瞳の奥の秘密(ファン・ホセ・カンパネラ)

 いつもは、あまり、おすぎと映画の感想が合わないのだが、この作品については同じ意見だ。
 「今、見なければ、一生後悔する秀作」。

 確かに、この作品には、ストレートな形容がよく似合う。たとえば、「久し振りに大人の映画を見た気分だ」とか、「登場人物たちの感情の機微を丹念に描いているのがいい」といったように。


 すでに刑事裁判所を引退したベンハミンは、25年前に担当した殺人事件が頭から離れない。いったい、あの若く美しい人妻が惨殺された事件の「真実」はどこにあったのか――。

 彼は、事件を題材に小説を書くことで、もう一度「真実」を見つめ直そうとする。だが、殺害された妻の夫リカルドの愛の深さと、愛する妻の不在に耐えるその姿に思いをはせるうち、いつしか彼に自らの姿を重ねていく。脳裏にぼんやりと浮かんでは消えていく、駅での別れと走り去る列車の記憶。そう、あのとき以来、封印してきた上司イレーネへの気持ちが、書き進めるうちに、目を背けられない自らの「真実」として、再びほとばしってくるのだ。

 小説(フィクション)を通じて、「真実」はたぐり寄せられる。

 思えば25年前も、一度は真実(=真犯人)をたぐり寄せたはずだった。ベンハミンは、被害者とともに何枚かの写真に映っていたゴメスという男の「瞳の奥の秘密」、すなわち彼が、写真の中で、いつも彼女に異様な「情熱」で視線を送っていたことを発見し、彼が真犯人ではないかと仮説(フィクション)をたてることから捜査を開始する。そして、名(迷?)コンビたる、酒浸りだが信頼できる同僚の手を借りて、自宅に残されていた手紙を入手、そこに隠された並々ならぬもう一つの「情熱」を解読し、ついには長回しが圧巻の追走劇、大捕物へとこぎつけていくのだ。

 だが、確たる証拠も存在しない以上、ゴメスを刑務所に送り込むことはできない。そして、ここでもゴメスは、取調べ中に露呈してしまった、彼自身裏切ることのできない、自らの「瞳の奥」に宿る「情熱」(=「女」への視線)によって自白に追い込まれていくのだ。

 本来なら終身刑だった彼は、だがその後権力に飼い馴らされ、体制維持に有益な前科者として社会に舞い戻ることになる。フーコーが、『監獄の誕生』で分析した、前科者を刑務所内で規律・訓練することで権力の「地下警察」に仕立て上げていく、いわゆる「非行性」というやつである。ましてや、事件の起きた1974年のアルゼンチンといえば、女性大統領イサベル・ペロンの政権から、その後76年のクーデターで軍事政権が誕生していく、極めて政情が不安定な時期にあった。

 そこに刑事裁判を正当に成り立たせるような「正義」や「真実」は存在しない。ゴメスの釈放を知ったリカルドは落胆しきってつぶやく。「結局、司法は何もしてくれない」。

 いつのまにか大統領を護衛するSPにまで成り上がっていたゴメスは、ベンハミンとイレーネの乗ったエレベーターにいきなり乗り込んできては、ドアミラー越しに拳銃を抜く。このシーンの緊迫感は息を飲むばかりだ。

 このように、残虐な殺戮が起きそうな予感が閉塞空間を覆うエレベーターの中や、男と女の別れには欠かせない駅と列車、あるいは迫力ある追跡劇を演出するスタジアム、ドアの開閉ひとつで会話の公私を峻別するオフィスなど、映画の文法をふんだんに踏まえた場所の使い方と演出に対する配慮がひとつひとつ心憎いほどで、それだけでも見ていて飽きない。

 今や、刑事裁判所職員ベンハミンと殺人犯ゴメスの立場は、クーデターとともにすっかり逆転してしまった。ベンハミンは、一転して当局に睨まれる存在となる。

 こうして、彼がブエノスアイレスを追われて25年がたった。そして、彼は「A」を打てないタイプライターで小説を書きながら、あいかわらず自問する。いったい、あの事件の「真実」はどこにあるのか、そして「正義」はどこに行ったのか。

 小説を書きながら、ベンハミンにはどうしても分からないことがあった。この世のすべてであった愛する妻を失ったリカルドは、その後の人生の虚無を、いったいどのようにして生きられたのだろうか。

 あのとき、リカルドは、犯人の「死刑」をのぞんでいたわけではなかった。死刑など、注射で永遠に眠らせ、犯人をすべてから解放させるだけだ。翻って、自分は、妻の永遠の不在に耐えながら虚無を生きていかねばならない。どうして、彼にはそれが可能だったのだろう。イレーネへの思いを封印してきた自らの25年を振りかえっても、それが分からない。

 やがて、ふいに思い出す。彼は、妻のことが忘れられないことに耐えられないのではなかった。その逆に、「努力をしなければ、あの日の朝、一緒に飲んだ最後の紅茶が、蜂蜜入りだったかどうかすら曖昧になっていってしまう」ことに耐えられないと言っていたのだ。

 生きるということは、愛したものの記憶すらやがては薄らいでいってしまう、その散文的な時間との持続的な闘いである。虚無化する時間と先細りする記憶に抵抗するためには、それを失うまいと過去にしがみついているのではなく、結局は、前方に向かって「情熱=執念」を燃やし続けていくほかはない。

 大文字の「正義」や「真実」が失効してしまった以上、そこでは、それぞれがそれぞれの「瞳の奥の秘密(=情熱)」を、小文字の「正義」や「真実」として、フェティッシュのように追求し続けるほかはない。もはや、人は、それが正義や真実だから行うのではない。どうしようもなく、そこに向かってしまうのだ。今や世界とは、そうした「情熱」と「情熱」との闘争場と化した。「ならば」とベンハミンは考える。「事件は、まだ終わってはいない!」

 そして、映画は、「正義」なき世界にたった一人生きるリカルドが、己の「瞳の奥」に燃やし続けた「情熱=執念」の形を、最後に明らかにするだろう。

中島一夫