グラン・トリノ(クリント・イーストウッド) その1

 まったく無駄のないフィルム! セリフも、カットも、シーンも、音楽も……余計なものが一切ない。映画はスピーディーに小気味よくトントンと進み、ラストまでまったく飽きさせない。にもかかわらず、作品そのものが訴えてくるのは、今や不要となった「余計なものたち」なのだ。

 移民が入ってくるせいで、ほとんどの白人が逃げ出した街に居座る男を描く。見ていて、ジジェクが、旧ユーゴで互いに排他的な諸民族を近づけたのは、むしろ眉をひそめるような差別的な冗談の交換だといっていたことを思い出した(ジジェク自身にも、互いの母と妹をはずかしめるような掛け合いで、アルバニア兵と親しくなった経験があったという)。

 イーストウッド演じる老いた男、コワルスキーと、モン族一家を近づけていくのは、決してお互いに対する礼節や理解などではない。それは、イーストウッドが遠慮無く、また矢継ぎ早に繰り出す差別発言と、それに打てば響くように返すスーとの見事な掛け合いなのだ。その応酬は、一見粗暴に見えて、実はきめの細かい技術を要する。それらがただ粗暴なだけの差別なら、暴力にしかつながらないだろう。

 スーの弟タオは、最初まったくそうした会話の技術をもたず、コワルスキーに「トロ助」とののしられ続けるが、やがて彼の教えでその知恵を身につけていく。グラン・トリノが置かれた車庫に並べられた膨大な数の工具は、ずっとフォードの機械工だった男の勲章だが、それは異物(“他者”という言い方は、この映画にとってはいかにもきれいごとだ)と共存しようとすれば、必ず生じるきしみや故障、そして暴発的な事故の可能性を、何とか修理、調整しようとする技術(コワルスキーがタオの家の水道を直してやったように)でもあったのではないか。

 すべてを買い揃えるのに「50年以上」を要したという工具は、その種の技術を身につけてきた歴史の蓄積を物語っている。なじみの床屋では「イカレたイタ公」「ポーランド野郎」とやりあい、建設現場のボスには挨拶がわりに「アイルランド野郎」――。タオが、そのような“工具”を継承し使いこなすようになるのには、いったいあとどのぐらいの時が必要なのだろう。

 こうした技術は、しかしPC(政治的正しさ)全開のクリーンな社会では、すでに不要となった「余計なもの」と化している。すると、それを継承させようとするコワルスキーもまた……。

 でも、今さらながらブログでも始めようか、などと思ってしまったのは、きっと時代にとり残されたこの男のせいなのだろう。

 『グラン・トリノ』については、また書きたいと思う。

中島一夫