津村喬精選評論集―“1968”年以後

津村喬精選評論集―“1968”年以後


津村喬精選評論集』(論創社)刊行記念 トークセッション@京都
津村喬(気功家・評論家)×スガ秀実(文芸評論家)×中島一夫(司会)
「1968年と3.11をつなぐもの」


日時 10月14日14時〜16時
場所 京都ひと・まち交流館2F(京阪電車清水五条駅下車徒歩8分) http://www.hitomachi-kyoto.jp/access.html
入場カンパ500円
問い合わせ 080−6180−9641(吉永)



日本の「1968年」革命の中心にいた津村喬。本書『津村喬精選評論集――《1968》年以後』は、『われらの内なる差別』など70年代前半に津村が刊行した6冊の評論集からの主要論文に加え、膨大な未刊行評論のなかから、毛沢東ゴダールブレヒト、都市批評、東洋体育、そして、原子力原発問題などについての論考をまとめた画期的なアンソロジーです。編者のスガ秀実は、日本の「68年」を論じ、『反原発の思想史』(筑摩選書)を著しています。
この、圧倒的に早く、いまなお(いまこそ!)アクチュアルな津村の論考をもとに、1968年と3.11以降の現在を語り尽くします。

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 ソ連の崩壊や中国の台頭からも明らかなように、「68年」革命は概ね、だがあくまで反革命的に実現された。すが秀実のいう68年の勝利とは、そのようなものである。

 それを敗北と言わないのは、現在がなお「68年」に規定されており、そうである以上、いまだ「68年」は持続しているといえるからだ。それは、例えば橋下大阪市長が目論む労働組合の粉砕が、かつて68年が目指した「ポツダム自治会」粉砕の矮小化された反復であることなどにあらわれていよう。「維新」は、依然68年の「持続と転形」(津村喬)の中にある。

 そして、津村喬ほど、68年を「持続と転形」において実践している者もいないだろう。だからこそ、津村は、68年を「持続と転形」において肯定しようとする、すがの一連の68年論において、不可欠で特権的な主人公を務めているのだ。また逆に、津村を、そのように再発見したからこそ、すがの68年論は、歴史的でありながら現在をも思考する武器になり得るのである。

 今回、すがの編集によって実現したこの津村評論集について、今この場でまとまったことを述べることはできない。だが、津村の思考が、言葉が、「はじめに」で述べられているように「四十余年たった今も読んでみて少しも古くなっていない」のはもちろん、現在に鋭く突き刺さってくるものでもあることは、今夏の尖閣諸島問題ひとつ見てもわかるだろう。

 68年も持続しており、アジアとの戦争も持続している。「自分をアジアの戦争の中でとらえ、まだ戦争状態が続いている中でどう振舞ったらよいか、と一貫して問題を立ててきた」(「あとがき」)という津村の思考は、むしろ今後において、いよいよ効いてくるのではないか。

 たとえ、収容所のありようが暴露されたとしても、スターリン主義を安易に排除できないように(現に、武井昭夫のような人は、あれほど「反スタ」だったにもかかわらず最後までソ連にこだわった)、大躍進政策や粛清、虐殺が明らかにされたからといって、毛沢東主義を考えずに済ませることはできない。なぜなら、われわれの現在が、反スタ、反毛にグローバルに規定されているならば、さらにそれをひっくり返していく可能性もまた、そこに見出せるはずだからだ。

 「もちろん、毛沢東の評価はまったく同じとは言えない。当時と同じように「文革万歳!」とは言えない」、「にもかかわらず、文革にはまた希望もあり大きな可能性があった。私はいつかそのことを書こうと思う」と津村はいう。いまだに細々とスターリンの収容所のことなどを考えている者にとって、最近これほど大きな勇気を得た言葉もない。来年早々に復刊されるという『戦略とスタイル』も、今から待ち遠しい。

中島一夫