チェンジリング(クリント・イーストウッド) その2

(その1の続き)

 それは、まさに息子が「チェンジリング=取り替え」可能なこと、それ自体である。いったい、どういうことか。

 彼女の元に「戻された」少年は、まったく別の家出少年であったことが判明する。さらに、本当の息子をめぐる事態は、にわかに一変する。ゴードン・ノースコットなる、幼児誘拐無差別殺人犯に囚われていたらしいことが判明するのだ。

 事態の変化は、行方不明だった息子の居場所が、ひとまず分かったということにとどまらない。この殺人鬼にとって、捕獲する幼児たちは誰でもよく、また彼は、獲物を自宅わきの小屋に監禁しながら、気分によって虐待しつつ生かしておいたり、あるいはすぐに殺したり、という気まぐれさに満ちている。

 したがって、息子の生死は、無差別な偶然性にさらされているのであり、もしこのゴードン・ノースコットが気まぐれで息子を殺してい「ない」としたら、彼、ウォルターは、まだどこかに生きているということになる。ノースコットの存在によって、その可能性が一気に開けたのだ(丹生谷貴志も指摘するように、したがって、彼女はノースコットに「あの子を返して!」ではなく、「あの子を殺したの(かどうかはっきりさせて)!」という倒錯的な問いただしをしてしまう)。

 まさに、「ゴード」ン・「ノー」スコットとは、「ノーゴッド=負の神」(あるいは、神の不在)にほかならない。逆説的なことに、ゴードン・ノースコットに囚われたという事態が、かえって彼女に「希望」をもたらすことになる。

 「チェンジリング」とは、当初は、息子と家出少年との「交換可能性」を示すにとどまっていたが、この殺人鬼の登場によって、彼に囚われたすべての少年との「交換可能性」へと一気に事態は拡大し、作品空間全体が「チェンジリング=交換可能性」に覆われていくことになる。

 この母と殺人犯とは、警察や牧師(神)を一方に置けば、それらとは相容れない「狂気」という意味で、作中においてはむしろ同じ陣営に位置することになる(彼女が電話「交換」手であることも示唆的だ)。したがって、ノースコットは常に彼女を称賛し、刑務所を訪れた際に激昂した彼女は、彼と「入れ代り」に「囚人」のごとく監獄に閉じ込められてしまうだろう。

 彼女/彼の位相は、あらゆる超越性が失効し「偶然性=賭け」にさらされた空間である(作品は、金本位制が崩壊するとば口となった1929年の世界大恐慌を背景としている)。

 蓮實重彦は、「最後に映画の話が出てきて、アンジェリーナ・ジョリーが上司と『或る夜の出来事』(フランク・キャプラ)がアカデミー賞を獲るかどうか賭けをするというシークエンスがありましたが、あれが全体とどう繋がるのかぜんぜんわからない(笑)」(『ユリイカ』2009・5)などととぼけたことを言っていたが、もちろん「偶然に」バスに乗り合わせたゲーブルとコルベールが恋におちるという『或る夜の出来事』をめぐる「賭け」のシーンは、こう見てくれば、テーマ的に必然的なシーンであることは言うまでもないだろう。そして、彼女が賭けに勝利するこのシーンからなだれ込むように、あの奇跡のシーン――ノースコットの檻で「偶然に」息子と居合わせていた五人のうち一人の少年が、五年たってついに発見される――へと続いていくことになるのだ。

 だが、少年が生きて発見されたことだけが奇跡なのではない。とりわけ感動的なのは、彼が、息子「ウォルター・コリンズ」の名を、フルネームで覚えていたことである。

 かつて、ノースコットならぬスターリンの「檻=収容所」に偶然にも囚われ、収容所間を流動的に移動させられていた「囚人」たちも、名前を「交換」していたという。

 「しばしば北へのぼる日本人と、南へくだる日本人とが、おなじペレスールカ(注―中継収容所)で落ちあうことがある。お互いに日本人であるというだけで、別に顔見知りでもなんでもない場合がほとんどですが、たとえば北へ行く日本人は、南へ行く日本人に自分の名前をおしえて別れるわけです。(中略)そのようにして、言いつぎ語りつがれた姓名が、いつの日かは日本の岸辺へたどりつくことがあるかもしれない。その時には、自分はもうこの世にはいないかもしれないけれど、せめて自分の姓名がとどくことによって、その時までは自分が生きていたという確証はのこる」(石原吉郎「詩と信仰と断念と」)

 「生きていたという確証」が込められた息子の姓名(=生命)は、語りつがれて母に届いた。ラストで彼女は、晴れがましく顔を上げ、言うだろう。「これで、確かなものをつかみました」「希望です」――。

 「偶然性=賭け」にさらされた収容所時代における困難な、だが確かな「希望」。収容所のことを考えてきた自分は、イーストウッドと同じことを考えていた!などと、勝手に「希望」を感じ取りつつ、街中に消えゆくアンジェリーナ・ジョリーの後ろ姿を、見えなくなるまでいつまでも見ていた。

中島一夫