第9地区(ニール・ブロムカンプ)

 各方面で評価が高く、勝手に社会派SFを想像していたが、現代版カフカ「変身」?! だった。

 南アフリカヨハネスブルグ上空に宇宙船が停滞、強行突入を試みると中には痩せ衰え、餓死寸前の異星人たちが。その風貌から「エビ」と呼ばれる彼らは、救助と銘打って「第9地区」なる難民キャンプへ移送される。ごみを漁り不潔きわまりない彼らは、やがて周辺住民から強奪をはかり、そこにナイジェリア人のギャングも加わって、第9地区は20年の間にすっかりアナーキーなスラムと化す。

 「早くエビを退治しろ」「ガスを撒け」「いや武力行使だ」「さっさと宇宙船に乗せて返してしまえ」――。住民の要請は激化し、ついにエイリアン問題管轄の国際エージェントMNUは、彼ら用のテントを設置し第10地区へと移住させる計画を遂行する。小役人といった風情の主人公ヴィカスが、今回のプロジェクトのチーフに大抜擢。だが、それが、所長の娘と結婚したことによる玉の輿人事なのか、婿が気にくわない所長=義父による報復人事なのかわからなくなるあたりから、どうも雲行きが怪しくなる。

 ヴィカスが、エビたちのバラックを一軒一軒回って移住を説得するシーンでまず爆笑。玄関先でエビと人間が押し問答する姿といったらない。なぜか「ネコ缶」が好物のエビに、高値で売りつけるナイジェリア人ギャング。律儀に一列に並んで順番を待つエビの姿を想像してみてほしい。そして、ヴィカスとエビ親子の遭遇。命の危険も省みず、友人の死を悼むエビ・父に、「坊やのことを考えろ」と叫ぶヴィカス。それに心動かされるエビ・父。

 ある液体を浴びたことで、体がエビ化するヴィカスへの、人間たちの冷たい視線。挙句、どうやらエビとセックスしたらしいという噂。まるですでに亡くなってしまった人のことのように、人間時代のヴィカスを語る周辺人物のインタビュー証言の嵐。いやいや笑ってはいられない。何せ、夫婦はその噂で信頼の危機なのだ。ここで、妻が泣いたりせず、「あんたエビとやったの!」ぐらい言ってくれればさらに笑えるのだが、さすがにこのあたりで気付く。どうやら制作側はマジだ……。

 だが、マジのSFならば、やはりしかるべき合理性が追求されるべきだろう(突っ込み所は満載すぎるが、人間の体をエビ化させ、「かつ」宇宙船のガソリンにもなる液体って何 ?!)

 この作品の奇妙さは、傑作B級映画になり得る可能性を秘めながら、制作側も観客もそのようには見ていないところにある。では、そうさせるものは何か。おそらく、それは高度で精密なCGだ。あまりに見事なCGは、A級B級(あるいはベタとイロニー?)の位階を無化するのである。

 だが、それならば、エビ=エイリアンが、従来宇宙人にまとわせられてきた「異形」を超えて、貧しく汚らしい痩せ細った難民として描かれ、さらにそのイメージが南アフリカやナイジェリア(シャーマンの言にしたがって、超人的な力を得るためにエビをむさぼり食おうとする、前近代的なナイジェリア人の描かれ方など、まるで「土民」扱いだ)という名に落とし込まれることに、「ちょっと待った」と言わざるを得ない。この作品のヤバさは、異星人のエビを、まったき他者ではなく、具体的な地名とともに妙に人間化することで、中途半端に政治性、差別性をはらんでしまっているところにある。

 むろん、彼らを難民扱いするのは、白人オンリーのバイオテクノロジー多国籍企業であり、作品には彼らが内臓や遺伝子を商品としてしか見ない「暴力」も全面に描かれる。そもそも、南アフリカやナイジェリアが、もはやネーション・ステートではなく、「第9地区」「第10地区」と「地区」化しているところに、近未来における帝国=多国籍企業の論理の浸透が見られよう。

 だからこそ、なぜ、ベタなファミリーロマンスによってエビに感情移入させ、観客を「感動」(TVCMは完全に「感動作」モードだ)へと仕向ける必要があったのか、理解に苦しむ(と言いながらも、おそらくヒットのためにそうした「要請=指導」があったのだろうが)。

 むしろ、この作品の可能性は、先ほど触れた「おバカ」な「笑い」に徹することで、差別を享楽するところまで突き抜けることにあったはずなのだ。

中島一夫