グラン・トリノ(クリント・イーストウッド) その2

 この作品において、“グラン・トリノ”とはいったい何なのだろう。

 見逃せないのは、コワルスキー(イーストウッド)が、自慢のヴィンテージカー“グラン・トリノ”を乗りまわすようなシーンが一度もないことだ。まるで、それはタオに継承されるためだけに存在し、車庫の中でその日を静かに待っているかのようだ。

 実際、“グラン・トリノ”は、ここでは異民族どうしをつなぐためにあるのではないか。
 ジジェクは、自分とアルバニア兵との間で、例の猥雑なやりとりが可能になったのは(「その1」を参照)、お互いに下級兵士であるという点で、あらかじめ「同等性」が想定されていたからだ、といっていた。

 同様に、コワルスキーとモン族の交流が可能になったのは、モン族のチンピラたちが、ほかならぬグラン・トリノを盗み出そうとしたからにほかならない。異民族の若者も、またグラン・トリノを欲望していること。この欲望の共有が、彼らの間に「同等性」をもたらす。チンピラたちが、グラン・トリノを盗むことで、タオの度胸をテストしたことを知ったコワルスキーが、怒りながらも浮かべる、あの何ともいえない満足げな表情! その出来事がなければ、己の庭の芝を丹念に刈り続け、異物の侵入を阻んできたコワルスキーが、タオの頭を刈ってやるにいたるまでモン族と交流を深めることなどあり得なかっただろう。

 この作品を、やれコワルスキーが「父」になったとか、「キリスト」になったとか、ことさらに物語の「垂直性」を強調してしまうことは、異民族間の交流というこの「水平性」を見失ってしまうことにもなりかねない(次回作が、ネルソン・マンデラの映画だということを考えあわせても)。ラストで、水平に滑るように海岸線を走り去るグラン・トリノは、まるで「主役は自分だ」とでも言いたげではないか!

中島一夫