希望の国(園子温)

 東日本大震災から数年後、「長島県」の原発都市を大地震が襲った。原発事故が発生し、20キロ圏内が立ち入り禁止区域に。容赦なく民家の庭にも杭が打たれ、「KEEP OUT」の黄色いテープが張り巡らされていく。昨日まで、自宅で作った野菜を互いに交換し合ってきた隣近所の住民たちが、理不尽に圏内と圏外に引き裂かれていく。

 おそらく、「長島県」という名称は、「長崎」+「広島」から来ているのだろう(福島は「福島」として出てくる)。フクシマの「後」に、ナガサキヒロシマを導入することは、作品に何をもたらしているのか。

 まずは、フクシマ後、早くも薄れかけている被曝の不安や恐怖に、観客を連れ戻すことだ。妊婦の「いずみ」(神楽坂恵)は「放射能恐怖症」に陥り、住まいから少し離れた疎開先でも、家の中で防護服を着用するに至る。夜も、ビニール製の蚊帳の中でしか眠れない。その様子は、まるで御簾の向こうの高貴な姫のようでもある。

 彼女が特異なわけではない。その奇異な姿に、最初は「自分も笑われる」と嫌がっていた夫(村上淳)も、徐々に恐怖症を共有していく。そもそも、彼らをいち早く疎開させようとしたのは、夫の父(夏八木勲)であり、その父こそチェルノブイリの時に買ったという古いガイガーカウンターで、家中の放射能を測定して歩く恐怖症だったのだ。

 すなわち、この作品は、「ナガ(サキ)(ヒロ)シマ」に場所を設定することで、この国は、原爆を落とされたあの時から、世代を超えて、ずっと見えない放射能の恐怖におびえ続けてきたのではないかと問いかけている。ここには「忘れるな」という強いメッセージすら感じられるだろう。それは、ドキュメンタリーではなく、フィクションだからこそ出来たことだ。

 さらに、「ナガサキ」「ヒロシマ」を含む「長島県」という名称には、この作品が、一貫して地方を描きながら、本当は「国家」を問題にしようとしていることが表れている(タイトルは「希望の国」だ)。

 最も顕著なのは、父の「杭=悔い」というセリフだろう。彼は、息子に、ずっと国に頼りっきりの状態でいれば、どんどんと「杭」を打たれ、いつのまにか大切なものを失い「悔い」ることになる、と切々と訴える。そして、生まれ来る子供のために、二度と両親に会えない遠くまで逃げるべきかどうか迷っている息子に、「肝心な時に「国」はまったく信用できない、自分で判断して行動しろ」と諭すのだ。

 だが、これは、国家批判というより、国への恨みつらみである。ここには、国によって理不尽に「杭」を打たれてしまったことへの「悔い」があるのみで、ついにそれに対する闘争は起こらない。

 立ち退きを迫る役所の若者と、頑として動こうとしない父の間に、一瞬争いが起きかけ緊張が走るものの、認知症の母(大谷直子)の滑稽な思い出話によって、あっさりとそれも回避される。この作品では、ガソリンスタンド、建設現場、産婦人科の待合室、子供たちの登下校など、何度か被災地差別によるいざこざが起きかけるが、被災地にはふさわしくないとばかりに、ことごとく争いは回収される。最後まで家から動かなかった老夫婦の悲劇的な結末は、その「杭=悔い」に対して争わなかった者たちの、「美しすぎる」屈服の姿でなくて何であろう。

 登場人物たちは、原発(を作らせてしまったこと)に対して、さかんに「残念だ」「悔しい」「ちくしょう」と「悔い」を口にする。だが、それに対する反対運動は一向に起こらない。他で起こっている気配もない。まるで、現在都市部で起こっている反原発運動など、被災地住民には何の関係もないというかのように。

 あるインタビューに監督は言う。現地で取材をするうちに、被災地の人々が「寒かった」「怖かった」「悲しかった」「辛かった」と感情を表現する言葉がたくさん出てきて、本で読んだ頭でっかちの知識がまったく役に立たないことを痛感した、と。そして、そうした被災地の感情の根にある「下部構造」だけでドラマを作ろうと心掛けた、と(「週刊読書人」10月19日号)。

 「下部構造」というマルクス主義の言葉をあえて使うところに、現在の左派的?で「頭でっかち」な反原発の言説や運動が、いかに実際の被災地の感情から遊離しているかという批判が見え隠れする。

 では、一方、この作品は観客をどこへ導こうとするのか。それこそが、あの幻の子供たち(精霊?)の「これからの日本人は、「一歩二歩三歩」なんて傲慢な歩き方はできない。一歩一歩一歩って歩くんだよ」であり、認知症の母が、家にいながらにして何度も繰り返す「ねえ、お家へ帰ろうよ」だろう。

 母は、まるであの子供ら精霊たちを迎えに行くように盆踊りへと向かう。それによって、両者の言葉は重なって見えてくるようだ。すなわち、傲慢で一足飛びの経済成長を反省し、原発が作られる以前の、この国の故郷=「家」(社稷?)に「帰る」こと。

 もちろん、そこに「帰る」ことなどできはしない。ならば、せめて、さかしらな浅知恵を捨て、「家」をこのような姿にされてしまったことへの「悔い」を、苦渋に満ちた姿で甘受している被災者の感情に、できるだけ寄り添うこと。

 悔恨共同体? いや、この作品はそれを「希望の国」と呼ぶ。

中島一夫