物語と悪――王殺し「後」の中上健次 その6

 見てきたように、中上は、「父」になろうとする者がいない日本近代文学が、いったい何を「抑圧」し「排除」してきたのかを明らかにすべく、「物語の系譜」へと向かった。「父」になろうとする者がいないのは、「父」がやがて自壊に追い込まれていくほど劣化の過程にあったからではない。戦後について言えば、それは戦後民主主義(革命)以降、すでに「父(王)殺し」は成就したという父(王)殺し「後」の「物語」が共有されてきたからだろう。フロイト『トーテムとタブー』を待つまでもなく、父(王)殺し「後」においては、全員が「父」になることの断念(去勢)を共有した「子」の共同体にほかならないからだ(言うまでもなく、フロイトは『トーテムとタブー』において、個体発生は系統発生を反復すると考えるゆえに、人類の文明の発達の歴史を個人の成長の歴史から読み解こうとした)。その1で見たように、中上も三島も、この「子」の共同体に苛立っていたといえる。

 

 「子」らは、原初に殺された、死せる「父」のもとで永遠に「子」なのである。フロイトは原初の「原」父殺しは「想像的」なものだと言った。つまりはフィクションだ、と。「現実的」には「死せる父」しか存在しないのだ。中上が批判した、誰も「父」になれず、子=被害者の視点からしか書かれない戦後文学とは、まさに「死せる父」のもとにある「子」たちの共同体の「表象」である。

 

 そのことは、「内向の世代」や「戦後派」、「第三の新人」など、戦後の「文学史」が「世代」にちなんだ命名による歴史の偽造であることをも暴露していよう。「世代」という「文学史」的言説は、端的に「親―子」の関係である「世代」を、「父」の審級に立って擬制するものだからだ。それは、「子」しかいない共同体に、あくまで言説として導入されたメタレベルとしての「父」にすぎない。中上が、そのような実際には「父」がいないのに、いる「かのように」捏造される「文学史」を無効化する作家であったことは論を俟たない(絓秀実『文藝時評というモード』一九九三年)。その意味で、中上とともに「文学史」は終焉したのだ。

 

 「子」しかいない戦後の共同体は、その1で見た三島も言うように、大逆事件という「王殺し」以降、「王は存在しない」「かのように」という、戦前の鷗外=父による統治のデザインが、基本的に踏襲された空間である。「王=父殺し」を前提とした近代の啓蒙的理性の進展が、その空間の再生産を担保してきたのである。この空間をそのまま「表象」してきた(リアリズム!)日本近代文学が、父(親)殺し、王殺しを抑圧し排除してきた、それ自体ひとつの「物語」であることも見てきたとおりだ。

 

老人は黙ったまま浜村龍造を見る。その老人は浜村龍造を見ているが何も視ていないように虚ろな表情をしていた。モンはその佐倉の姿を思い浮かべ、天子様暗殺謀議を企てた血筋の者が虚ろな表情のまま何を考えていたのだろうかと想像した。その男は自分で自分の命を絶つ激しい昂ぶりなど生涯を通して一度も抱いた事などなかった。生れてすでに百歳も齢取っていて、人生はただ土壁がぼろぼろ崩れるのを見つめるだけだというように虚ろなままなお齢を取りつづける。他人から見れば男は齢取りすぎてなお人の生命の淵につめをたてて落ちていくまいとしがみついているように見えるが、元々齢取って生れ、百年も前の事件が無実で、薩摩、長州のデッチ上げだと言い続けている男には、しがみついて辛うじて生きている自覚もなく、ましてや、今、まさに生きている、という自覚などない。老人に、親を殺して擬装したと噂を立てられる秋幸はどんな風に映るだろうか。まさに秋幸は生きていた。(『地の果て 至上の時』)

 

 「佐倉」が、「天子様暗殺謀議を企てた血筋の者」でありながら、やがて「路地」のすべてを手に入れた「蠅の糞の王」に君臨したとしても、彼は、例えば革命の殉教者として自らを「例外」にせず「集団から除外」せずに死を恐れなかったロベスピエールのようには、「自分で自分の命を絶つ激しい昂ぶりなど生涯を通して一度も抱いた事などなかった」。

 

なぜロベスピエール自身は自分が告発されることなどないと確信できるのかという疑念を、じかに口にしているからである。彼は、集団から除外された主人(マスター)、つまり「われわれ」の外に在る「私」ではない――そもロベスピエールがいまや囚われの身にある大物ダントンの盟友だったことがある以上、ダントンとの親近性が自分に反する形で明日にでも利用されたらどうするのか? 要するに、どうしてロベスピエールは、自分が解き放ったこの過程が自分自身を吞み込んでしまうことなどないと確信できるのか? 彼の立場が一つの崇高な偉大にまで昂まるのは、まさにここである。いまダントンを脅かしている危険が明日にも自分を脅かすことを、彼は真っ向から引き受けているのである。ロベスピエールがかくも澄み切った平静を保っている理由、彼がこの命運を恐れない理由は、ダントンは反逆者だが、自分は純粋で、人民の〈意志〉を直接的に体現しているということにはない。それはロベスピエールその人が死を懼れていないからである。(スラヴォイ・ジジェクロベスピエール毛沢東長原豊松本潤一郎訳)

 

 そうである以上、「佐倉」は、たとえ「王=父殺し」を「企てた血筋の者」であったとしても、「王=父殺し」を本質的に思考したことなど一度もないといえる。そのような者が、たとえその後「王」になろうとも、「人生はただ土壁がぼろぼろ崩れるのを見つめるだけだというように虚ろなままなお齢を取りつづける」だけだ。たとえ「王」になっても、すでに彼は「王=父殺し」「後」においてそれを思考から排除した「子」のままだからである。「秋幸」の「違う」は、このように「王=父」が、いつまでも「子」の共同体の一員としての精神しか持ち合わせず、「佐倉」や「龍造」がそうした在り方を「路地」において自堕落に反復することに差し向けられていよう。

 

 そして、「トーテムとタブー」のように、もし「子」らが全員一致で「王=父」を殺したとすれば、王殺し「後」の「子」らは皆、もはや「王=父殺し」など「生涯を通じて一度も抱いた事などない」共同体の一員となるだろう。その意味で彼らは、「佐倉」同様、「天子様暗殺謀議を企てた血筋の者」=共同体の一員といえる。一方で、「佐倉」の家は「皇室の家系」ともいわれる。ここではまさに、死せる「王=父」も、「王=父殺し」を「企てた血筋の者」も、ひっくるめて「子」らの共同体の一員なのだ。とすれば、「子」らは、「佐倉」のごとき、死んだように「虚ろなままなお齢を取りつづける」人生を送るほかないだろう。「佐倉」は、「王=父殺し」を回避し続ける「民」という「死」の共同体を体現している(佐倉=桜?)。

 

 「佐倉」は「王殺し」が「デッチ上げだと言い続ける」ばかりだ。彼は、その4で見たように、「では何故デッチあげまでして、紀州新宮を舞台に選んで紀州グループを拘引、処刑したのか、あかす者はいないし、またその方法もない」(「物語の系譜 佐藤春夫」)ということを、ついに問い返そうとはしない。

 

 中上が志向したのは、大逆事件を「デッチ上げだと言い続ける」このような「被害者=被差別者」の精神ではない。むしろ、「親を殺して擬装したと噂を立てられる」ことを引き受け、王=父殺し「後」を「今、まさに生きているという自覚」とともに積極的に生きようとする「秋幸」を、真に生かしめる文学であった。『地の果て』の記述は、「秋幸」が父殺しをしたことを決して否定しない。「秋幸はさと子と姦した。弟の秀雄を石で打ち殺した。実の父親の浜村龍造を殺した」。

 

 それを否定することは、「王=父殺し」を「デッチ上げ」たうえで、王=父の座を「空席」のまま蓋をしようとする権力の「物語」に加担することでしかないからだ。以降、「王=父殺し」は、思考することもおぞましいタブーとして、「闇の国家=紀州」に葬り去られた。それは先に述べた、「王=父殺し」はすでになされた「かのように」永久に封印しようとする、戦前―戦後を貫く王=父殺し「後」の統治の形態にほかならない。「佐倉」は「デッチ上げだと言い続ける」ことで、自らはそんなことをしでかした者らの末裔ではないと自らの無垢を主張し続ける、「子=被害者」のメンタリティそのものだ。それに対して、「秋幸」は、たとえ「龍造」が自死しようとも、事態を「父殺し」した者の側で引き受けようとする。「デッチ上げ」だ「噂」だと言い続けるのではなく、「違う」と言うことで、むしろ引き受けようとするのである。あるいは、王=父殺し「後」の統治に逆らうように「違う」と言い続けるといってもよい。

 

 中上「物語の系譜」は、未完のまま最終回となった回で、「始終、演劇的想像力=演劇的知を創作上の核とし」た円地文子へと向かった。以前も述べたが、このとき中上が、それを通して「王=父」に漸近しようとした三島由紀夫を媒介として、演劇の「法措定的暴力」(ベンヤミン)を導入しようとしていたことは疑いない。

 

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 実際、ここで中上は、三島との「対話」ともいえる円地の「冬の旅―死者との対話」を冒頭から取り上げる。そこで円地は三島に、「私もあなたとは同郷」で「やっぱり故郷は劇場だと思いますね」と言わせるのだ。

 

では演劇に何があるのだろうか。俳優の肉体か、演戯か? われわれが今、目にしているのは、そんな小賢しいものではない。確かに演劇を観客の前で取りあえず実現するのは、俳優の肉体であり、肉体の演戯であるが、むしろそれより帯電状の熱い乱気流、一種宗教の祭儀空間のような、そこから言葉が派生し、音が派生する仮構された原初の場所が顕わになる点が肝腎なのである。もっと端的に言えば、演劇は交通の場所である。そこでたとえつまらない俳優が台本どおり科白を言ったとして、書かれてある言葉より舌に乗り唇で吐かれた言葉は何倍もの破壊力を持つ。それはひとえに交通の場所として演劇があり、台本に書かれてあった書き文字が、書く、印刷という抑圧を取り除いた事により、言語の重要な要素でありやっかい極りない音素的要素を回復したせいだが、何しろその音素的要素により、物語作者は一気に自分が神の僕としか言いようのない状態に引きずり込まれた事を自覚する。神と言うより、ここでは、日本語を使う者として、天皇と言ってよいだろう。

 音素的要素とは日本語、日本文において、さながら天皇の放つ統治的機構のように在る。

〔…〕さらに考えるなら演劇は、たとえ扱う物が現代であっても、人物は人間の後に神の時代の尻尾を付けているという事である。「セールスマンの死」以後の現代劇でも、それが演じられる劇である限り、神人の類型を抜け出た者らの新しさは尻尾の長さの問題であり、透けて見えるダブルの濃淡の違いにすぎない。男は女に、女は男に、神は人に、演劇はめまぐるしい変化を、それ自体でつくる。さらに物語作者を魅きつけてやまないのは、演劇では純粋の悪を主人公として提出する事が出来る磁場である。(「物語の系譜 円地文子」)

 

 ここで中上は、「演劇」によって「神の僕」となることで「天皇の放つ統治的機構」へと肉迫しようとしている。それは述べてきたように、「王=父」を、正確にいえば「王=父」と「王子=子」とのズレを露呈させるために、「王=父殺し」の「罪」や「悪」を存在させようと「物語」へと向かったのと同じだ。

 

 中上が、「演劇」はたとえ現代ものであっても、「人物は人間の後に神の時代の尻尾を付けている」というのは、その2で見たように、人間が神から落ちた王からさらに落ちた(王)「子」としてあるという、その垂直性の残滓が「演劇」にはあるということである。だからこそ、「物語」同様、「演劇では純粋の悪を主人公として提出する事が出来る」のだ。そこは、「悪」や「罪」がそれとして規定される以前の、いわば「それ何事かは」(秋成)の時空間=場所である。演劇は、「法措定的暴力」を行使することで、「突然の場所の出現」を垂直的に可能にする。中上が円地文子に認めた「演劇的知」とは、これ以外ではない。

 

先に円地文子が演劇的知を持った人であると言ったが、演劇を導入すれば、演劇に内在する力が小説の中に一挙になだれ込むと言う事をもうすこし詳しく言う必要があるだろう。演劇的知とは、何はともあれ、場所という事と強く結びついている。場所は演劇において、二種類を特定してまず進められる。と言うのは、これは、日本古来の文芸様式である歌とも重なる事であるが、演劇ではよほどの歌枕の場所でない限り、劇の進行する場所、つまり、演ずる者がいて観る者がいるというその場所は取りあえず宙空に吊るされ、演劇内に内包する場所が前面に出る。様々な演劇的な要素を持った催し物、ロックコンサートとか、女優のパフォーマンスとかだけでなく、われわれは、方々でこの突然の場所の出現に驚き、現を抜かし、興奮し、血管がふくらむ。

〔…〕聖空間と現実の場所は現代の新劇や小劇場でも基本的に変らない。小劇場の唐十郎はそれをテント小屋に移し、テントを聖空間にしたし、寺山修司の方は、聖空間そのものを変形させてみようと幾つかの実験劇を繰り返した。二つの場所の認識の仕方が、さらに、つかこうへいの芝居や野田秀樹の芝居の個性をつくり、さらに実験的な超現実主義的なセリフ術を生んだり、歌の多発、サーヴィス、笑い等様々なものをつくる大きな要素になったのであるが、円地文子においては場所は、たとえば源氏物語において突然、須磨明石が登場するように、土地をふらりと訪れるという筆の運び、絵巻き物のような手法に変容されるのである。(「物語の系譜 円地文子」)

 

 演劇は、「突然」ポリス=共同体を「出現」させることで、同時にその「暴力」の「主体=主権」としての「王=父」の存在を露わにする。中上は、この「演劇に内在する力が一挙に小説の中になだれ込むように」、自らの小説に「路地」なる「場所」を仮構として立ち上げたのだ。「闇の国家=紀州」という「現実の場所」に、「ポリス=共同体=聖空間」を、「暴力」的に「突然」「出現=措定」させたのである。三島を尻目に、小説に「演劇的知」を導入した円地文子のように。「路地」という舞台で、一見反時代的なギリシア悲劇的な世界が展開されたゆえんである。

 

 「秋幸」は「路地」の私生児として、すなわち述べてきたように、親/子ではなく、「親―子」を「ズレ=差異」のままはらんだ存在として紀州サーガを主人公として生きた。まさに「差異の産物」である。「秋幸」は、まるで以前見たベンヤミンが評価する「オイディプス」のように、「ゲーニアス=反神話的言語精神」、すなわち神の意思に逆らって行動をはじめた精神として存在する。

 

 このとき、中上=秋幸が抵抗しようとした「神話=神の意思」とは、端的に、紀州を「闇の国家」として貶めてきた「法=制度」たる天皇制だろう。そのために、「路地」という「ポリス」を措定し、大逆事件=王殺し「後」の世界をギリシア悲劇として「上演」する「劇場」が仮構的に立ち上げられたのだ。

 

 したがって、「路地」の消滅は経済的な再開発の問題ではすまない。それは、天皇制という「神話=神の意思」を破壊しようとする意志をもって「法措定的暴力」を行使しようとする「主体」(が頭にもたげてくる場所)の消滅を意味する。柄谷行人は、『枯木灘』がギリシア悲劇ならば『地の果て』は「マクベス」である、『地の果て』の「秋幸はいわば「悲劇」を拒絶してしまうのだから」と言った(「物語のエイズ」一九八三年『批評とポスト・モダン』所収)。「マクベス論」(一九七三年)の著者ならではの言葉であろう。

 

彼らはオイディプスのように「本質」を認識するのではなく、人間には「本質」などないのだという認識を得るのである。〔…〕マクベスは運命と闘ったかのようにみえる。だが、事実は運命を求めて挫折したにすぎない。〔…〕彼にとって世界はもはや意味もないが不条理でもない、たんにそこにあるだけだ。そして、彼の最後の闘いにも彼自身は何の意味も認めていない。それはそこにいる相手を一人でも多くこの世界から消去するという単純なほとんど物理的な作業にすぎないのである。彼の闘いは「不条理への反抗」ですらない。「不条理への反抗」とはそれ自体意味を回復しようとする行為、神なき世界で神の代理物としての他者を前提した倫理的な行為である。〔…〕不条理とは見せかけである。それは世界を総体的に意味あるものとするオプティミズムの産物であり、しかもたえずオプティミズムへと、最終的な和解へと自動的に導くのである。ひとびとはそこからただちに引返すか、逆に世界を「不条理」として意味づける。むしろ不条理とは、より一層意味を回復させるために不可欠な一手段である。君たちの生存は無意味だ、疎外されている、非本質的だ……信仰や革命の原動力はこういう訴えにある。魔女はいないが、人間が人間に対して魔女の役割を果すのである。(柄谷行人マクベス論」『意味という病』所収)

 

 これが、眼前の疎外=革命論への批判として書かれたことはよくわかる。だが、「運命」「本質」「不条理」はない、すなわち「悲劇」などない(悲劇の死)と「マクベス」を捉えること自体が、今読むと逆に「内面」的に見えるのも確かだ。まるで、「不条理」や「悲劇」などないという「意味という病」に逆に侵されてしまっているように。ここではすでに「演劇」と「小説」の差異、「演劇」の「法措定的暴力」がもたらす「悲劇」が、まさに殺されてしまっている。もちろんそれは、「おそらくシェイクスピアが存在しなければ大英帝国は存在しなかっただろう」(鴻英良)、あるいは「イギリスにナショナルシアターが出来なかったのはシェイクスピアがいたからだと言っていいと思うんです。すでにそこに国民を統合するテクストがあったから、あえてナショナルシアターという形で社会的階層の上部を可視化する必要はなかった」(内野儀)というシェイクスピアの両義性も関わっていよう(「〈ナショナルなもの〉をめぐる現代演劇の臨界点」二〇〇四年『舞台芸術』07)。

 

 言うまでもなく、シェイクスピアは、『新体詩抄』や『小説神髄』など日本近代文学の出発点において、演劇から小説へという文学の近代化世俗化の媒介となった。そこではシェイクスピアは詩や小説として導入された。いわば、それは最初から「演劇=悲劇の死」として導入されたのだ。この歴史性を踏まえずに「『マクベス』という作品に対して素手で向か」(柄谷)うことは、かえって「近代文学=内面」に加担することになるだろう。

 

 重要なのは、演劇の政治性の最たるは、テクストの内容や登場人物の言葉(だけ)ではなく、ポリス=共同体を創設すること自体にあるということだ。同じく中上の政治性も、「路地」というギリシア悲劇の「劇場」の創設自体に、そして紀州という土地にいわば「✕」をつけ、自前の「路地」の「地図」で書き換えよう(「十九歳の地図」)としたこと自体にあるといえる(熊野「大学」の創設もその一環だろう。突然場所を「出現」させ占有することが重要なのだ。それはwebで継続しても無力だ)。したがって、「路地」の消滅は、天皇制というこの国の「ナショナルシアター」に拮抗しようとする中上の政治性の消滅と言わなければならない。柄谷行人は、「『熊野集』の中に、路地はテクストだということが書いてあるけど、それは路地の解体工事が始まったころであって、そのとき急に「路地」を見つけたわけですね(笑)。自分で八ミリ映画で路地を撮ったりしているわけです。消えていくと思った瞬間に路地を見つけたのでしょう」と言っている(共同討議「中上健次をめぐって」、『批評空間』No.12、一九九四年)。このとき中上は、「演劇」から「(記録)映画」への転換を迫られたといえる。

 

 以前も述べたように、この国では天皇制が演劇から「法措定的暴力」を奪い、国家=ポリスを立ち上げた。天皇制自体がナショナルシアターを担ったわけである。イギリスにおけるシェイクスピアのように。

 

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 以降、中上は、ベンヤミンオイディプスのように、自分にはまだ神話を破壊する力がないことを思い知り、「まだ沈黙したまま、まだ未成年のまま」(『ドイツ悲劇の根源』)となる。

 

 大逆事件とは、この「後」、「法措定的暴力」を「大逆」(罪)とし、民衆には近づけないアンタッチャブルにした出来事であった。それは端的に「暴力」「罪」「悪」となったのである。「王=父殺し」とは、共同体全体で「子」になることではない。自らが「王=父」として「法措定的暴力」をふるい、たとえ小さなテントであっても新たに「場所=劇場」を立ち上げることにほかならない。「例外状況」における「主権」である。先の引用のように、中上は、「演劇」によって「神の僕」となり「神の時代の尻尾」をつけた人間になると言った。だが、それは「僕」や「尻尾」になるのが目的ではない。「僕」や「尻尾」によって、あくまでそれに付随した「神」(という垂直性)を引っ張り出し、露呈させるのが目的である。「神の死」以降、近代の啓蒙的理性は、その垂直的な「法措定的暴力」を「存在しない」(存在してはならない)タブーとして見えなくさせてきた。中上が、一貫して、「物語」を「法・制度」と呼んだのは、それが「法措定的暴力」によって措定され、「法維持的暴力」によって維持されては、われわれを「制度」として包摂してきたからである。そして、「物語」を「系譜」学的に捉えることで、その過程と仕組みとを吟味しようとした。おそらく、そうしなければ、中上は何も書けなかったのだ。

 

抵抗小説、反戦小説、プロレタリア文学。何に抵抗したのだろう。何の戦争を視たのだろう、一度として、日本文学に、いや世界の文学に、資本論としての物語論が書かれた事もなければ、階級形成論が書かれ、物語の圧政をうち倒すプロレタリアが見つけられ書かれたためしはない。それが苛立たしい。月々の文芸雑誌にあいも変わらずの物語にどっぷりひたって胸くそが悪くなるような小説が、新人でござい、中堅でござい、何々の世代でございと並んでいる。批評は、とっくの昔に死に絶えている。序破急、起承転結の物語が、文芸批評というまがいもの屋のあおりをうけ、今ひとつの物語である出版資本とまさにこれ以上ないというほど喜々として結びつき徘徊している。(「物語の系譜 佐藤春夫」)

 

 何も変わっていない。日本近代文学は、まだ何も書いていない。中上や三島が「父」が書かれたことがないと言ったのは、端的に何も書かれてこなかったという意味である。「資本論としての物語論」とは、資本という「王=父殺し」の文学にほかならない。「王=父」を思考し得ないなら、どうして「王=父殺し」が思考できるだろう。そして、「王=父殺し」が書き得ないなら、どうして資本という狂った「王=父」を抹消する=殺すことが可能だろう。日本近代文学は、資本という「王=父殺し」など考えもしないまま、「佐倉」のごとく死んだように生きていく。「何に抵抗したのだろう」。

 

 むろん、それは中上自身も同じだった。「秋幸」の「違う」は、まだ「何も書いていない」という意味なのだ。

 

徹が秋幸を見つめたまま歩いてくるのを見て、自分には親に死なれたという悲しみのかけらもないと気づいた。ただすべてが露わになっていた。浜村龍造の秘密が一つ一つくまなく露出し、それが未完結のまま目の前にある。それが浜村龍造の死だった。浜村龍造が秋幸が立って見ているのを知りながら首を吊ったのは、秘密が露出する事も未完結だった事も知って、秋幸の前で、命を切断したのだった。浜村龍造は秋幸に切断面をつごうとした。(『地の果て 至上の時』)

 

 何もかも「未完結」だ。中上の文学は何も書いていないが、「未完結」であること「だけ」を示そうと、われわれに「切断面をつごうとした」。その「切断面」だけが、今われわれの「目の前にある」。

 

中島一夫

 

物語と悪――王殺し「後」の中上健次 その5

 「性、生殖、それが人を拝跪させる」のは、性と生殖こそが、親―子の垂直的な「ズレ」を不可避的に生じさせるからだ。そして親―子の「ズレ」が名づけを招き寄せることで、差別—被差別の「ズレ」をもあらしめるのである。だから、差別とは、この「ズレ」に「ロジックとして最初から組み込まれている」「機構」としてある。人はただ、これに「拝跪」するしかない(その3で見たように、これを消滅させるには、人工子宮や養育のためのデバイスによって、親―子の「ズレ」そのものを生じさせないようにするほかない)。中上以降のわれわれは、「差別」についてせめてこのことをふまえておくべきだろう。

 

 「被差別部落を訪ねるたびに、私が思い描いた「戦争」とはこの敗れた者らと勝利した者らの戦の事である」(『紀州』)。なるほど、中上は紀州を「敗れた者らの棲む国」=「闇の国家」と呼んだ。だが、見てきたように、決して「被害者」(被差別者)として紀州を語ったのではない。中上が見ようとしたのは、あくまで「敗れた者らと勝利した者ら」の「ズレ=戦」であり、したがって「輝くほど明るい」と同時に「闇の国家」なのだ。だが、この「ズレ=戦」は必ずや「去勢」され「機構」として「差別」を生み出してしまう。いつだって戦争は、「ズレ」を「敗れた者らと勝利した者ら」に分断させる。「差別」はそこから生じる。だから中上は、「戦、戦争に勝利する事があるのだろうか」と言ったのである。それは、紀州が常に「敗れた者らの棲む国」だった、必敗だったという意味ではない。それは、われわれが「戦争—差別」という「機構」自体に「勝利する事があるのだろうか」という意味だ。

 

 だからこそ、中上には、藤村『破戒』の「瀬川丑松」の「懺悔=告白」が許せなかったのである。「告白」することで、たちまち「被差別者=被害者」の立場の文学へと自ら進んで「去勢」され、あの「機構」へと身を任せることになってしまうからだ。

 

『破戒』が、何故、穢多であるという告白をもって終らねばならなかったのか? 私は世の文学研究家や批評家と違い、瀬川丑松のその告白を作家島崎藤村の衰弱であると思うし、穢多とは社会の法や制度であり瀬川丑松が背負う差別=物語である事を考えると、つまりそこで藤村がやった事は、法や制度、物語を人間中心主義、「文学」主義におとし入れたのである。

 物語、法、制度から、階級をかくし差別をかくしたのはこの時からである。物語、法や制度の持っている機能とはまったく逆の人間中心主義、人道主義が小説であり文学であると言われて来たのはこの時からで、プロレタリア文学から新感覚派まで人道主義である事には変りない。看板に偽りがあるのである。たとえばプロレタリア文学を好意的に解釈すれば小林多喜二宮本百合子を頂点とする人道主義文学であるだけで、そこでマルクスの発見したプロレタリアートと匹敵する物語のプロレタリアートつまり主人公に関しても無自覚であってもよかったし、労働に関するつきつめた考えも必要なかったのである。(「物語の系譜 谷崎潤一郎」)

 

この差別が露呈し、階級が露呈した時代で、島崎藤村の『破戒』のように、階級である穢多を人間の問題として個人の問題としてすりかえ涙を流すようなセンチメンタリズムは許されないのである。藤村は丑松を差別という物語の餌食にしたが、丑松の穢多としての差異性に一言も触れず口をつぐんだのである。(「物語の系譜 上田秋成」)

 

 「丑松の穢多としての差異性」とは、「被差別」として「去勢」される以前の「差別—被差別」(親―子)の「ズレ=差異」のことだ。差別は、この「ズレ」が、「丑松」と名付けられた「個人の問題」として名指された瞬間に生起する。この時、「ズレ=階級」の問題は、「個人」の「人間」の問題へと還元されてしまうだろう。中上の言う「人間中心主義」や「人道主義」という「センチメンタリズム」の発動である。

 

 知られるように、中村光夫は、プロレタリア文学者らが転向すると私小説を書き始めることを批判した。したがって中村は、のちにプロレタリア文学自体を評価しなくなる。中上は、それを言うなら、プロレタリア文学は最初から人間中心主義や文学主義に転向していると言いたいのだ。つまりプロレタリア文学は最初から私小説ではないのか、と。プロレタリアートが「被差別者=被害者」として「告白=告発」するという「人間中心主義」が、すでに「差別」だからだ(例えば石原吉郎は、そうした「差別」を回避するために、ラーゲリの「囚人」でありながら、被害者として「告発せず」を貫いたのである。それは「告発」できない「弱者」などではない、いわば「ペシミストの勇気」(石原)である)。

 

 中上の言う「転向」はもっと手前にある。

 

春夫の故郷が紀州新宮であったゆえに、文学者としての最初の出発点で、転向せざるを得なくなるのである。転向、と私は言ったが、これも、世間で言うところのマルクス主義という思想を棄てるというものとは違う。紀州新宮出身をひとまず身の内側にかくす事である。文学者のまだ経験が蓄積されていない年齢に、出郷して来たばかりの郷里紀州新宮で、天皇暗殺謀議があり何人かが逮捕されたのである。春夫は、神武東征以来の紀州を知っていたはずだった。大津皇子以来流れる、敗れおとしめられた紀州というもうひとつの共同幻想を知っていたはずである。その物語といまひとつ、現存する国家という物語を前にして、春夫は、紀州という物語を、それ以降、黙したはずである。あえて言ってみるなら、春夫は、紀州に関して、『破戒』の丑松の状態にいた。紀州について口をひらけば、あの物語とこの物語が、身を滅びさす。転向とは、この発見の事である。(「物語の系譜 佐藤春夫」)

 

 「春夫は、紀州に関して、『破戒』の丑松の状態にいた」と中上は言う。だが、ここから両者は分岐する。素知らぬ顔でパスしきらず、結局丑松に戒めを破らせ「穢多」であることを「告白=懺悔」させてしまう藤村の「衰弱」とは違って、春夫は「紀州について口をひらけば、あの物語とこの物語が、身を滅びさす」(中上の言う「切って血の出る物語」)ので、「紀州新宮出身をひとまず身の内側にかくす」のである。「現存する国家」が「物語」なら、「神武東征以来の紀州」「天皇暗殺謀議があり何人かが逮捕された」「敗れおとしめられた紀州」もまた「もうひとつの共同幻想」=「物語」なのだ。どちらに身を寄せても、「物語」の餌食になるだけだ。まずもって、中上の言う「転向とは、この発見の事である」。

 

 中上は、谷崎のように、隷属する「物語のブタ」になり下がるのではなく、紀州に身を隠し、紀州について口をつぐんで「物語」を回避しようとした春夫の「転向」を、ひとまず肯定する。紀州に生まれ落ちた以上、「転向」は不可避なのだ。いやでも「紀州」の「物語」を「発見」してしまうからである。

 

 だが、中上は、藤村よりも春夫よりも一歩進み出ようとした。被差別者が戒めを破って被害者として「告白」するのでもなく、被差別者が被差別者であることを口をつぐんで「身元隠し(パッシング)」するのでもない形で、誰もに取り憑き容易に「法・制度」と化す「物語」に対して抵抗はできないものか。

 

秋成はまず先にあげた二つの差異性により差別にさらされているのである。この作家論の中でことさら言うまでもないが、様々な差別が今なお現存しているし、それが差別語隠しや差別隠しで解消されるものではないが、この秋成の時代が、穢多解放令の出た時代でも水平社宣言のなされた時代でもないのである。まだ差別の隠蔽は進んではいない。という事は、出生の謎は容易に噂されたし、手の指の不具も人の視線にさらされた。

 秋成の過激さや、怪異の持つどこかやるせないような味のするグロテスクさ、血のにおい、性のにおいは、この社会に向かって秋成が打ち返した被差別者の差別ではなかったろうかと言う事である。(「物語の系譜 上田秋成」)

 

 中上は、「秋成の時代が、穢多の解放令の出た時代でも水平社宣言のなされた時代でもない」ことを重視する。それは、見てきたような、王殺し「後」の市民社会やその近代文学ディスクールたる象徴界参入以前の言説空間である。中上の言うように、「穢多解放令」が出される以前においては、「穢多」や「部落民」がタブーではなく「自然」のまま露呈しており、それらに対する「差別の隠蔽は進んではいない」のだ。中上にとって、日本近代文学ディスクールは、「穢多解放令」の発令と密接に結びついていた。

 

「穢多非人等之称ヲ被廃候条、自今身分職業共平民同様タルヘキ事」とした、一八七一年(明治四年)のいわゆる太政官布告による「解放令」以後も、「穢多」や「非人」といった蔑称は存続し、「新平民」、「特殊部落民」といった造語さえ誕生したとしても、論理的には部落民は存在しないはずである。「解放令」によって、部落民は過去の遺制から「解放」された自由な「市民」として措定され、新たに「国民」に包摂されたはずなのだ。〔…〕

 

 部落民は存在しない。それは『オリエンタリズム』の著者サイードが、「東洋(オリエント)」とは西欧の眼差しによって形成され、表象=支配(マスター)されたイメージとしてのみ存在すると言い、多くのフェミニズム流派が「女」は男の眼差しに捉えられたイメージにすぎないと言うのと同様である。それゆえ、オリエンタリズムへの批判は、不断に東洋は存在しないというイメージを発することであるし、フェミニズムは「女」は存在しないと言い続けなければならない(ジジェク『斜めから見る』参照)。

同様に、「解放令」以降にあっては、「部落民は存在しない」と言い続ける戦略こそ、最も合理的かつラディカルなものであったはずだ。「我は穢多なり」と宣言する猪子蓮太郎は、まさしく、そのことを言っている。「我は穢多なり」とは、自分は「穢多」と呼ばれているが、どこに「他者性のスティグマ」があるのかと問い返しているからである。(絓秀実『「帝国」の文学』二〇〇一年)

 

 西洋の啓蒙的理性は、「部落民」という「被差別」を認めるわけにはいかない。したがって、そこでは「部落民は存在しない」が全てだ。だから、もし「部落民」が「存在」するとしたら、それは「市民=平民」による「イメージ」にすぎない。よく誤解されるが、「女は存在しない」とは、「女」として区別するなどということは、啓蒙的理性においてはあってはならないのでは?という問い返しなのである。すると「部落民は存在しない」は、その2で見たような、王殺し「後」の市民社会においては、「罪」も「悪」も「存在しない」というのと同義と見なせよう。「部落民は存在しない」ことは、「罪」や「悪」が「存在しない」のと同様、啓蒙的理性の「勝利」であり「解放」(解放令!)なのだ。したがって、そこにおいては、「「解放令」以降にあっては、「部落民は存在しない」と言い続ける戦略こそ、最も合理的かつラディカルなものであったはずだ」。にもかかわらず、「問題は、「部落民は存在しない」と言い続ける猪子が部落民として殺され、猪子に私淑する丑松が部落民として「放逐」されるということにある」。

 

 重要なのは、この王殺し「後」=啓蒙的理性以降の「部落民は存在しない」、「悪は存在しない」が、見てきたように自然なものではなく、「物語」という「法・制度」による作為=擬制だということだ。そこにおける「部落民」や「悪」は、その3で見たように、すでに市民社会の「法・制度」へのつつしみを欠いた状態として、解毒されつつ市民社会に回収されている。それは上の引用の「東洋」や「女」が、「西洋」や「男」の「眼差し」によって「表象=支配されたイメージ」にすぎないことと別のことではない。そこでは、すでに「部落民」は「市民」(平民)の、「悪」は「善」の「前期的状態」なのだ。「眼差し」とは、「東洋」や「女」を区別しながらも、「前期的状態」として回収しようとする「表象=支配(マスター)」の権力である。

 

 中上が嗅ぎつけたのは、解放令以降の「部落民は存在しない」にこそ「差別」が存在するということである。それは、啓蒙的理性(西欧の眼差し)が、「部落民」をほどよく飼い慣らすための「物語」であり、つまりは統治のイデオロギーなのだということだ。ラカンジジェクなら、「部落民は存在しない」が(ゆえに)、それは「もの」として存在すると言うだろう。それに対して中上が思考しようとしたのは、いわば真に「部落民」や「悪」が「存在しない」位相であった。それは、「部落民」や「悪」がそう名指され、概念としてアイデンティティをもつ以前の「ズレ=階級」としてしか存在しない言説空間である。

 

 繰り返せば、中上にすれば、「階級である穢多を人間の問題として個人の問題としてすりかえ涙を流すようなセンチメンタリズムは許されないのである」。中上が試みようとしたのは、差別を「人間」や「個人」ではなく、あくまで「階級」という「ズレ」として露呈させることだった。あの「親(王)―子(王子)」の「ズレ」としてである。そのためには、市民社会象徴界においては「存在しない」はずの「親(王)殺し」の「罪」や「悪」を、まずもって存在せしめる必要があった。言い換えれば、「王=親殺し」を思考し得ないということは、「階級」を思考し得ないということなのである。もちろん、その時、「被差別者」という「被害者」の立場からそれを行ってしまえば、差別の実体化や固定化に終わる(「明治政府による「解放令」の欺瞞性を言い立てることは容易であり、そのような批判は、全国水平社から現代にいたるまで、繰り返されている。批判自体は重要である。しかしそれは往々にして、想像的=鏡像的にしか存在しえない部落民を、実体化してしまう反動に帰結する」絓秀実『「帝国」の文学』)。何度も述べてきたように、中上に言わせれば、それもまた「物語」なのだ。

 

 むろん、「部落民(東洋、女)は存在しない」に対して、「否、それは存在する」と反論するのが重要なのではない。「親(王)殺し」は「存在しない」に対して、「存在する」と言ってもはじまらない。あくまで問題は、「親(王)殺し」など「存在しない」ことになっている市民社会の形成に貢献してきた日本近代文学象徴界において、なぜいかにしてそれが「存在しない」こととなったのかということだ。「市民社会象徴界」が「親(王)殺し」を「差別」(排除、去勢)することで自らを生成させていく過程を、市民社会の「物語」の核として浮き彫りにすることである。マルクス資本論』の「価値形態論」が、なぜいかにして商品世界(市民社会)から「貨幣」が「差別」(排除)されていくのを明らかにしたように。中上が、「『資本論』としての物語論」(「物語の系譜 佐藤春夫」)を書く必要を説いたゆえんである。

 

 小説や物語を書くのみならず、それらが何によって成立してきたかを「系譜」学的に吟味すること。そうした思考によってはじめて、「被差別者が差別者=市民社会を差別する」ことが可能になるだろう。繰り返せば、それは「存在しない」「被差別者」を「存在する」という単なる反動ではあり得ない。「差別者」「被差別者」もろともからめとっては「差別」しにかかる「物語の核」を押さえることだ。「被差別者が差別者を差別する事とは、被差別者が差別被差別という物語の核を押さえているという条件がいる」(「物語の系譜 上田秋成」)。

 

 中上にとって、秋成とは、ほとんど「人間の名」ではない。それは、まずは第一段階として「存在しない」「物語」をあらしめ「物語の機能を見定め」たうえで、次に第二段階として「物語」を破壊しようとする一個の「意志」の名だ。中上にとって「秋成」とは、市民社会という王殺し「後」の統治(現存する国家)に対する、二段階革命=戦争への「邪悪な意志」の名である。

 

秋成とは単なる人間の名ではない。なにもかも抑圧下に繰り込み、その抑圧に異和を唱える者や齟齬を起すものを排除し、さらに排除した者にも新たな抑圧を加える作用を持つ物語への、邪悪な意志そのものだと言った方がよい。秋成とは、物語の機能を見定め、物語を破壊し名づけようのない十全な作品(?)や存在たらんとする者の意志そのものである。現代作家の我われは秋成を読むことによって、秋成の邪悪な意志を自分の中に確認する事でしか、迷妄の破壊、通俗の破壊、「文学」主義への破壊、人間中心主義の破壊は起り得ないのである。(「物語の系譜 上田秋成」)

 

(続く)

 

物語と悪――王殺し「後」の中上健次 その4

 述べてきたように、近代の啓蒙的理性からすれば、「王殺し」は不可避的で「自然」の出来事であり、言うなればむしろ「善」ではないのか。にもかかわらず、それを「悪」にしたてあげていき、デッチあげていくのが「物語」という「法・制度」である。「大逆」事件がデッチあげられたように。だから中上は、大逆事件がデッチあげだったと言挙げしたいのではない。それがデッチあげだったとして、「では何故デッチあげまでして、紀州新宮を舞台に選んで紀州グループを拘引、処刑したのか、あかす者はいないし、またその方法もない」(「物語の系譜 佐藤春夫」)と問い返そうとするのである。

 

 それが「悪」として完全に回収された状態こそが「市民社会象徴界」である。そこから発せられる言葉は、王殺しが「悪」として外に排除されつつ「去勢」という形で内部に回収された王殺し「後」の言説である。以降、王殺しは「現実界=トラウマ」となり、悪夢がフラッシュバックするように、近代の市民社会象徴界の扉を叩くだろう。市民社会は、すでに王殺しはなされたので、もはや王はいない「かのように」振舞うのだが、それはまさに「かのように」にすぎない。王殺しは繰り返し襲ってくるのである。王はいてはならないし、いなくてはならないというのが、近代のジレンマなのだ。

 

 市民社会の内部は、「王殺し=悪」という穢れが除去された「無垢」な象徴秩序である。だから、ここから発せられる言葉は、「純潔」で「被害者」の文学になる。時折訪れる、「市民社会」を襲う「悪=犯罪」は、「探偵(小説)」が解決し、再び回収してくれるだろう。「探偵小説」はいつもほどよい「物語」である。

 

 中上が「物語」に向かったのは、「物語」とは「悪」が回収される過程が描かれるものだからだ。「物語」とは、中上が「物語」の始原と名指す『宇津保物語』の「うつほ=筒」のごとき、『竹取物語』の「竹」のごとき、「市民社会象徴界」に開いた「穴」であり、そこを通って「もの」が回収され「物語」が発生する「通路」そのものなのである。その「通路」を通じて「語り手」が「親」の「物語」を「主人公=私生児、みなし児」に吹き込み、それによって「語り手」が「子」に「野合しようと装う」システムなのだ。

 

物語=法・制度では、物語や小説中において、父あるいは母の条件は絶えず出所来歴の定かでない状態の者であり、物語=法・制度そのものが主人公たるみなし児私生児に父母の物語を吹き込み、主人公自身の物語を吹き込むのである。何故そうなのか答は幾とおりもある。まず物語という物がまさに物を語る事によって出来るシステムであり、語られる物、語り手、語ってもらう者(聞く者、読む者)という三つのレベルに分解されるという暗黙の了解に達しているという事実がある。語り手(仮母)は絶えず語ってもらう者(子)に野合しようと装う。だが物語そのものは語られる物(親)の所有なのだ。(「物語の系譜 折口信夫」)

 

 中上が、『宇津保物語』や『竹取物語』ではなく、『源氏物語』にしか遡行できなかった谷崎を、「物語からモノガタリへの遡行を誤った」と言ったのはそのためだ。中上は、谷崎を物語作家の先達として畏敬しながらも、根本的には「甘い」と捉えていた。谷崎にあるのは、いつもほどよい「物語」にすぎない、と。

 

ここまで書いて来て、大阪の三菱銀行北畠支店に猟銃を持った男が押し入り、行員や駆けつけた警察官に発砲して警官二人行員二人を射殺して人質を取って立てこもっていた男が、狙撃され、逮捕されたニュースがとび込んで来た。犯人は三十歳の男である。この事件の初めから気がかりでテレビを注意して見ていたのだが、見ながら色々な事を考えた。銀行に金を強奪する為という軽い気持で(決行する前に床屋へ行ってさえいる)入った男がはからずも敵対したのは、法・制度つまり物語だったと。ぐるっと取り囲んでいるのは警官ではなく物語である。テレビは射殺された犠牲者をうつす。残忍だ、とアナウンサーは同じ表現をくり返す。狙撃され首から血が吹いた犯人がタンカで運び出されるテレビの画面は、またも勝利した法や制度、物語を証しだてる喜びのようなもので上気しているように見える。谷崎はそのテレビ、テレビを見るこちら側の法や制度の作家であって、たとえば四人を射殺し狙撃され死んだその男を、マルキ・ド・サドとしようか。その事件を追いながら、法や制度下において悪は絶えず善の前期状態だと思い出したのだった。この事件をはらはらしながらみていたがただ通俗的な事件ではある。小説や映画ですでに数え切れないくらいこのような筋書の事件はあったし、この事件と類似した事件もすでにあった。犯人自身、自分の決行している犯罪、法・制度とのむきだしの抵触がすでにどうしようもなくあの物語よろしく序破急に向かって進行しているのを知っている。物語がすべてを浸蝕しているし、物語=法・制度が籠城が長びけば長びくほどその犯人が武力でつくり上げた空間も再び制圧下におこうとする。

 

 銀行に猟銃を持った男が押し入るやいなや、出来事を序破急の「物語」に回収してしまう「法・制度」が作動し始める。ここでは、彼がその後「物語」の「主人公」に仕立て上げられていく過程が活写されている。

 

 中上は、何も悪を称揚したいのでない。それもまた別種の「物語」にすぎない。そうではなく、あるのは親―子の「ズレ」だけであり、そこから見れば良い親だろうが悪い親だろうが、いつも「親」は「非常に邪悪な自然」だと言いたいのだ。その「自然」は名づけられることで、「ズレ」ではなく一人の「親」としてのアイデンティティを持ってしまい、その時点で「親・自然」は「去勢」されるのである。

 

ここで顕わになるのは、名づける事の意味である。その男を浜村龍造と名づけた途端、何故、物語=法・制度が派生し、物語がその男、つまりどこから来たのかどういう者か謎だとう条件を隠蔽してしまうのであろうか。〔…〕名づける、とは、名乗ると同義と見てさしつかえないだろうが、名づけるとはまた結ぶ事でもあろう。その男、本質として出所不明の男は、名づけ、結ばれて、滝の飛瀑の上にしめ縄を張って滝という自然の秘儀の力を封じるように、或いは、流され王の一人が枝を結ぶように、小さなささいな行為でその本質を封じられたのである。封じる名は何でもよいのである。例えば先に引用した折口の詩句、

  すさのを我 こゝに生れて

  はじめて 人とうまれて――

  ひとり子と 生ひ成りにけり。

   ちゝのみの 父のひとり子——

    ひとりのみあるが、すべなさ

 名づけられた「すさのを」と「浜村龍造」に名における差異はない。「荒ぶ」という語が「すさのを」に由来しているからと言って、名づけられたその男が名づけられたまさに途端、封印され、一度きに物語=法・制度のこちら側に滑り落ちてしまった事に変りはない。神から堕ちた神人への空間移動ワープと言ってよい。

 

 「名づけ」は、すでに「物語=法・制度」である。名づけられることで、親(王)は背後の「神」にスラッシュが引かれ、「神から堕ちた神人」へと「ワープ」した挙句、「名」を持った一個の「親」となる。「「荒ぶ」という語が「すさのを」に由来しているからと言って、名づけられたその男が名づけられたまさに途端、封印され」てしまうことに「変りはない」。「秋幸」が「幸徳秋水」に「由来しているからと言って」、中上にとってそこに現れる歴史性など二の次だっただろう。それもまた、「秋幸」が「幸徳秋水」という「物語=法・制度」に「滑り落ちてしまった」にすぎないからだ。あくまで問題は、書かれるべきは、親―子の垂直性の「ズレ」自体であるにもかかわらず、「龍造」や「秋幸」と名づけてしまわずにはいられないことであり、名づけられた途端、「物語」に取り込まれてしまうその「力」である。『地の果て』で、「秋幸」が「一つの言葉しか知らないように」叫ぶ「違う」とは、これをめぐってなされてきた数多の読解をこえて、まさにこの「ズレ」が「名づけられること」自体に対してではなかったか。

 

秋幸は、闇の中で深い息の音を立て言葉を発せずにたたずんでいたのは、身近にいた浜村龍造ではなく、路地に何度も火をつけようとした男だった、と思った。どこの馬の骨やら分らぬ名さえ持たない男、それが父親だった。

 

浜村龍造は最初、町の人間にも路地の者にもどこの馬の骨か分らない、どんな育ちか分らないという名前のない男だった。その名前のない男が自分たちの生活を脅かすのだ。

(『地の果て 至上の時』一九八三年)

 

 「名づけ」は「邪悪な自然」に対する「去勢」であり、それはわれわれにとって不可避的な「ロジック」なのだ。われわれの生に「最初から組み込まれている」この「ロジック」を、中上は「物語」と呼んだのである。

 

去勢を想像的な水準で解釈するとは、どういうことだろうか。それは、自分を去勢する誰かがどこかに存在している、と空想することである。もし自分を去勢する人物が存在するのであれば、その人物を打倒することができれば、神経症者は去勢から回復することができることになる。しかし、実際には去勢はそのようなものではない。去勢(享楽の喪失)は、人間がシニフィアンの世界に参入し、その世界のなかで自らのセクシュアリティを何らかの形で制御していく操作のなかに、ロジックとして最初から組み込まれている。原初的に喪失した「存在の生き生きした部分」を取り戻すことが不可能なように、私たちは去勢を回復することができないのである。神経症者は、そのことを理解できていない。彼らは、疎外と分離の操作を終えてはいるものの、すでに終わってしまった喪失を、喪失として受け入れることができていないのである。私たちがしばしば陥ってしまうこの想像的誤認、すなわち去勢の想像的な解釈は、私たちを苦しめてやまない。(松本卓也『人はみな妄想する』)二〇一五年)

 

 ラカンは、「去勢とは、結局のところ、去勢の解釈の瞬間にほかならない」(『セミネール』)と言った。ラカンの言う「神経症者」は、「もし自分を去勢する人物が存在するのであれば、その人物を打倒することができれば」「去勢から回復することができる」と「想像的な水準で解釈する」。この「想像的な水準で解釈」された「去勢」が、子に「もし自分を去勢する人物が存在するのであれば、その人物を打倒することができれば、神経症者は去勢から回復することができる」と考えさせ、父=王殺しへと向かわせる動機になることは言うまでもない。父=王殺しが起きるには、この「去勢」にまつわる「解釈」が必要なのだ。そして、人を「解釈」に向かわせるのが「文学」だと中上は考えていたのである。中上の主人公「秋幸」が、『岬』『枯木灘』『地の果て至上の時』を貫いて、この「想像的な水準」で「去勢」を「解釈」してやまない「神経症者」であうことは見やすいだろう。いや、中上作品の全体が、この「想像的」な「解釈」の産物と言っても過言ではない。

 

 だが、同時に中上は、この「解釈」が「違う」(=「想像的誤認」)こともよく分かっていた(ある時点で気づいたといった方が正確か)。だからこそ、小説という「想像的」な「解釈」を書き継ぎながら、それと並行して、「去勢」が名づけられた誰かによってもたらされたものではなく、名づけ以前に親―子の「ズレ」として「ロジックとして最初から組み込まれている」ことを、すなわち「物語の系譜」という「物語」論として思考することを余儀なくされたのである。この小説(「物語」)と(反)物語論との一人二役は、例えば『熊野集』(一九八四年)のような作品に、両者が混在する形で体現されているだろう。「ただその掛け声は私が内に抱く物語=法・制度論を書こうという衝動と根を共用しているし、小説という仮構すらかえりみずに書かれ続けていた反物語論のような『熊野集』を執筆し続けた動機とも重なる」(「物語の系譜 折口信夫」)。

 

 重要なのは、この「ロジックとして最初から組み込まれている」「去勢」が、中上の思考する「差別—被差別」についても言えることだ。

 

花を花として視る眼と、花がどこから成り立つのか解析する眼を共存させる者に、一本の草も一つの石くれも、草であって草を越えるもの、石くれであって石を越えるものとして映った。石くれであって石くれでないものとは、人に不快感を引きおこす。〔…〕物を物として見、物を解析しその物の周りに集まる気分のようなものを感じ取る眼には、それは美ではなく、輝く事物の氾濫である。私に言葉はない。(『紀州』)

 

 「花を花として視る眼」「物を物として見」る眼とは、名づけ「後」の「親」を「親」と、「子」を「子」として視る「眼」であり、小説を書き継ぐ「眼」だ。だが、同時に中上は、「花がどこから成り立つのか解析する眼を共存させる者」でもある。その「物を解析」する「眼」は、「その物の周りに集まる気分のようなもの」、すなわち「物語」を「解析」し「物語」論を書く者の「眼」である。その「眼」には、草であって草を越えるものを、言い換えれば草が「草」として名づけられる以前の「事物の氾濫」(まさに、子が「子」となる以前の「生のままの子ら」(一九八三年))を捉える「眼」なのだ。「去勢」され象徴界に参入する以前の「眼」と言ってもよい。だから「私に言葉はない」のだ。

 

 そして、中上の捉える「差別」「被差別」は、この「事物の氾濫」しかない世界から、「去勢」され「言葉」の世界に参入する際に生じるものである。

 

自然は人を拝跪させる。自然、ここでは、差別、被差別というものだと短絡させてもよい。自然的自然とは変な言葉だが、事物の氾濫である自然が視る者を解体させ、視る者が統括する作用として差別という心的機構を持ってしまい、人の諸関係の産物として社会や、国家、法律、いや倫理、道徳を自然と言うなら、これも差別という機構を生む。国家、法律、倫理、道徳の大本に、人の性なるものがあると取るならである。性、生殖、それが人を拝跪させる、と言ってよい、と考えた。(『紀州』)

 

 誤解を恐れずに言えば、中上は「被差別部落」の作家ではない。中上には、親―子の「ズレ」しかなかったのと同様に、差別—被差別の「ズレ」しかないからだ。

 

(続く)

 

物語と悪――王殺し「後」の中上健次 その3

これはもう、被差別部落出身の人間の条件かもしれないんですけど、それがなぜ物語の主人公となって、いわゆる王子としか言いようのないような響きを持ってくるのか。単にそれは、みなし児であったり、私生児であったりすることが、読者にかわいそうだと思われるからじゃないわけなんですよ。

 どういうことかと言いますと、親に捨てられると子供は死んじゃいますね。小さかったら、それはもう殺されてあるわけなんです。一度親から、お前を殺してやると、子殺しされたという烙印を、例えば額に押されてあるもの、それがみなし児・私生児ですね。ただ、それが生き残ったわけなんですよ。それを跳ね返して、つまり酷い現実を引き受けて、生き返ったわけなんです。生き返って、自分でしっかりそこに立っているっていう、そういう状況がみなし児・私生児が王子になる条件なわけなんです。で、そこでですね、彼らが物語の主人公である限り親というのは殺すもの、あるいは非常に酷い試練をするもの、そういう形になるわけなんです。〔…〕後になって王になって、つまり自分の出生を消して親になるわけなんですね。親になった自分を親の位置から引きずり降ろすかもしれん罪、僕は王子の罪というのをそう解釈するんです。(『中上健次と熊野』)

 

 中上は、自らはみなし児、私生児であり、被差別部落出身の人間だから、差別を糾弾したり、物語の主人公の資格があるなどと言いたいのではない。それでは、「その1」で見た戦後文学のような、弱者の立場、被害者の立場から書かれた純潔の文学にしかならない。そうではなく、中上は、人間は皆、みなし児、私生児であり、物語の主人公だと言っているのだ。だからこそ、「物語」は「定型」になるのである。誰にとっても、「子供は親に追いつかず」、親は「先に行ってしまっている」「謎」にほかならないからだ。

 

 人間の赤ん坊は自分では餌もとれず、すべてを親からの養育によらなければ生きて行けない。にもかかわらず親が二十四時間、子供に付きそうことができない以上、「親に捨てられると子供は死んじゃいますね。小さかったら、それはもう殺されてあるわけなんです」という状態は不可避的である(だからネグレクトは問題なのだ)。この親による「子殺し」は、良い親悪い親の区別なく、人間の子供にとって宿命的な「烙印」なのだ。

 

 ここで、フロイトの「fort/da」を想起すべきだろう。フロイトは、母の「fort(不在)」と「da(現前)」として思考しているが、もちろんこれは母でなくても養育者であればよい。子供にとって、母(養育者)の気まぐれな「現前」と「不在」が、+と-が連続する象徴的なセリーを、すなわち前駆的な象徴機能(原―象徴界)を形成する。この+と-は、単に象徴的な意味にとどまらず、先に述べたように、子供にとっては生と死を分かつ「法」として機能する。しかも、子供には、なぜ「現前」と「不在」が繰り返されるのか、ついに「謎」のままである気まぐれな「法」なのだ。したがって、ラカンはこれを母の「欲望」と呼んだ。子供にとって、母の気まぐれな「欲望」が、同時に「法」のような超越性で翻弄してくるのである。

 

 こうして子供は、なぜ母の「現前」と「不在」が繰り返されるのかを想像せずにいられない。それは、母の「欲望」という「シニフィアン」に対する「シニフィエ」が何であるのかを問うことと同義である。母の気まぐれな「欲望」は、子供にとっては生かされるも殺されるも母の「欲望」次第という、生殺与奪の権を握られた状態なのだ。これが、中上の言う「額に押された」「子殺しされたという烙印」という「原―象徴界」を形成するのである。

 

 ラカンは、母が欲望する「何か」を「想像的ファルス」と呼んだ。見てきたように、中上の言う「額に押された」「烙印」もまた、この「想像的ファルス」とほぼ同じものといってよいだろう。そして子供は、その理由も分からないまま、「額に押された」「烙印」を「跳ね返して」「生き返」り「生き残」る。すなわち、ラカン的に言えば、自らの生殺与奪を握る気まぐれな「母の欲望」を、「父の名」の導入によって置き換えて殺し、消去するのだ。この「父の名」という「現実的ファルス」の導入によって、子供は「原―象徴界」の無秩序状態を抑圧、統御し、本格的に「象徴界」へと参入することになる。

 

 これ以降、象徴界に属するあらゆるシニフィアンの意味は、究極的はこのファリックな意味作用をもつ「現実的ファルス」へと還元される。したがって、男性と女性のセクシュアリティも、このひとつのファルスによって構造化されることになる。あらゆるシニフィアンの意味がファルスに還元される以上、好むと好まざるとにかかわらず、セクシュアリティはファルス中心主義的なものにならざるを得ないのだ。松本卓也は次のように言う。

 

ここから先は完全に思弁になってしまいますが。ファルスがどうして人間のなかで最重要なものとしてあるかというと、養育者が自分(子ども)の前から現れたり消えたりするからです。そこにプラスとマイナスの象徴化が生じ、この二項対立が後にペニスの在/不在を人間にとっての最大の問題に押し上げてしまう。

 もし人工子宮や養育のためのデバイスが実現すれば、それは変わることがありうるでしょう。しかし、子育てが、母親ないし父親が子を育てるものとして行われているかぎり、おそらくファルスは消えない。現前と不在がどうしても生じてしまいますから。ですが、二四時間管につながれ、現前と不在を生じさせない機械で育てられた人間は、どういう人間になるかわかりません。ファルス中心主義的なセクシュアリティと関係のない人間になる可能性があります。その代わりに、おそらく言語は話せなくなってしまうでしょうが、そっちのほうがいまの人間より不幸であるという根拠はない。そうなれば、ファルスがなくなる、性別がなくなるという思弁ができるかと思います。(「ポスト精神分析的人間へ」二〇一六年)

 

 たいていは誤解されているが、セクシュアリティがファルス中心主義的になるのは、ペニスの在/不在によるのではない。養育者の「現前/不在」によるのだ。養育者の「現前/不在」が一義的に作用し、「後に」ペニスが問題化されるのである。したがって重要なのは、「父/母」でもペニスの「在/不在」でもなく、あくまで養育者の「現前/不在」である。これが、中上がこだわった親と子の垂直的な「ズレ」を発生させるのだ。中上の言う、親に殺されて、子がそれを跳ね返して生き残るというドラマとは、子が「もの」を「殺害」して象徴界に参入してくる際に引き起こされる、普遍的な生―死のドラマにほかならない。中上は、その親―子の「ズレ」から生じる殺し合いと生き残りを、「罪」や「悪」として認識する(させられる)ということを、物語の主人公の条件として求めたのである。中上が最初期に、象徴界への参入時を示唆する短編小説「一番はじめの出来事」(一九六九年)を書いて出発したゆえんである。親―子の「ズレ」が子に言葉という「ファルス」を不可避的にもたらすが、そこでは必ず壮絶な殺し合いと生き残りという「一番はじめの出来事」が生起しているのだ。

 

 中上は、親や子に「罪」があるのではなく、この「ズレ」自体が「罪」なのだと言っている。したがって、それは内面化された「罪悪感」とは無縁である。そして「物語」とは、この「ズレ=原罪」をたえず確認するための装置なのだ、と。「物語は従って、親(王)と子(王子)の間にのみあるわけです」(『物語の系譜』)。「物語」は、浜村龍三と竹原秋幸の「間」にのみある。だが、戦後文学は、たえず「自分を弱者の立場、被害者の立場に置いている」ので、そこには王(親)に「引っぱられて行って」「いやいややられました」という被害者の戦争(政治)しか描かれない。

 

 すでに言葉が獲得されており、象徴界(言文一致以降の象徴秩序)に存在しているのが自明の前提になっている文学においては、先に述べた言葉の獲得が殺し合いと生き残りの結果だということが見えない。言葉とは、つねにすでに親殺しの「後」なのだ。言葉(というファルス)自体に親(王)殺しが「烙印」として押されているのである。だから、ラカン象徴界への参入を「ものの殺害」と呼んだ。まさに、言葉自体が「もの=物語」の「殺害」なのだ。

 

 その1で見たように、中上は、自然主義的な象徴秩序という近代文学の装置とは別の「系譜」を探るべく「物語の系譜」へと向かった。日本近代文学が形成してきた象徴界の「穴」から殺害された「物語」へと(ラカンが言うように、象徴界には「もの=物語」が「殺害」された痕跡たる「穴」が開いている。この「穴」がある以上、象徴界はそれのみでは自己完結し得ない)、また現存の国家ではなく「闇の国家」へと向かうべく、象徴界の外部へと出ようとしたのである。それは、佐藤春夫谷崎潤一郎といった耽美派的な想像界や、そこからさらに遡行した時に見えてくる、大逆事件=王殺しという陰惨な現実界としてあった。中上は、日本近代文学が、いわば現実界想像界ぬきの象徴界に終始し安住しているために、すべて子=被害者の文学になり果てていると言っているのだ。象徴界とは、自らが親(王)を殺害した加害者で(も)あったことが、すでに忘却され隠蔽された世界である(もちろん、その親との殺し合い、生き残りという相克は、トラウマや精神疾患として残存、沈殿してはいる。だが、それすらすでに「被害者」視点であり、殺害した「罪」ではなく、生きていることへの「うしろめたさ」なのだ)。

 

 中上は、「物語」と言うことで「悪」を見ようとしたのではない。それどころか、「物語」には「悪」が存在しないと言う(秋成の「それ何事かは」(それが何だというのだ))。だが、同時に、ここが重要なのだが、物語は自動的に作動し疾走していく、それ自体「法・制度」なのであり、ひとたび「法・制度」としての「物語」にからめとられてしまえば、「悪なるものは善なるものの前期的状態とも過渡的状態ともしてしまうのである」。

 

悪とは何だろう、物語において人を殺しても、憎悪しても、呪詛しても即悪ではないのは自明の事で、たとえば人殺しを主人公がやるものであるなら物語を読む読者はその悪について判断停止の状態に追い込まれる。ラスコリニコフを思い出してくれればよいし、アラビア人を射殺するムルソーを思い出してくれればよい。

 悪は物語、法や制度上では、悪としてではなく法や制度に慎みを欠いた存在でしかない。それは、法や制度の表れである善の前期、過渡にすぎないのである。谷崎は物語という法や制度の作家である限りは悪よりは善の作家であり、標榜した悪魔主義もあるいは耽美も、実のところあげ底でスノッブの類のこけおどしするものにすぎない。

〔…〕犯人自身、自分の決行している犯罪、法・制度とのむきだしの抵触がすでにどうしようもなくあの物語よろしく序破急に向かって進行しているのを知っている。物語がすべてを浸蝕しているし、物語=法・制度が籠城が長びけば長びくほどその犯人が武力でつくり上げた空間も再び制圧下におこうとする。

 法や制度に抵触する者が出る度に、人は他ならぬ法や制度に向かってつつしみを持ち柔順な者だと自分を証しだてようとする心の働きを持つ。その犯人を指弾する者、それが自分ではなく他の一頭の黒い羊であった事にホッと胸をなぜおろすのである。という事は黒い羊がたった一頭で全身を蝕まれながら歯むかった法や制度、つまり物語とは、自分の中にもその原基がある事に気づいている。性、暴力、宗教、すべてなまなましい。

谷崎の小説にもどれば、この作家を読んでみて一つとしてその黒い羊のようなものは登場しない事に注目を要する。谷崎は生涯、そのようなものに興味を魅かれる事はなかったのだった。(「物語の系譜 谷崎潤一郎」)

 

 中上が谷崎の悪魔主義を「あげ底のスノッブの類をこけおどしするもの」と言い、谷崎を「物語のブタ」と批判したゆえんである(確かに、いまだに谷崎は「礼讃」されすぎてはいないか。中上は谷崎礼讃を「奇妙な文学病」と評した)。谷崎が悪を思考したことはない。谷崎のマゾキズムとは、「人間の持っている原基への耽溺でもマゾキズムでもなく、法・制度へのマゾキズムであった」にすぎない。悪とは市民社会の「法・制度」に抵触することである。その時、市民社会の側は「人は他ならぬ法や制度に向かってつつしみを持ち柔順な者だと自分を証しだてようとする心の働きを持つ」。すなわち、悪は「法・制度」への「つつしみ」を欠いた状態として、すでに「つつしみ」という価値観によっておし測られ解毒されたものへと矮小化されている。その時、悪はすでに「善の前期的状態」になり果てているのだ。いや、本来「物語」は親―子の間の「ズレ」そのものであり、したがってそこにはいまだ「悪」が「悪」として存在しないのだから、「それ」が「悪」と呼ばれた瞬間、早くも「善」への回収作業は始まっているといってもよい。したがって、「法制度上に表れた悪がもし悪として貫徹されるならそれは実に幼児的な意匠をまとってあらわれるだろう」。それは、市民社会という「象徴秩序」に参入する以前の「幼児」のような存在だろうからだ。

 

 端的に言おう。中上が問おうとしたのは、「大逆」事件というが、そもそもなぜ「王殺し」は「悪」なのかということにほかならない。中上は、「大逆事件=王殺し」に対して、秋成よろしく、「それ何事かは」(それは何だというのだ)と言っているのである。

 

(続く)

 

物語と悪――王殺し「後」の中上健次 その2

 「神の死」以降の近代においては、「王殺し」は不可避的な帰結である。王は、神を担保にしてのみ王なのだから(その意味で「王権」とは本来的に「神授」である)、背後を支える神(大文字の他者)が不在ならば、王の根拠も不在であり、王には常にすでにスラッシュが引かれていることになる。近代とは、基本的に脱神話化の啓蒙的理性の時代である。神=金を殺し、そのことで資本主義を先へ先へと駆動させていく近代の啓蒙的理性は、それ自体「王」を殺しているといってよい。

 

 大逆事件という「王殺し」は、その意味で不可避的だった。実際に王が殺されようといまいと、すでに「王殺し」は論理的に起こってしまっているのだ。したがって、近代国家の権力構造とは、王殺し「後」の空席を、いかに「空席」のまま守るかという形態をとらざるを得ない。空席が埋まっているとしてしまえば、近代の啓蒙的理性によって、たちまち「王殺し」が作動するだろうからだ。近代の国家権力とは、すでに王はいないのに、いる「かのように」ふるまうことにほかならない。あるいは逆に、まだ王がいる「かのように」空席を守ると言ってもよい。「空席」とは、国家の主権にほかならない。

 

 このことを一番わかっていたのは、「かのように」の森鴎外だった。その1で見た三島が、日本文学には鷗外しか父になろうとした者がいないと言ったのは、この意味においてである。そして、繰り返せば、三島や中上は、だからこそ鷗外の水準で「父=権力」の問題を考えねばならないと考えたのだ。

 

 言うまでもなく、これは王殺し「後」のヘーゲルの問題でもあった。神学生時代のヘーゲルフランス革命=王殺しに出会い、革命に新しい時代の始まりを見た。『精神現象学』(一八〇七年)にはフランス革命への熱い期待が濃厚にみられる。そこでは人間の歴史とは、自己の生存を賭して繰り広げられる「相互承認のための闘争」(言うまでもなくホッブズ「万人の万人に対する闘争」の影響を受けている)を経て初めて獲得される「自由な意識」の発展の歴史である。この闘争においては、死を恐れず自らの尊厳を相手に認めさせ、「自由な意識」の発展に貢献した者が「主」の側に立ち、死を恐れ「自由な意識」において消極的、受動的だった者が「奴」の側に立たされる。市民社会とは、「自由な意識」という価値を軸に構成される社会である。

 

 だが、ここから「奴」が「主」のために行う「労働」を媒介として、「主」と「奴」が逆転していくという「主と奴の弁証法」が作動していくことで、人間の「自由な意識」はより発展していくのである。さながら、もはや「金」という王座に安住し得ない「貨幣」が、メタレベル(主=貨幣)とオブジェクトレベル(奴=商品)を盛んに往還しながら資本主義システムを発展させていくように。

 

 だが、このように「自由な意識」の発展によって形成されていく「市民社会」に、ヘーゲルは幻滅を覚えていくことになる。そこは人間が人間を手段化する功利主義が蔓延る倫理的精神の分裂態にすぎなかったからだ。もちろん、ジャコバン派テロリズムの連続も大きかっただろう。カントの裏のサドの問題である。

 

 したがってヘーゲルは、一八二〇年代に展開された『法哲学講義』においては、家族―市民社会―国家と高次に移行していくにしたがって倫理の分裂を乗り越え、「国家」に至って社会的有機体としての普遍性が露わになるというビジョンを打ち出すことになるだろう。そして「国家」においてはじめて人間は、「公民」として倫理的な存在となるのである。フランス革命=王殺し「後」の世界を見てしまったヘーゲルにとって、倫理が分裂した市民社会の成員が、国家権力の中枢へと進み出て政治化することが、そしてあの「空席=主権」を占拠してしまうことが、すなわち「大逆事件」が生起することが、何よりも頭痛の種だった。「自由な意識」の発展とは、同時にジャコバンテロリズム市民社会全体に浸透するということでもあるのだ。神学校で同じ寮にいたヘルダーリンは、狂気に陥ってしまったではないか。

 

 王殺し「後」の世界とは、市民社会が衰退し危機に陥る世界ではない。市民社会自体が危機なのだ。倫理を喪失した市民社会に、お互いを調停する「見えざる手」は作動していない。王殺し「後」に「悪」を解決する「探偵」は存在しないのだ(だからこそ「探偵小説」というフィクションが、「国家」のイデオロギー装置として不断に要請される。その1で見たように、大逆事件「後」の「大正」期は探偵小説の温床となった)。ヘーゲルが共和制ではなく君主制を志向したゆえんである。市民社会=危機に対して、いかに「空席」を「空席」のまま保守するのか――。山之内靖も言うように、「ヘーゲルは最初のシステム論者なのだ」(『総力戦体制』二〇一五年)。

 

 今や資本主義の運動やそれによる市民社会=自由な意識の拡大に、希望や解放を見ている者は誰もいまい。「悪」は蔓延し体感治安は悪化の一途である。「カルト」化した神の「代わりに」「手製」の銃で襲われたという「元」首相へのテロは、ジャコバンテロリズムが何重にも歪曲化されたそれではなかったのかどうか。資本の拡大の裏面としての監視・管理や自粛(警察)による「市民社会の衰退」は、今後もますます進行するだろう。もはやカントの裏側のサドではなく、カントなきサドといってもよい(だがそれは可能なのか)。中上「物語の系譜」が、「探偵小説」の「起源」たる佐藤春夫谷崎潤一郎を入り口に、続けて上田秋成「樊噲」の「それ何事かは」という「悪漢小説」に向ったゆえんだ。実際中上は、秋成とサドを並べてみせる。

 

「それ何事かは」とは、つまり、てやんでえ、という言葉である。いや、江戸や東京の言葉の語感より、それが何だと言うのだ、と素直に口語訳した方が、法や制度を侵犯し抵触することの主人公らの行動のダイナミズムを喚起しうる。

「それ何事かは」とはつまり自己の肯定の衝動である。それは法・制度を侵犯し、抵触する人間の共通の気持ちであり、それが書かれたものであるなら定理定型でもある。悪漢小説、主人公が悪を次々起していくという小説の原基が、この「それ何事かは」である。

〔…〕前回、私は谷崎潤一郎の項で、法・制度上において悪は善の前期的状態であり悪とは法・制度への慎しさを欠いた事にすぎないと言ったが、法・制度上において表れた悪がもし悪として貫徹されるならそれは実に幼児的な意匠をまとってあらわれるだろうという事である。ここでも、マルキ・ド・サドを思い出して頂きたい。物語の舞台はいかなる権力も法・制度が及ばないところで、サドの登場人物は、考えつく限りのありとあらゆる快楽をなるたけ純粋抽出しようとする。(「物語の系譜 上田秋成」)

 

 探偵小説から悪漢小説へ。このような文脈で見てくれば、中上にとって「物語」とは、王殺し「後」の問題であったことが、より鮮明になってくるだろう。中上は、例えば『オイディプス王』に「物語」の構造を見た。

 

ギリシア悲劇の舞台装置がどんな形をとってたのか、はっきり分からないみたいなんですが、ひょっとすると、こういう丸い舞台だったんじゃないかと思うんですよ。それでこう、上に神々がいて、その円陣を見てるっていう、そういう構造をとってたんじゃないかと思うんです。つまり、王様をずうっとはるか天の方から神々が見てるみたいな。つまりそれは、王の位置から転がり落ちてる王、ずうっと上の方に神様がいて、その神様に一等近いところに王がいるんですが、この位置から転がり落ちて、子供の王子の位置に落ちてしまう。

〔…〕オイディプスというのは、王様のずうっとはるか上にあった神の位置から落ちちゃった。王子としてあった自分の昔の罪を探り明かし、自分がその罪の張本人であるってことを分かった時に、一挙に落ちてしまったということだと思うんです。そういう具合に、出生の謎を持った王が子供であった時代の謎を暴かれると、一挙に落ちてしまうっていうのが僕、非常に面白い構造だと思うんです。その王子だった時に犯した罪というのは、王子が孤児、私生児であるっていう、そういう輝きの必然ではなかったのか、ということなんです。それがですね、孤児であったり、私生児であったりした王子が、ひとたび王になると、罪として甦ってきて、それが疫病の原因になってしまうというからくりなんですよね。これが、子と親というもののからくりですね。吉本隆明さんの言葉で言えば、対幻想の領域になってくるんですけど、つまり子供は親に追いつきませんね。親が十分活力がある時に、子供はまだ弱くて小さいんですよね。ところが、子供がいっぱしの大人になった時には、親が老衰していくみたいな、たえずそういうズレがある。そのズレこそ、つまり王子が犯した罪という形になるんじゃないか、という気がするわけなんです。

 ということは、その王子の犯した罪を、王子が知ってるっていうんじゃなしに、その罪を知らないわけなんですね。それを知るのは、後になってからなんだけど、つまり、子供の目から見れば、親はたえず出生が謎である。分からないものですよ。自分が間に合わないんですからね。親の目から見れば、子供は分かりますよね。親は子供を分かるのに、子供から言えば親はたえず謎であるわけなんですよ。こう追っていっても、先に行ってしまってるみたいな。(『中上健次と熊野』)

 

 「オイディプスというのは、王様のずうっとはるか上にあって神の位置から落ちちゃった」。先に述べたように、「神の死」以降、王は神を笠に着れなくなり、「神の位置」から「転がり落ちる」。何度も言うように、「王殺し」は不可避的なのだ。だが、「ギリシア悲劇ってのを一番意識した観客の位置っていうのは、要するに空の上にいる神様の視点だったんじゃないか」。そこにおいては、いまだ神―王―王子というズレ=亀裂をはらみながらの垂直性が形をとどめており、だからこそ王子の犯した王殺しを「罪」として認識できたのではないかと中上は考える。近代の資本主義的な啓蒙的理性が失ったのは、この「神の視点」による垂直性である。そこにおいては、「王殺し」はすでに潜在的な論理として働いており、したがって主体には「罪」も「悪」も不在なのだ。「王殺し」はつねにすでに起こってしまっており、したがってその「後」、市民社会が広がっていくことに「罪」も「悪」も見ることはできない。それどころか、それは啓蒙的理性の「勝利」であり、「希望」で「解放」と言われるわけだ。

 

 一方、オイディプスは、「王子としてあった自分の罪」、すなわち「王殺し」の罪の「張本人であるってことを分かった時に、一挙に落ちてしまった」という垂直性を生きてしまう。だが重要なのは、中上が言う「王子の犯した罪」は、王を殺したという出来事自体ではないということだ。中上のいう「罪」は、人間が「親」と「子」としてあるほかないという、もっと「原罪」的なものである。中上の「罪」は、つきつめれば「子供は親に追いつきませんね」「親は子供を分かるのに、子供から言えば、親はたえず謎であるわけなんですよ。こう追っていっても、先に行ってしまってる」という、「親」と「子」の「ズレ」そのものである。この「ズレ」が「原罪」であり、そこにはすでに王殺しも被差別部落の問題もすべて内包されてしまっているのだ。どういうことか。

 

(続く)

 

物語と悪――王殺し「後」の中上健次

 三島由紀夫中上健次も、父(親)の文学がないこと、子の文学しかないことに愚直にぶつかった。

 

三島 動物的な家父長、そうなったら文学など要らない。父親になろうという欲求があるのは当たりまえで、どんなサラリーマンでもそういう欲求を持っている。左翼文学もこんどは転向によってあとファーターになろうとした人はいない。戦後になってもまた再び息子の文学が復活して、安岡君の文学など典型的だと思うんですが、父親を「海辺の光景」みたいにあれだけ書いたら、あと残っているのは自分が父親になるより方法がない。だけど彼はどうしても父親になれないから「幕が下りてから」を書く。いまだにぼくの文学を含めて石原君でも大江君でも、みな息子の文学をずっとやってきている。そうすると、文学をやりながらどうして父親になれないのだろうかということは、露伴、鷗外は別として、実に不思議な問題で、自分の青春からどうして文学をひき離せないのかということですね。(『対談 人間と文学』一九六八年)

 

 一方中上は、「息子の文学しかない」ことを、「被害者の文学しかない」「加害者の文学は書けない」という「物語の定型」として考えた。

 

従って、こういう物語のコード、物語の定型から見ると、戦後文学、第一次戦後派の文学は非常に浅いところで書かれていた。例えば、軍隊批判を書いているわけなんですけど、たえずこう自分を弱者の立場、被害者の立場に置いている。すると、主人公は自動的に全て純潔になるわけなんですよ。しかしながら、彼らは徹底的に考えつめたことがなかったが故に、その純潔さがやっぱり薄い。それから、批判が中途半端になる。逆に物語の本当の悪っていうんですかね、僕が思い描いてる親という、非常に邪悪な自然、そういうものが主人公になりえない。つまり、結果的には戦後文学は、たえず被害者の文学で、ヒーローは純潔でいいわけなんですね。

 戦争に引っぱられて行って、私はいやいややられましたと。これもつまり、純潔でいいわけなんです。日本は様々な所へ出かけて行ったんですが、その小説の中には朝鮮に行って、あるいは中国に行ってやったその本当の加害の戦争ですか、そういう加害者の文学はないわけなんですね。これはけして、文学者が怠慢であるとかじゃなしに、物語の定型として、加害者の文学は書けないという定型があるわけなんです。そして、今までの人はその定型が分からなかった。物語をあんまり一生懸命に考えなかったわけなんです。それ故に、戦後文学、第一次戦後派の描く文学が、要するにインテリの声だけで、そういう加害者としての文学にみたいな部分に口封じしちゃっているという、やっぱり狭さ、浅さがあるんです。(『中上健次と熊野』二〇〇〇年)

 

 またぞろマッチョな「父と子」と思われるだろうが、そうは言っても、三島や中上が躓いた「父と子」の問題は何一つ片付いていない。それは、端的に天皇制と権力の問題だからだ。中上は、「私と三島由紀夫との違いは、言葉として「天皇」と言わぬことである」(『紀州』一九七八年)と言った。中上には、三島が、アプローチこそ違いあれ、自分と同様に「父」の権力構造に手を突っ込もうとしていたことがよく分かっていた。

 

三島 しかしセンチメンタルの通路をくぐって権力構造に入れるという別のメトーデがあると思っていて、それがぼくが右翼とかいったりする理由なんです。忠義とか、恋闕の情とか……。〔…〕ああいう入り口があって向う側に行けるのじゃないかと考えた。それは間違っているかもしれないし、虎穴に入らずんば虎子を得ずというつもりでも、案外虎子を得ずして虎穴で死んじゃうかもしれないが、そういう入り口しかないような気がする。(『対談 人間と文学』)

 

 確かに三島は、中上が言うように「天皇」と言ったり「右翼とかいったり」したが、それらは「権力構造=虎穴」に入るための「入り口」だった。新左翼は「天皇」と言わず天皇制を思考し得なくなっていた。だから三島は、東大全共闘に「天皇天皇と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐ」と例の挑発を繰り出した。だが、これについては今は措こう。三島や中上の前には、まだ日本近代文学史が、誰も父親になろうとしない、いやなることができない日本近代文学史が、厳然と生きていた。その構造にぶつからなければ、いつまでたっても文学は、権力(もはや「政治」とは言うまい。「政治」と言えば問題がぼやけてしまう)を描けないだろうという虚無感を共有していた。なぜなら権力を描けないということは、いつまでも文学は人畜無害な「文化」の域を出ないということだからだ。

 

 三島は、誰も父親になれない日本近代文学史を、次のように概観する。

 

ファーター・ウント・ゾーン・プロブレムというのが明治のどのへんで胚胎して、どのへんで主流になって、戦後にまで及んで安岡章太郎などにあらわれるか。ぼくはあれはドイツの浪漫派の名残りだと思いますけれども、ああいうものがずっと十九世紀文学を支配した。日本ではおそらく「白樺」があの絶頂でしょうね。そのファーターが家父長から国家権力に移ってゆくと、それに応じてプロレタリア文学がだんだん盛んになりますね。つまり、明治時代に父によって代表されていた国家権力が大正になって、一寸隙間を見せると、父だけが前面に出て来て、又、昭和以後、国家権力絶対になるまでの過渡的な時期があるのですね。転向時代でファーター・ウント・ゾーン・プロブレムが志賀直哉の「和解」のごとく一応和解しますね。また戦後になって、死んだファーターあるいは衰えたファーターへのパロディがはじまる。そのモティーフを興味があってちょっと考えているのですけども。

〔…〕ぼくは、日本でおれは父親になろうと思った人がやっぱり明治でおしまいだというふうに感じられる。それは中村(光夫)さんがずっと追及しておられる青春の問題と関連が出てくるのですけれども、永井荷風は一生息子でした。社会に対し国家権力に対し放蕩息子でした。鷗外はレジグナチオン(注―かのように)ということを言いだしたときにファーターで、あそこでいわゆる自然主義的な意味における人間の誠実さというものを脱却する。それが普通の近代文学観からいうと後退であり、体制べったりであり、国家権力の追随であるかもしれないだ、とにかく父親になる。ところが、それからあとの近代文学では父親になろうという意識がだれもない。

 

 父親にならないということは、権力を目指さないということだ。日本近代文学史においては、権力は思考するものではなく反抗(し和解)するものだった。だが、三島の対談相手の中村光夫が言うように、「そう考えるのはおかしいんだよ。何か自分の考えることを行おうとすれば、やっぱり権力を持たねばならない。権力を持つには政府に入らなければならぬでしょう、あの時代では」ということではないか。日本近代文学においては、この当たり前のことがあまりに忌避されてきた。

 

 問題を共有していた中上は、三島のいう「普通の近代文学観からいうと後退」である「父親になる」という問題を思考すべく、一九七九年から「物語の系譜」の連載を開始する。ある意味で「国文学史」の本丸ともいえる雑誌『国文学 解釈と教材の研究』で連載を始めたとき、中上は、三島のいう日本近代文学史における「ファーター・ウント・ゾーン・プロブレム」の不在を、「物語」の「系譜」として思考しようとしたといえる。

 

 当初、連載タイトルは「物語の系譜 八人の作家」となっていたが、結局書かれたのは、佐藤春夫谷崎潤一郎上田秋成折口信夫円地文子の五人だけだった。講談社文芸文庫版『風景の向こうへ 物語の系譜』(二〇〇四年)の井口時男の「解説」によれば、あとの三人のうち「三島由紀夫はすぐにも論じるつもりだったようだ」ということだから、やはり中上のいう「物語」は、まぎれもなく先の文脈にあったといえよう。いや、より明確にいえば、中上のいう「物語」は、「父」の権力構造に手を突っ込むこと、すなわち「大逆事件」に関わっていた。

 

彼が「物語」と呼んだのは、一言でいえば、国木田独歩に始まる「近代文学」の装置をディコンストラクトするものです。しかも、中上は最初からそれを意識していました。なぜなら、彼は明治の大逆事件を意識していたからです。」(柄谷行人「秋幸または幸徳秋水」「文學界」二〇一二年十月)

 

 中上が、「物語の系譜」を、佐藤春夫谷崎潤一郎耽美派からスタートさせたことから明らかだが、中上は「王殺し」後の「探偵小説」の文脈で「物語」の「系譜」を捉えようとしていた。

 

大正期、江戸川乱歩によって日本で初めて探偵なるイメージが確立されたとすれば、その前史的背景となったのが谷崎潤一郎佐藤春夫耽美派の初期作品であったことも、知られている。それは「自然主義的」な象徴秩序に収まるディスクールに対して、「耽美的」想像界復権として登場したのである。言うまでもなく、耽美的な世界は探究されるべき「謎」であり、主客未分の状態へ追いやる鏡像的(想像的)な世界でもあるという意味で、探偵小説の温床にほかならない。(絓秀実「探偵=国家のイデオロギー装置」一九九九年『JUNKの逆襲』所収)

 

 先の柄谷の「国木田独歩に始まる「近代文学」の装置をディコンストラクトするもの」という言葉と、絓の「それは「自然主義的」な象徴秩序に収まるディスクールに対して、「耽美的」想像界復権として登場した」という言葉とは、実は似て非なるものだが、これも今は問わない。中上が、日本近代文学の「装置」や主流のディスクールでは、大逆事件を思考し得ず、そのためには別の「装置」、ディスクール文学史が必要だと考えていたことが重要だろう。中上が「物語」を、あくまで「系譜」として問わねばならなかったゆえんである。

 

 誤解してはならないのは、中上が大逆事件を思考しようとしたのは、王殺しそのものを思考するためではないということだ。中上が思考しようとしたのは、王殺しの「後」の問題である。権力(構造)とは王殺し「後」の問題にほかならず、また中上がこだわった被差別部落も、論理的には王殺し「後」の問題だからだ。三島が「天皇」と言って、王(殺し)そのものに吸引され向かっていったとしたら、中上は「天皇」と言わずに、いわば王殺し「後」に踏みとどまろうとしたのである。

 

(続く)