ある過去の行方(アスガー・ファルハディ)

 今、最も新作を心待ちにしている映像作家のひとりだ。そして、その期待をまったく裏切らない出来栄えである。ますます緻密になった脚本には、凄みすら覚える。

 この監督の作品に「で、結局、どういうことだったの?」と問うてはならない。謎解きではないのだ。かといって、もちろん否定神学や黙説法ではない。答えを見渡せるような超越的なポジションがどこにも存在しないこと。これが、ファルハディの世界である。それは、世俗化してやまないイランやイスラーム世界と無縁でないだろう。

 『彼女が消えた浜辺』では、イスラームが西洋=世俗化の波に、刻一刻と浸食されていく「浜辺」で「彼女が消えた」。続く『別離』では、イラン=イスラームを出て西洋社会で暮らしたいと願っている妻と、いや残って父の介護をすべきだと主張する夫との間で「別離」が起こった。

 そして今作では、イランに帰っていた夫が、離婚手続きのためにパリに戻ったところからドラマが始まる。イランから西洋へ、イスラームから世俗へ。この監督が、少しずつ重心移動しながらも、一貫したテーマを追っていることは明らかだ。

 今回、それが最も明確になるのが、パリの家で夫のアーマドが、三人の子供たちと食事をするシーンだろう。アーマドは、一番年下の子供のファッドに、イラン女性の純粋さを説き、将来一緒になることを勧める。ファッドは、妻のマリーが不倫をしている恋人サミールの連れ子で、そのサミールの妻は現在植物状態で入院中という設定だ。

 すなわち、アーマドがファッドに純粋なイラン女性の話をするのは、妻のマリーと恋人サミールが、いかに不純でふしだらな行為を行っているかを、暗に批判しているのと等しい。それは同時に、とうとう最後まで語られずじまいだった、彼がイランに戻った理由を示唆してもいるだろう。

 しかもこのシーンは、ファッドが床にペンキをひっくり返してマリーに大目玉を食らい、結局アーマドが後始末をするはめになったシーンの後にくる。すると、アーマドは、あたかもファッドの「汚れ」を落とそうとするかのように、純粋なイラン女性の話をすることになる。

 さらに言えば、このペンキは、冒頭から強調されるマリーの手首に包帯をもたらしたものである。いったい、マリーに腱鞘炎になるほど、ペンキを塗りたくらせたものは何だったのか。

 汚れ=染みを拭い去ろうとすること。このことが、登場人物たちを衝き動かしている。中でも、サミールがクリーニング屋の店主であり、彼の妻が植物状態になってしまった原因が、客の服についてしまった汚れ=染みである事態は、その最も大きなものだろう。

 この染みこそが、サミールとマリーの不倫関係にも、また別居しながらも形式的に継続していたアーマドとマリーの結婚生活にも、決定的な事態をもたらすことになるのだが、これ以上追うのはやめておこう。といっても、ここまで見てきたような展開は、作品全体に張り巡らされた因果の鎖と、執拗に突き詰められた人間関係の描写の、ほんの一部にすぎないのだが。

 振り返れば、アーマドは、離婚手続きを完了させることで、マリーとサミールがともに過去の染みから解放され、お互いの子供とともに新生活を始められるよう、イランから呼び戻されたのだった。だが、その後アーマドとマリーの思惑がすれ違うことは、すでに冒頭の空港の到着ロビーのシーンに明らかだ。言うまでもなく、マリーを不倫に走らせた「染み」に、アーマド自身が無関係ではあり得ないからである。

 思えば、娘のリュシーはアーマドに「ママがサミールを好きになったのは、あなたに似ているからよ」と言っていた。アーマドは、染みのない純粋なイランに戻りたがっており、西洋の側のマリーもまた、同じものを諦めきれずにいるのだが、染みのない世界自体が染みによって、つまりは世俗化した世界によって見出される以上、『別離』の登場人物たち同様、すでに出口はないのだ。

 言い換えれば、今作の原題『THE PAST』とはあくまで西洋的な時間であり、先進国(未来)―後進国(過去)として序列化されたうえで、後者が憧憬的に見出される事態である。すなわち、「過去」自体がすでに染みなのだ。

中島一夫