、昭和天皇によって先取りされていたのである。〔…〕宮沢(俊義)がこの勅語報道を見て、これをヒントにしたかどうかは不明である。ただ、GHQ案の「戦争の放棄」条項には、すでに述べたごとく「平和」などまったく書かれていなかったのだ。(古関彰一『平和憲法の深層』二〇一五年)

 

 すなわち、「戦争放棄」と「平和」憲法は区別され、GHQ案に後者は全く不在だった。にもかかわらず、日本国憲法に「平和」は書き込まれているのである。もしそれが「昭和」天皇の「勅語」によるのだとしたら、まさに「死せる父が存命中かつてなかったほどに強くなり、自分の死をいっそう巧みに糧として生き」たわけである。その際、「父殺しに出会った者は誰一人としておらず」、したがって「父殺し」はザッハリッヒな「出来事」としては起こってはいない。

 

 「昭和」帝1→第二次大戦→「昭和」帝2。確かに「何一つとして新しいことは起こらな」かった。「しかしこの何一つとして新しくないことが、法を、そして殺人と近親相姦というトーテミズムの二つの根本的禁忌を創始」したのだ。「父殺し」とは「出来事なき出来事」であり、「たんに想定されただけの純粋な出来事が、歴史の内に不可視の裂け目を刻印する」のである。「父殺し」はなされていないのに、なぜか歴史は「父殺し」以前/以後に分けられてしまう。「平和=道徳」が誕生し、それを表現する「法」が書き込まれるやいなや、それは「父殺し」の「刻印」、いや「刻印」のみしか存在しない「父殺し」として機能し始める。「法」は歴史を前/後に分断する、平和=道徳の「起源」、いや「起源なき起源」である。カフカの主人公さながら、人はいきなり、不可視の「刻印」のみしか存在しない「法」の「前」に立たされるのだ。

 

 そして、「法」の「前」に立たされた時には、すでに「法」の「後=向こう側」にいるのである。デリダが、フロイト『トーテムとタブー』をふまえつつ、カフカの『法の前に』のテクスト分析に向かうゆえんである。むろん、これは、ルソーの「祭」(『言語起源論』)とレヴィ=ストロースの「近親相姦の禁止」(『親族の基本構造』)をめぐる分析と同型である。

 

祭の前には、近親相姦の禁止も社会もなかったのだから、近親相姦もない。祭の後には、近親相姦は禁止されているのだから、それはもはやない。〔…〕

 祭はそれ自体で近親相姦そのものである。ただし、そのようなもの――が場を持ちうるとしたらの話だが、近親相姦が場を持ったとして、それは禁止をあとから確証するはずのものではない。禁止以前には、それは近親相姦ではなかった。禁止がなされてしまうと、それが近親相姦となるのは、禁止されたものを認めてからにすぎない。ひとはリミットすなわち祭のつねに手前か向こう側にいる。祭りや社会の起源など、現前するものの手前か向こう側にいるのだ。(デリダ『グラマトロジーについて 下』)

 

 したがって、近親相姦そのものが、ザッハリッヒに「存在」するとしたら、「祭」においてしかあり得ない。「ルソーが描き出しているのは、社会以前でもなく、すでに形成された社会でもなく、誕生の運動であり、現前の連続的な到来であるということを忘れないようにしよう。この現前という言葉に能動的で動的な意味を与えなくてはならない。それは働きつつある現前、みずからを現前化させつつある現前である。この現前はひとつの状態ではなく、現前が現前的なものになるような、生成のことなのだ」(『グラマトロジーについて 下』)。ルソーにとって「祭」とは、社会の発生以前と以後の「間」にある(としかいいようがない)「純粋な連続性」なのである。近親相姦そのものは、その「祭=連続性」の渦中においてしかあり得ない。同様に、殺人の禁止という平和=道徳の発生があったとすれば、それは「戦争」の渦中においてしか考えられない。

 

 むろん、ルソーの言う「戦争」や「祭」は、「現前において消尽される」「純粋な現前の瞬間」なので、われわれはそれを「想像」や「想定」することしかできない。実際に、われわれの前に「現前」するのは、すでに「殺人」や「近親相姦」が「禁止」された「法」でしかない。われわれは、「平和憲法」を前にすることで、「戦争」の渦中に「父殺し」がなされたことを遡行的に「想像」「想定」するのである。

 

 同時に、「法」の存在は、先に述べたように、「父殺し」が「失敗」したことを示している。したがって、「法の支配」とは、「父殺し」の「失敗」を永続化させる行為にほかならない。だが、そうさせているのは、カフカの主人公のように、「法」の「前」にいる男=民衆自身なのだ。

 

だから、この点は是非確認しておかなければならないが、彼は中に入ることを自分自身に禁じているはずであり、何としても禁じなければならないのだ。彼は、法に従うようにではなく、法に近づかないように自分自身に義務づけ、自分自身に命令を下さなければならない。そして法の側では、結局のところ次のことを男に言わせるか、あるいはわからせようとしている。「私のところに来るな。私はおまえに、まだ私のところまで来ないように命ずる。この点でこそ、このことにおいてこそ私は法であり、おまえは私の要求を聞き入れるだろう。だがおまえが私のところまで到達することは決してない」と。(デリダ「先入見――法の前に――」)

 

 正確に言えば、民衆は「法」の「前」から「中」に入ることを「禁止」されているわけではない。門番によって「今はだめだ」と、「中断」、「遅延」、「差延」させられているのである。だが、デリダは、民衆の意志次第でいつかは「法」の「中」に入れると言いたいのではない。そうではなく、「法」による「禁止」とは、「中」に入ることの「禁止」ではないということなのだ。

 

 「法」が禁止を下すということではなく、法そのものが禁じられており、法そのものが禁じられた場だということである」。したがって、カフカの主人公は、「法」の「前」に、すなわち「法」の「外」にいるにもかかわらず、「彼が法の外に〔無法状態で〕いるということが、すなわち彼が法の主体だということである」。「法」の支配は民衆自身によるものの、当の民衆にそうさせているのは「法」であるというこの悪無限。というか、そして「法」と「民衆」のそのような関係に「正統性」をもたらしているのが「門番」の存在にほかならない。カフカの「法の前に」は、「法」と「男」だけでは成立しない物語なのだ。

 

 「民衆=男」に直面している「門番」は、一番下っ端の「門番」にすぎず、その奥には徐々に権威を増していくように不特定多数の「門番」が控えている。「門番」が「だめだ」と「禁止」するのではなく、「まだだめだ」という「遅延」の言葉を口にするのは、この「門番」の不特定多数性=無限性の表現といえる。だが、「門番」自体も「法」から隔てられており、最後の「門番」も決して「法」に到達することはない。「法」を頂点とするヒエラルヒーは存在するのだが、その頂点には隙間があって、そこには何びとも参入できないようになっているのだ。

 

 カフカは、「掟の問題」(一九二〇年)というアフォリズムにおいては、その無限の「門番」を、「貴族(階級)」として描いた。

 

(続く)

 

大杉重男氏の批判に触れて

 ブログの拙稿(最近の中上健次についての記事)に対する大杉重男氏の批判

franzjoseph.blog134.fc2.com

を読んだ。

 大杉氏が言うように、氏と私との違いのひとつは「王殺し」の捉え方だろう。大杉氏は、実際に(リアルに)王が殺されていないならば「王殺し」と呼ぶべきではないと言う。さすがに「自然主義リアリズム」の人である。

 

 大杉氏の考えは、本人は否定するだろうが、27年テーゼに近い。明治維新は不十分な革命であり、したがって社会主義革命の前に「王殺し」を文字通り完遂するブルジョア革命が先行しなければならないという、いわゆる「二段階革命論」だ。もちろん、二段階目が抹消された冷戦終焉後の現在においては、もはや二段階目なき二段階革命論であるが(大杉氏も、自身のブログ掲載の「東アジア同時革命についての走り書き的覚書」で、自らの革命論を「これは二段階革命論ではない」と否定している。私はまだ、氏の革命論についても、氏の言う「東アジア専制主義」についても、それらに言及できるほど読み込んではいないが、それが冷戦終焉後の革命を模索する試みであることは理解している)。

 

 なるほど、大杉氏は一貫している。明治維新も、大逆事件も、敗戦後も、日本においては王殺し=ブルジョア革命はなかった、と。その意味で、日本はまだ「近代」の何たるかを本当は知らない、と。

 

同様に私たちは共産主義とは何か、いや資本主義とは何かすら知らない。民主主義も自由主義も知らない。知っているのと思うのは錯覚に過ぎない。東アジアの漢字文化圏の人間がそれを知るのは、現在も日本・朝鮮・中国に国境を超えて厳然と機能し続ける東アジア的専制主義の構造を真に廃止した後である。(「東アジア同時革命についての走り書き的覚書」)

 

 そして、「自然主義」文学こそが、その現実に対して最も対峙し肉迫したのだ、と。

 

しかし明治において日本の「自然主義」文学が示したのは、明治維新が「革命」ではなかったこと、近代日本が依然として東アジア的専制主義の軛の下にあるという現実だった。「自然主義」文学はその現実を変える方法は示せなかったが、少なくともその現実だけは手放さなかった。

 

 大杉氏は、「「自然主義」文学は「大逆」的だったからこそ、批判された」、「私の考えでは、近代日本文学の「象徴秩序」は、むしろ「王殺し」殺しとしての「自然主義」殺しによって成立した」と言う。だが、本当に「自然主義」は外から「批判され」、「殺」されたのだろうか。「その現実を手放さなかった」けれども、「その現実を変える方法は示せなかった」原因は、「自然主義」自体に内在していたのではなかったか。

 

 いわゆる「実行と芸術」、「実行と観照」の問題である。「大逆」事件の衝撃の中で書かれた石川啄木の「時代閉塞の現状」(一九一〇年)は、「自然主義」自体が「観照」へと退き、「実行」と切り離されてしまったことで、もはや「時代閉塞」を打ち破る力がないという批判であった。その後の啄木の転回は、要は「自然主義」への期待が裏切られたことによっていよう。あるいは、平野謙が、あれほどまでに「実行と芸術」、「芸術と実生活」、「政治と文学」というように、近代日本文学史において対立をなす二項間の距離を追っていかねばならなかったのも、同様な問題意識に基づいていたといえる。

 

 そして、その問題は、大杉氏自身の言葉にも及んでいると思われる。「私は、絓氏と同様、そして氏よりも積極的に、幸徳秋水や菅野すが子の文学的分身として、田山花袋島崎藤村・岩野泡鳴・徳田秋聲らを考えている」、「「自然主義」文学は「大逆」的だったからこそ、批判された」に見られる「文学的分身」や「「大逆」的」という言葉がそれである。花袋や藤村らは、実際には幸徳や菅野ら「大逆」事件の「首謀」者ではなかったがその「文学的分身」であり、したがって「大逆」そのものではないが「「大逆」的」ではある――。だが、その「リアル」と「分身」の距離こそが、啄木などには大問題であった。

 

 自然主義が「日本の「封建的」現実を描くこと自体が「大逆」だった」と大杉氏が言うとき、両者の距離は最大となる。自然主義が「日本の「封建的」現実を描くこと」で「日本の文学的伝統を後戻り不能なまでに破壊」する(すなわち、先行する権威や伝統=父を、敵として打倒する=父殺し)という「大逆」を犯したとする評価は、先に見た「大逆」を実際に「王殺し」したか否かとザッハリッヒに捉える自らの言葉を裏切っているように思える。やはり、「「封建的」現実を描くこと」や「文学的伝統」を「破壊」することは、実際に「王殺し」することから遠く離れているように見えるからだ。

 

 大杉氏は、「自然主義」文学は、志半ばで殺されさえしなければ、それは実際に「王殺し」を敢行し得たと言いたいのだろうか。「自然主義」を象徴界ではなく「現実界と結びつける」というのはそういう意味なのだろうか。

 

 大杉氏の批評が、そのように自然主義をあえて過大評価し、その可能性を最大限に引き出そうと試みようというのなら、私もそれが「批評」だと思うので、分からないではない。だが、やはり私は、「日本の「封建的」現実を描くこと」や、「文学的伝統」を「破壊」することによっては、決して「大逆=王殺し」には到達し得えず、そのことに「描写」や「リアリズム」の問題があり、また「王殺し」の問題があると考える。言い換えれば、鷗外の水準で「大逆」事件を「王殺し」として思考した「自然主義」文学者が果たしていたのか、甚だ疑問に思うと言ってもよい。

 

 百歩譲って、たとえザッハリッヒに「王」が殺された(打倒された)として、それによって天皇制が崩壊するとは思えない。それは「金」が殺されて「貨幣」になったとして、そうした即物的なレベルでの「死」によっては、一向に資本制が崩壊しないことと同型である。

 

一見したところでは、ジャコバン主義者は、中でもマルクスが『資本論』第一章の脚注で指摘した錯覚に屈していたように見える。「王であること」は、王の人格の直接的な生まれつきの固有性ではなくて「反省—の―規定」であることを、彼らは見逃しているというものである――つまり王が王であるのは、彼の臣下が彼を王として扱うからで、その逆ではないということを、見逃しているというのである。こうしてこの錯覚を除く適切な道は王の殺害ではなく、或る人物が王という資格を獲得する社会関係の編み目の崩壊なのである――こうした象徴の編み目が遂行力を失うや否や、突如分かることは、それまでこれほどの魅惑を惹き起こしていた人物が実際には並の個人であるということである。我々はこれまで象徴機能に嵌め込まれていた物質的な残余に直面させられるのだ。

 

〔…〕言い換えると、王の首をはねることは根本的に余計であり、かつまた王の肉体の破壊というそのことによってかえって王のカリスマ性を肯定する恐るべき冒涜でもあるという、逆説的で矛盾した印象を避けがたいということである。(スラヴォイ・ジジェク『為すところを知らざればなり』鈴木一策訳)

 

 「王」はザッハリッヒな一人物ではなく、いわゆる「もの」(ラカン)としてあるという問題である(おそらく、こうした「王」の捉え方自体に大杉氏は反対なのだろう)。私はこの「もの」を、「例外状態」における「主権」(シュミット)や、法を「措定」する「暴力」(ベンヤミン)の問題として捉え直すことで、より問題は明確になると考えている。たとえ、ザッハリッヒに「王」が殺されても、なおどこかに残存するのが「主権」(啄木の敗北は、これを「強権」と見誤ったことによるだろう)の問題である。「ジャコバン主義者」を悩ませた、王殺し「後」の問題である。

 

 「ジャコバン主義者」にとって、常にすでに殺されているのに死なないのが「王」であった。それは「王」がザッハリッヒな位相になかったことを意味する。彼らは、中上の「秋幸」さながら「違う」と言いたかったはずである。起こっているのに(不可避)、決して起こらない(不可能)のが「王殺し」なのだ。

 

 大杉氏が、日本にはフランス革命=王殺しはなかった、(君主なき)共和制もなかっ  た、したがって民主主義と言っても欺瞞である、と言いたいのであれば私も同意する。だが、それは同時に、「王殺し」が、決して実際に王が殺されたか否かでは捉えられないことをも意味する。それこそが、王殺し「後」の世界に露呈した問題であった。

 

 「大逆」事件とは、「王殺し」の「不可避」性を示そうとした幸徳や菅野が、結果的にその「不可能」性をも証してしまった事件であったといえる。重要なのは、その「不可能」性が、決して幸徳や菅野が殺されたことによるものではないことだ。すでに事態はザッハリッヒな位相にはなかった。鷗外が「かのように」と呼んだのはそのことである。

 

中島一夫