ソーシャル・ネットワーク(デビッド・フィンチャー) その1

 冒頭にすべてがつめこまれているような映画だ。

 最大のソーシャルネットワーキングサービス(SNS)、Facebookを立ち上げていく、その前夜にあるハーバード大学の学生マーク・ザッカーバーグと恋人のエリカ。二人の語らいは、だがとても恋人どうしのそれには見えない。

 相手を追い詰めるような矢継ぎ早の質問責め、考える猶予を与えない高速の応答、話題を変えることを許さない会話のコントロール…。己の全能感からか、ザッカーバーグは彼女への差別心を隠さない。「君はボストン大学なんだから、勉強なんかしたってしょうがないじゃないか」。その一言は、彼女に愛想をつかせるのに十分だった。「あなたは自分がオタクだからモテないと思っているみたいだけど、そうじゃないないわ。性格がサイテーだからよ」。

 まさか、こうして彼女に振られた腹いせが、Facebookを作り上げていく動機になっていたとは!(ずいぶんフィクションの部分もあるようだが…)。このザッカーバーグ人間性の部分――全能感や支配欲、差別性など――が、Facebookのアイデアにそのまま反映されているところが面白い。何とまあ、SNSとは、動機やそのあり様まで人間的なものなのか。

 ストーリーを追っても仕方がない映画なので、ここでは作品を構造的に支える二つの超越性についてだけ触れよう。一つは、よく指摘されることだが、Facebookの拡大・浸透の背景にあるハーバード大学エリーティズムである。

 当初、Facebookは、ハーバードの各種社交クラブにもともと存在したフラタニティを基盤に広がった。加入者は、ハーバードにメールアドレスがあり、かつ登録も実名で行わなければならない。そこには何重にもわたって排除と選別(Facebookの前身になったのは、腹いせからザッカーバーグが作った、全ハーバードの女子から無作為に抽出された二人の女子のどちらを選ぶ?という「排除と選別」のゲーム的なサイトだった)が働いていて、したがってそこに参加できるだけで、ある種の特権性と優越感を味わえるわけだ。

 Facebookは、こうしてハーバードで出来あがったネットワークを、まず伝統校であるアイビーリーグ加盟校に広げ、さらに近郊の有名校、ややレベルが落ちる他大学、そして高校へと、徐々にその対象を下ろしていった。「ハーバードのエリートたちとつながっている」「つながれる可能性がある」…。

 こうしたハーバードのエリーティズムを基盤にした上昇志向願望が、Facebookの爆発的拡大につながった。すなわち、横へ横へというネットワーク自体が、縦=上下の階層性に基づいているのだ(基本的には、「有名人とつながれる」というツイッターも同様だろう)。

 実際、Facebookが広がるにつれ、大学に行ける層とそこからはじめから排除されている貧困層が完全に分断されていき、後者は主としてMy Spaceに加入しているという。両者の分断は、ことアメリカの場合、大学卒業後に入隊して士官になっていく兵士と、そのまま前線で戦わなければならない一般兵士という分断にそのままつながることになる。すなわち、ソーシャルネットワークとは、「横につながれる」という「幻想」を振りまきながら、その実、実際にある社会的階層を転覆するどころか、それを強化し拡大再生産さえするものなのだ。

 もう一つの超越性については、次回。

中島一夫