金井美恵子『小さいもの、大きいこと』、『小説を読む、ことばを書く』

目白雑録5 小さいもの、大きいこと

目白雑録5 小さいもの、大きいこと


 最近何かと話題の、山本太郎竹田恒泰、あるいは小泉純一郎をも含めてもいいかもしれないが、やはり「純粋な」反原発は、あらかじめ天皇に回収されていることを痛感する。この純粋さの回路を「解毒」せねばと、改めて金井美恵子の近刊を読みかえす。

 『小さいもの、大きいこと』というタイトルは、中国の故事成語「毛を謹んで貌を失う」、すなわち、「小さなもの(末)にかかわって、大きなもの(根本)を忘れるたとえ」が、「まさしく、私の文章の本質を衝く言葉ではないかと思えた」ところからつけられたという。

 だが、むしろこれは、「「小さいこと」というか、「小さすぎること」」を散文的に書き連ねることで、「大きなもの」に至らないようにひたすら遅延行為を働くという、著者の、極めて批評的な「文章の本質」のことを述べていると読まねばなるまい。

 近刊における「大きなもの」とは、端的に天皇のことだし、「神話」や「短歌」と言い換えてもよい。例えば、『小説を読む、ことばを書く』所収の、「たとへば(君)、あるいは、告白、だから、というか、なので、『風流夢譚』で短歌を解毒する」でいえば、それは「天文学的に巨大であるに違いない短歌の言語空間」ということになろう。

 このエッセイの末尾に印象的な場面がある。被災地を訪れた皇后に水仙を手渡した老婦人の話と、ロラン・バルトの『小さな歴史』に記された、五十年前から毎週会いに来てくれる友達に、蘭をプレゼントする老女の話とが比較される場面だ。

バルトの後悔も含めて、私は、皇后に手渡された黄色い水仙のエピソードより、老女が五十年来の友人にプレゼントする花のエピソードの方が好きである。奇妙な言い方でそれが当っているとは言い難いのだが、『小さな歴史』と『小さな神話』はバルト版『庶民列伝』だと言ってもいいのである。
 こうして、歴史ある巨大な短歌的空間をごく野蛮にざっと、見わたした今、被災者の老婦人が皇后に手渡した一輪の黄水仙(テレビの画面に映っていたのは、一輪の黄色いラッパ水仙だったのだ)は、私にはそれがまさしく、富士山とも比すべき短歌空間そのものに見えはじめたのである。


 そして、山本太郎天皇に手紙を渡したとき、ふとこの場面が思い出され、ひょっとして、そこには短歌が詠まれていたのではないかとすら夢想してしまった。

 あるいは、『小さいもの、大きいこと』では、和合亮一ツイッター詩が批判されているが、例えばその「放射能が降っています。静かな静かな夜です」も、ほとんど短歌ではないか。

 そもそも、ツイッターの字数制限もさることながら、ある者の言葉が、ひたすらRT(リツイート)されていくさまはまるで「連歌」のようでもあるし、リプライは「返歌」のように見えてくる。そして、はじめから卓越している者の言葉が、まるで呪文のように無批判にRTされていくそのありさまは、何かその果てに、「富士山とも比すべき(短歌)空間」が現れてくるかのようだ。

 たとえば、この金井の近刊二冊ともの「あとがき」に登場する、稲川方人の『詩と、人間の言葉』の最後に置かれた、十五頁「一万二千百九十二字」にわたって一切句点のない文章が、そうした空間と親和的かどうか、考えてみればよい。

 それは、文章が長いか短いかの問題ではない。以前、書評で述べたことだが、「そこに書かれる言葉が「詩」にもならず「文学」にもならなくても私はなんらかまわない」(稲川)という、「断絶」という名の「〝人間の〟同意」が、その言葉にあるかどうか、だ。そして、おそらく、この「大きなもの」に達しようのない地点で、金井と稲川は交差するのである。

中島一夫