母なる証明(ポン・ジュノ)

 圧巻である。間違いなく、今年の3本に入るだろう。

 中年の女性(キム・ヘジャ)が、重く疲れきった足取りで枯れ野をさまよい歩いている。タンゴ調の挿入歌とともに、やおら体を揺らしながら踊り出す。だが、ダンスというには表情はどこか悲しげだ。踊りながら、時折手で顔をぬぐっては目を覆うような仕草はいったいなんだろう。一気に引き込まれる冒頭だ。女優の顔の強さと存在感に圧倒され、「なぜこの女は、こんな場所で踊っているのか」という素朴な疑問も、いつのまにか押し込められてしまう。

 知的障害をもつ息子のトジュン(ウォンビン)が、ある日、女子高生殺人事件の容疑者となるところからドラマは展開する。「一心同体」のような息子を全力で守ってきた母は、「虫も殺せない」息子が犯人のはずはないと信じて疑わない。警察のずさんな捜査に居ても立ってもいられず、彼女は自らの手で真犯人を見つけ出そうと捜索に乗り出していく――。

 これでもかと張り巡らされた伏線は、やややり過ぎの感がなくもないし、何より知的障害の息子と母の愛という設定はどう見ても安易だが、それを考慮に入れてもなお、端的に映画として見せてしまう。何度もひっくり返される捜査劇も、最後まで飽きさせることがない。

 村の殺人事件を捜査していく中で、「徴(しるし)付き」の知的障害者が容疑者にされていくストーリーは、傑作『殺人の追憶』を彷彿とさせる。いや、前作『グエムル―漢江の怪物』も含めて、監督ポン・ジュノのテーマは一貫していると言うべきだろう。それは、市民社会の「穴=空洞」というテーマにほかならない。『殺人の追憶』にも『グエムル』にも共通する感覚――社会には潜在的に不安や危機が宿っており、あるときそれは、猟奇的な惨殺事件や棲息する怪物の暴走として恐慌のごとく一挙に顕在化する――が通底している。そうした不安や危機は、普段は誰も注目しない、そしてその先が見通せない「穴」(用水路、トンネル、下水管…)から噴き出してくるのだ。

 今作において、それは、母が生計をたてるために打つハリの「穴」として表れる。母のハリはヤミ商売であり、そもそも普段は社会的に隠されている。だが、彼女は、太もものツボにハリを打つことで、思い出したくない過去や心のしこりを「穴」から噴出させ、患者を解放する技術を持っている。

 今作が今までと異なるのは、その母によって「穴」が塞がれることだ。『殺人の追憶』同様、今作の舞台においても、誰もが犯人であり得るがゆえに「誰も信じられない」ほど社会は(民主化の果てに)フラット化しており、したがって警察は無能化している。もはや、真犯人をつきとめるのは、警察的な「知」でも、それと相補的な村のゴロツキの「知恵」でもなく、母のあくなき「執念」ともいうべきものでしかない。ついに自らの手で意外な真犯人をつきとめた母は、だがその代償として思わぬ形で殺人を犯さねばならなくなるだろう。

 何度も何度も殴打した頭(の陥没した「穴」)からあふれ出る血を、我に返った母が必死に拭い去ろうとするシーンが、あまりに絶望的で胸を打つ。むろん、トジュンの小便や、テジンのペットボトルの水がその伏線になっていたのだ。母はずっと、「穴」から漏れ出る「もの」の後始末をしてきたのである。「どうすればいいの!……お母さん」。

 疲れて眠りこけ、目を開けるとそこはあの枯れ野だ。ここで観客は、一挙に冒頭のシーンの意味を知り、得も言われぬ感動が背中を駆け抜けるが、本当に卓抜なのは、映画がここで調和的に終わらないことだろう。その後の見事な展開について、ここで述べるのはやはり野暮である。それについては、ぜひ劇場で味わってほしい。特に、逆光のバスの中、すべてに決着をつけた母が享楽的に踊り狂うラストシーンは必見である。一緒に見に行った妻は、ふとピカソの『アヴィニヨンの娘たち』を思い出したと洩らしていた。確かにその躍動するイメージは、言葉も出ないほど美しい。

中島一夫