コズモポリス(デイヴィッド・クローネンバーグ)

 クローネンバーグの新作の評価が異様に低いので(一時、「Yahoo」では1点台だった)、心配しながら見に行ったが、どうしてどうして、これが面白かった。

 すでに指摘があるように、白のリムジンを「舞台」としているのは、奇しくもレオス・カラックスの13年ぶりの新作『ホーリーモーターズ』と同じだ。

 「われわれは1%だ」ではないが、世界の富は今や1%が手にしている。その1対99という比率の感覚は、その中で生活も可能なほど快適で、すべてが設備されている1台のリムジンの「内部」と、ウィルスや放射能といった汚染物質塗れの外気に曝されたその「外部」という、「圧倒的な非対称」(中沢新一)ともいうべきものだ。白のリムジンは、そうした意味において、「現在」をあらわしているのだろう。

 ストーリーはといえば、金融資本主義下の為替取引で大儲けした主人公「エリック」(ロバート・パティンソン)が、ある日散髪をしたいと思い立ち、行きつけの床屋にリムジンで乗りつける、ただそれだけの話だ。

 エリックは、まるで為替や株価をチェックするように、毎日リムジンの中でメディカルチェックを受ける男だ。だが、なぜか今日は、いつもとは違う医者がリムジンに乗り込んできて、しかも「前立腺が非対称です」という診断を告げられてしまう。この瞬間から、普段はエリックの前立腺のごとく表にはあらわれない「非対称」が、日常に開いた裂け目として、にわかに露わになってくるのだ。

 ふと車内のモニターに目を移せば、中国人民元の相場が一向に下がらず、このままではエリックは破産してしまう。中国=元というファクターは、金融資本主義市場の均衡を揺るがしかねない不確定な要素なのだ。それも、市場の自由と「非対称」な、国家の一元的な管理を受けているゆえだろう。

 やがて、リムジンは、富の非対称を訴える「ウォール街を占拠せよ」のごときデモに、本当にとり囲まれてしまう。そして、スプレーでめちゃくちゃに落書きされた挙句、マチューアマルリック扮する奇人(変な奴を演じたら右に出る者はいない)に、顔面パイをぶつけられてしまうのだ。「次は本物だ」。

 ようやく床屋に着いたものの、今度は何かに呼ばれるように、エリックは途中で散髪を切り上げてしまう。おかげで、髪は非対称なのだ。こうして、さまざまな非対称に見舞われた果てに、エリックは、ついにリムジンの外へと降りていくのである。

 本作のクローネンバーグは、いつにもまして思索的である。この作品は、いわば「非対称」をめぐる映像詩のようでもあり、さらに突っ込んでいえば、マルクス「価値形態論」の第四形態(貨幣形態)から、第一形態(単純な価値形態)への遡行の物語なのだ。

 それはすでに、冒頭に掲げられる「ネズミが通貨の単位となった」という言葉に示唆されていよう。それは、途中、まさに「ドブネズミ」(ブルーハーツ)の連中が、そのセリフを叫びながらレストランに乱入し、ネズミをぶちまけてくるシーンで明らかになる。すなわち、非対称な格差の根源たる商品と貨幣の非対称な関係を、ドブネズミ=下層からの一撃で揺るがさんとすること。

 あのとき、ネズミを投げつけられたエリックは、しかし他の客とは違って笑っていた。すでにこのとき、彼は根源的な「非対称」へと己を開こうとしていたといえる。ここから、エリックが、格差の象徴たるリムジンの外へと下りていくまでは、ほんの一歩だ。

 ラスト、リムジンの外=廃墟に迷い込んだエリックと、ネズミのような風貌の男との、銃を突きつけながらの対峙と対話は、商品aと商品bの対峙=単純な価値形態へと遡行していったエリックのあり様にほかならない。すべての非対称=格差を派生させる、根源的な「非対称」はそこにある。ならば、「本当はあんたに救ってほしかった」というネズミ男のセリフが、いったい何を意味するかは、もはや言うまでもないだろう。

 そういえば、エリックが横切ったニューヨークの街角の電光掲示板には、マルクス共産党宣言』の言葉を簒奪した、「資本主義という妖怪が徘徊している」という言葉が映し出されていた。「資本主義という妖怪」という文字は、車窓からでも見える。だが、妖怪の真の姿は、リムジンから降りなければ決して見えないのだ。

中島一夫