アルゴ(ベン・アフレック)

 イランのアメリカ大使館の外に、人々が大挙押し寄せる。当初、大使館員らは、窓の外の光景を見やりつつ、「やけに今日は騒がしいな」といぶかしがる程度だったが、一人二人と門を乗り越え、大使館内に侵入してくるとにわかに事態が激変する。あっという間に堰を切ったように、人々は雪崩を打ち始めたのだ。

 慌てふためいてオフィス内の資料を燃やし始め、シュレッダーをかけまくり、警備隊の出動を要請するものの、一度点火した革命の火を消すことは出来ない。「まさか、イラン革命が、あんなふうに起ころうとは」。

 このおののきは、1979年のイラン・イスラム革命勃発当時、おそらく全てのアメリカ人が共有していたものだろう。中東に傀儡を置こうと、自ら担ぎあげたパーレビー国王政権が腐敗の果てに覆される。ベトナム戦以降、低下の一途をたどっていたアメリカの覇権失墜と、現在につながるイスラム原理主義の台頭が決定的になった出来事であった。

 『アルゴ』は、このアメリカの失墜とイスラム原理主義の台頭を否認し、アメリカの威信を想像的に回復しようと目論んだ、偽史的な試みである。その史実との食い違いは、すでに至る所で指摘されている。

 例えば、昨年9月にトロント国際映画祭において、この作品が、いかにアンフェアにCIAを美化し、カナダ、とりわけアメリカ大使館員6人をかくまったテイラー・カナダ大使の果たした役割を矮小化しているかという指摘が、批評家から口々になされた。

 あるいは、6人の大使館員は、実際には一度も差し迫った危険には晒されなかった、あの一触即発だったバザールにも行かなかった、出発ゲートでのセキリュティとの冷や冷やのやり取りも、滑走路のデッドヒートもなかった、クレーンでの絞首刑映像はイランのものではなかった、そもそもベン・アフレック演じるCIAの「メンデス」はメキシコ系だった……。

 革命防衛隊を欺き、革命に沸く街をかいくぐって、6人をイランから脱出させるために、偽SF映画「アルゴ」の制作をぶち上げ、彼らを映画スタッフに仕立て上げる。このCIAによる無謀な偽映画救出作戦を追った、この『アルゴ』という作品自体が、だがそういうわけでかなり史実に反する偽映画なのだ。入れ子構造の偽映画?

 本作は「実話に基づいた」とされ、アフレック自身も「There’s a spirit of truth」と述べている(『MACLEANS.CA』)。spiritを「精神」ととるか「気分」「調子」ととるかでずいぶんニュアンスが変わってくる、何とも微妙な言葉だ。

 あるいは、spiritを「アルコール」ととれば、まさに機内でアルコールが解禁になった時点で、イラン圏外への脱出が確定的になり全員が歓喜に湧くという、作品のハイライトシーンに引っかけた巧妙な言葉ともとれよう。truthはアルコール禁止のイラン圏内にあるが、そこにspiritが入ってこそアメリカ映画ではないか、というわけだ。

 いずれにせよ、随所にニュース映像が使用されるなど、ことあるごとに「事実」に依拠する素振りを見せる今作において、どこまでがフィクション(偽)として許容されるべきかという議論は、今後も避けられないだろう。

 だが、別の角度から見るとどうか。
 先に述べたように、この作品は、冒頭近くの予期せぬ革命の勃発シーンが妙にリアルなのだ。すると、それ以降の救出作戦の美化は、いかに革命を否認するかという欲望の表れと捉えられるべきではないか。

 遅ればせながらこの作品を見たのは、ちょうどアルジェリア事件が連日報道されていたさなかだった。そして、例の6人以外の大使館員は、まさにそのアルジェリアの仲介と協力によって帰国したのだった。すると、当時は協力的だったアルジェリアが、現在はもはやそのような場所ではなくなってしまったこと、こうした事態への変容そのものに対する否認すら、この作品(の背後)に見ることも可能だろう。

 ドゥルーズではないが、今や現実が悪しきハリウッド映画のようになってしまったということか。ならば、アフレック扮するCIAの「メンデス」が、救出作戦のために提出された多くのシナリオの中から、最も馬鹿馬鹿しく、現実離れした「アルゴ」のシナリオをあえて選ばねばならなかったところに、むしろこの作品のリアリティがあるとはいえないだろうか。

 シナリオを一読した周囲の者全員が、「あり得なさ過ぎる。絶対にバレる」と二の足を踏んだ偽映画「アルゴ」。だが、メンデスは一人強硬に反対し、こう主張する。「だからこそバレないはずだ!」。

 今や「偽」の累乗の中にしか、「真実」はないのだ。

中島一夫