私は猫ストーカー(鈴木卓爾)

 NHKの「中学生日記」や、上映中の『のんちゃんのり弁』などの脚本が評判の鈴木卓爾、その監督長篇デビュー作である。カメラがたむらまさき、音響設計が菊池信之、音楽が蓮実重臣といった面々がスタッフとして結集している。

 劇的なものは何もない。自称「猫ストーカー」のハル(星野真理)が、いわゆる「谷根千」(谷中、根津、千駄木)界隈の路地裏を這いまわるように野良猫を追っかけては、接近し、語りかけ、戯れて、――をただひたすら繰り返す。

 イラストレーターのハルは、その日猫に遭遇したポイントを、イラストタッチで地図として作成していくのが日課であり、唯一の楽しみだ。そのためなら、猫に遭遇しやすい早朝に起き出して活動することも厭わない。ハルの地図は、いつ猫に出会うとも出会わないとも分からない「偶然性」と、決して一ヶ所に止まってはいない猫の「移動性」を書きとめた、日々変化する自分だけの地図だ。猫の目線で低く構えられたカメラは、時々俊敏に移動する猫をとらえようと激しく手ブレし、猫とハルしか目にすることのない路地の姿を映し出していく。

 それにしても、「ストーカー」は言い過ぎではないか。ハルの振舞いは、決して特定の「この」猫に執着するようなペット依存的なものでなく、「ストーカー」という言葉からは遠いように思える。「ストーカー」というなら、古本屋でバイトもしているハルにつきまとう、アメリカ文学好きの男にこそふさわしい。

 だが、それまでアメリカ文学の薀蓄を一方的にまくし立てる男に一貫して素っ気無かったハルが、突然目に涙を浮かべながら「実は私、猫ストーカーなんです」と告白する場面で、観客はおぼろげながら事態を理解する。ひょっとして、ハルは猫に耽溺するあまり、人間に興味を失ってしまっているのでないか。「ストーカー」と聞くと、ついその粘着質な側面ばかりに気をとられるが、何かに執着することは、それ以外の何かが見えなくなることでもあろう。

 ある日、飼い猫「チビトム」がいなくなったことにショックを受けた古本屋の奥さんが、主人との心のすれ違いも重なって失踪してしまう。猫がいなくなってもさほどではなかった主人やバイトの同僚「真由子」は、だが奥さんがいなくなるや動揺し、慌しく捜索を開始する。真由子は、チビトムの捜索用チラシを電柱ごとに貼っていくが、あくまでそれは「チビトムが戻れば奥さんも戻ってくる」からだ。一方、ハルの関心は、チビトムにしか向かわない。その晩、ハルが一人蒲団の中で涙するのは、チビトムがいなくなってしまったからではなく、そんな自分の「欠陥」に気付いてしまったからではないか。

 夫婦が元通りになった姿を、ハルと真由子が、首を傾げて遠目にのぞきこむロングショットがとりわけ印象的なのは、二人の表情があまりに対照的だからだ。「今日は飲みにいきましょう」とテンションの上がる真由子に対して、ハルの表情はどこまでも曖昧なままだ。

 決定的なのは、ハルと元カレが電話をするシーンだろう。かつて、ハルと同居していたらしい彼は、現在は実家に戻ってりんごを栽培している。したがって、今はこの部屋にいるはずもない彼が、だがカメラを回すと部屋の片隅に座り、ほかならぬハルと電話で話しているではないか。近く別の女性と結婚するという彼に、ハルは「おめでとう」というほかない。だが、彼の心が離れてしまった原因の一端は、ハルの心が完全に猫の方に向かってしまっていたからではないか。二人の交わす会話の微妙なニュアンスからも、そう勘ぐらずにはいられない。

 この、同じ部屋にいるかのようなあり得ないショットは、しかし決して二人の目線は交差せず、かえって二人の心の距離が絶望的なまでに遠くなってしまったことを感じさせるに十分な効果を生んでいる。

 だが、ハルを「寂しい人間」だと見るのは間違いだろう。ハルが名前もない野良猫に関心をもつのは、裏を返せば、「この」猫や「この」人にこだわることが、結局は「所有」でしかないことへの違和でもあろうからだ。もっともっと、偶然に無名のまま出会いたい――。チビトムは「チビトム」でなくなったときに、ようやく自分自身を手に入れたに違いない。

 「私を追いかけても何もありませんよ」。ストーカー男にそう言い放つハルの言葉は、単に男を諦めさせるためだけの儀礼的なものではない。「猫ストーカー」は、「ストーカー」的な所有関係を、きっぱりと拒絶するのである。

中島一夫