ソーシャル・ネットワーク(デビッド・フィンチャー) その2

 もう一つの超越性は、作品全体を支えている裁判である。ザッカーバーグをめぐる二つの訴訟が、この作品全体の枠組を与えているといってよい。映画では、Facebookの展開と、のしあがっていくザッカーバーグの姿が描かれながら、たびたびこの裁判シーンに戻ってくる。それによって、ともすると淡白かつ散漫になりそうな物語(何せネットワークが主役なので、表面的には「劇的」なことは起こり得ない)に、核となるリズムが与えられるのだ。

 興味深いのは、あのサイバー法の権威たる憲法学者ローレンス・レッシグが、(彼の主張からすれば当然だが)この裁判シーンにかみついていることだ。(http://hotakasugi-jp.com/2011/01/14/lessig-social-network-review/

 二つの訴訟は、ハーバードの学生たちがザッカーバーグにアイデアを盗まれたというものと、Facebookの初代CFOだったザッカーバーグのパートナーが、シリコンバレーベンチャーキャピタリストらによって出しぬかれたというものだ(後者には、ナップスターの開発者ショーン・パーカーが深く関わっている)。要は、ザッカーバーグ(ら)にだまされたという訴えだ。

 だが、レッシグは、何らザッカーバーグは違法行為を行ってない、にもかかわらず、彼が映画の中で6500万ドルの支払いを命じられていることは、「恐怖すら感じるほどの法システムの乱用だ」と述べる。そして、何より重要なのは、ザッカーバーグが行ったことが「発明」ではないということであり、映画の脚本を担当したソーキンは、そのことを全く理解していないのだ、と。

 ザッカーバーグはそのプラットフォームを発明していない。彼はそれを組み立てるハッカーであり、彼は賞賛を受けるべきだが、それと同じくらい賞賛されるべきこの物語の真のヒーローはクレジットすらされていない。

 すなわち、ザッカーバーグが構築したのは、自由でオープンに設計されているインターネットのプラットフォームというアーキテクチャーの上に生成された、サービスやアプリケーションのワン・オブ・ゼムにすぎない。真に「発明」と呼ぶにふさわしいのは、プラットフォームというインフラの方であり、それこそが「コモンズ」(レッシグ)なのだ。したがって、レッシグから見れば、その「コモンズ」の上に自然成長的に発生するアイデアイノベーションを、古い世界の既得権益者の価値観に即した「法」で縛るなどということは、人間の進化に対する冒涜であり、最も反動的な行為だということになる。

 ザッカーバーグの行為が革命的に見えるとしたら、それまでの起業家が強いられていた膨大な労力と時間――事前に各方面の業者や店舗の「認可」を得るための――から自らを、また自分の予備軍たちを解放したからだ。6年間で5億人のユーザーを獲得するのに、誰の許可も認可も必要としなかったこと。それこそが革命的なのであり、それを可能にしたのが、インターネットのプラットフォームという「コモンズ」である。これを「法」で縛るということは、再び我々を、許可と認可の、そして既得権益がはびこる旧世界へ連れ戻すことにほかならないのだ、と。

 このように見てくると、一見、レッシグのいう「コモンズ」と「法」とは対立しているように見える。確かに「法」とは「ブルジョア法」にほかならず、「コモンズ」には共有材を重視するコミュニズム的な発想がないではない。だが、本当にそうなのか。スラヴォイ・ジジェクは、レッシグ同様「コモンズ」を主張するネグリを批判して、次のように言う。

 ネグリ的見解では、今日のグローバルな双方向メディアにおける独創的な発明はもはや個人のものではなく、直接に集団化され「コモンズ」の一部となっているので、著作権を主張してその発明を私有化しようとすると問題が生じる。「所有とは盗みである」という言葉は、ここに来ていよいよ文字どおりの意味になってきているのだ。
 では、まさにこうしたこと――認知労働に携わる創造力あふれる特異な能力集団を組織して、その協働成果から搾取すること――をしているマイクロソフトのような企業はどうなのだろうか。(中略)なぜ多くの人が、いまだにこの会社の製品を買っているのか? それはマイクロソフト社がほぼ世界標準化し(事実上)業界を独占して、ある意味、自身を「一般知性」化できたからだ。ゲイツがここ数十年の地球で一番の大金持ちになれたわけは、首尾よく私有化し、いまも手にしている「一般知性」の特殊形態に、何百万人という知的労働者を参加させて得たレント(超過利潤)をくすねてきたからである。(『ポストモダン共産主義』)

 ザッカーバーグが、ビル・ゲイツに続く「一般知性」のヒーローと捉えられていることは今さら指摘するまでもない。この映画でも、ハーバードにゲストとしてやって来たゲイツの講演を、「明日のゲイツ」にあるザッカーバーグが聴くシーンがある(一緒に聴いていた仲間が、講演者をゲイツだと知らないまま講演を聴いていたという笑えるシーンがあるが、まさにゲイツが固有名=私有を廃した「一般知性」と化しているとも受け取れて、なかなか面白いシーンだ)。また、先日ザッカーバーグは、財産の半額をゲイツのチャリティーに寄付したばかりでもある。

 ネグリは「共有材の重要さを資本に気づかせる必要がある」(『未来派左翼』)という。この言葉は、もはや活動家のそれではない。資本を「廃する」ではなく「気づかせる」と言っている以上、あくまでネグリの主張は、資本主義の内側にとどまったままだからだ。

 同じように、レッシグは、要するにこの映画が「法」に、「コモンズ」の重要さを「気づかせる」べきだったといっているのである。したがって、「法」と「コモンズ」の対立は見かけ上のものにすぎない。レッシグは、「法」がザッカーバーグに6500万ドルの支払い命令を下すことは「けしからん」と批判するが、むしろ問題は、6500万ドルという額など、「レント(超過利潤)をくすねてきた」ザッカーバーグには、痛くも痒くもないという事実ではないのか。

 ザッカーバーグのシステムなど「知らない!」と素っ気なく言い放っていたあのエリカが、ラストでFacebookに登録していたことをザッカーバーグは知り、愕然とする。そして、「友達になる」を、何度もクリックしながら何ともいえない虚脱感を覚えるのだ。

 ここには、ハイネケンのビンを、割れることなどおかまいなしに、客や仲間にポンポン放って寄こしていた、あのぶっきらぼうザッカーバーグの姿はすでにない。だが、彼は、一番手に入れたかったものだけが手に入らなかった、という感傷にひたっているのではない。むしろ彼は、このとき、彼女を真の意味で「所有」してしまったのである。

中島一夫