ソフィアの夜明け(カメン・カレフ)

 見事な長編第一作だ。
 あまりスクリーンではお目にかかれない、ブルガリアの光景が見られるというだけでも魅力的だ。

 監督の友人で、国立美術学院にて木工を学んだアーティスト、フリスト・フリストフがモデル。そして本人自ら主人公「イツォ」を演じる。イツォは38歳の木工技師。薬物依存の治療中だが、今やドラッグのかわりに酒浸りの生活、そのせいか終始目はうつろでまどろんでおり、ガールフレンドにも辛く当たってしまう毎日だ。

 もう一人、17歳の青年ゲオルゲは、父の注意も聞かず、スキンヘッドで学校にも行かない日々、やがてネオナチのギャンググループとつるむようになる。

 オープニングから交互に淡々と映し出されていた二人の生活が、にわかに交錯し、実は二人が兄弟であることが判明する。ゲオルゲが属しているネオナチが、トルコ人観光客の家族を襲撃するシーンだ。そこに酔っぱらったイツォが介入してくるのである。

 オスマントルコ帝国に500年にわたる間支配されていたブルガリアでは、国境を接するトルコ(人)への感情には特別なものがある。そして、それはまた、排外主義的な極右政治家が、ネオナチの若者を都合よく利用するうえで格好のストーリーを提供しているのだ。

 兄の薬物依存と弟のネオナチ加入は、社会主義崩壊後、資本主義に覆われていく途上で、急速に生の「意味」を喪失していくブルガリア社会の二つの典型である。ネオナチの暴力に特に意味や理由はない。極右政治家の煽りたてる外国人排斥が、彼らの暴力に「意味」や「理由」を与えているにすぎない。その「からくり」を知ってしまっている兄イツォは、したがって、やみくもにネオナチへと走る弟に「足を洗う」よう諭すが、かといって自分にもそれに変わる何かがあるわけではない。

 集合住宅街を抜けた開発途上のだだっ広い更地を前に、二人並んで立っているシーンが印象的だ。ゲオルゲがつぶやく。「ビジネスセンターが出来るらしい。古い家々はもう壊された」。

 まさに、チラシのコピーのように「おれの明日はまだかよ」といった感じだ。社会主義は崩壊した(「古い家々は壊された」)が、さりとて本当に資本主義のもとで「明日」はある(「ビジネスセンターが出来るらしい」)のか。彼らの虚無感は、ブルガリア・ソフィアのありようそのままなのだ。

 医者を前にしたイツォの悲痛な叫びが耳に残る。「オレは不安に満たされている。善きものとして生きたいのに、人を傷つける事しかできない。オレの善はどこにあるんだ!」。

 画面の奥へと続く路面電車の線路。ひときわ映画的な画面だ。だが、イツォは、数多の主人公たちのように画面の向こうへと去っていくことができずに、画面のこちら側へふらふらと戻ってきてしまう。朝ぼらけの街の向こうに、容易に「明日」は姿を見せてはくれないのだ。

 そこで出会った老人は、まるで仙人のようだ。老人の家でイスに座ってうたた寝してしまったイツォの前に、ふと目を覚ますと老人ではなく赤ん坊が座っている。目に映っているのは、夢か現か。素晴らしいシーンだ。イツォは、今、「いつかここに来たことがある」かのような懐かしさを感じながら、夢と現の間にまどろんでいる。

 等身大の主人公を演じたフリスト・フリストフは、撮影終了間際に不慮の事故で亡くなった。そのため、未完のまま不意に終わりを告げる今作は、まるでイツォが見ていた夢と現の間に観客をも閉じ込めてしまったかのようだ。いつ映画は終わったのだろうか、まだ続いているのだろうか、私にはよくわからない。

中島一夫