ストーカー、ノスタルジア(タルコフスキー)

 特集をやっていたので、久し振りにタルコフスキーを2本、映画館で見た。

 作品の内容は、今さら触れるまでもないだろう。今回見ていて感じたのは、要するにタルコフスキーは、ニーチェ的な「最後の人間=究極のニヒリスト」ではないかというスラヴォイ・ジジェクと似たようなことだ(『大義を忘れるな』)。

 ジジェクは、『ストーカー』についてタルコフスキーが自己解説した「「ゾーン」は存在しない。ストーカー自身がでっち上げたものだ」という言葉は、タルコフスキー自身にこそ当てはまるのではないかという。すなわち、タルコフスキー作品に通底する「信仰」というテーマは、西洋の退廃した知識人の目を意識して、「ナイーヴな信仰を抱いている者」と想定される主体の役割をタルコフスキーが演じているに過ぎず、彼自身は正統的信仰者でも何でもないのではないか、というのだ。

 なるほど、自然(水や火)を重視する自然主義作家のようにも見えるタルコフスキーの撮影現場が、実はさまざまな人工的な仕掛けに満ちていることについては多くの指摘があるし、かつて鴻英良が「空間のモンタージュ」と呼んだように、その美しい風景も、実際はさまざまな場所の画の合成であったりする。若い頃は、ロシアなどそっちのけで、アメリカ文化に傾倒していたというのも有名な話だ。

 タルコフスキー作品は、その、母なる大地、敬虔なる信仰、美しい自然などを愛する熱心なファンが多くいる一方、日本では、蓮實重彦浅田彰といった知識人によって否定され抑圧されてもきた。特に浅田は、「スターリニズムに抑圧されてきた宗教的感情の解放など、スターリニズムの後始末という以外は単なる反動でしかない」、「ゴダールのハイファイのあとで、どうしてこんなロウファイができるのか」とにべもなかった。だが、その「宗教的感情」自体が擬制されたものだったとしたらどうか。

 ジジェクタルコフスキーを「究極のニヒリスト」と呼ぶとき、それは言いかえれば、タルコフスキーが描く「故郷=自然」は、先験的に喪失されたそれにすぎないということである。『ノスタルジア』が示しているのは、「ノスタルジー」の不可能性にほかならず、ラストで繰り広げられるのは、故郷喪失者たちの狂気と死だ。

 また「ストーカー」は、「ゾーン」など存在せず、そこにたどり着くはできないことを知っているにもかかわらず、その存在を信じようとしないインテリたちのシニシズムを罵倒する。

 おそらく、「ストーカー=タルコフスキー」のニヒリズムとは、あくまで(西側の)インテリのシニシズムを批判するうえで、その威力を発揮したものだったのだ(核による破滅をテーマとする『サクリファイス』が、期せずして最後の作品となったのも象徴的だ)。したがって、冷戦崩壊以降、それは単なる反動的なニヒリズムに映ってしまうことにもなりかねない(冷戦崩壊以降に「タルコフスキー」をやろうとすると、いわばソクーロフになってしまう)。

 ドゥルーズタルコフスキー作品に見る「映像=結晶」――線的に流れる時間とは異なる、地層のように堆積した時間――も、決して「故郷」にたどり着かずに淀んでしまった「時間」であり、そうした地層への視線は、母によるシベリア送り、すなわちアメリカかぶれで不良化した息子を心配した母によってシベリア地質研究所に送られ、一年間鉱石発掘作業に従事した経験と無縁ではないだろう。

 タルコフスキーは、故郷から遠く隔たったシベリアの地層(時間の堆積)に、すっかりアメリカナイズされ、故郷=ロシアを喪失してしまった自らの「時間」(故郷からの距離)を重ね合わせていたのかもしれない。

 作品によく見られる池や沼に沈んだ鉄片の映像は、「鉄=スターリ(ン)」が過去の残骸として、だが決して消えうせることなく自らの心に堆積し残存しているさまを「結晶」のように映し出す。それは、タルコフスキーにとって、すでに存在しないものなのに、いや存在しないものとしてのみ、いつまでも存在し続けるものだったのではないだろうか。

中島一夫