NN−891102(柴田剛)

 長崎の原爆で被爆した主人公「零一」は、以後、そのときに体感した爆音にとりつかれて生きることになる。

 作品のプログラムには、「ここには悲惨な「被爆者」の姿もなければ具体的な「戦争」という歴史がのしかかるわけでもない」とある。先日のトークでも(3/4の記事参照)、監督は「自分も自分の周囲にも被爆者がいるわけではない」ものの、「映画では何でもできる」「何をやってもよい」と作品のフィクション性を強調していた。それはその通りなのだが、と同時に、そのように捉えてしまえば、この作品の力は半減だろう。むしろこれは、原爆の具体性と歴史性を捉えた「戦争映画」なのだというべきではないか。

 フロイトは、第一次大戦後に膨大に現われた、繰り返し悪夢を見る戦争神経症患者を通して、「快感原則の彼岸」たる「死の欲動」を発見、そこにこそ「戦争」を見た。同様に、自分の体に爆薬を巻きマイクを付け自爆するという、「零一」の反復的な異常な自己破壊のうちにこそ「戦争」がある。

 いくら「疎開していた」と言って被爆を隠そうとしても、また原爆投下時に偶然零一が回していたオープンリールには「何も音が入っていなかった」としても、零一の身体自体が、オープンリールのごとく爆音を刻み込んでしまっている。

 この原爆のトラウマによる「死の欲動」に衝き動かされる身体そのものを描いたという点で、これはある意味で、たとえば『黒い雨』や『博士の異常な愛情』よりも原爆映画たり得ているといえる。また、戦闘シーンや戦地を克明に映した戦争映画よりも「戦争」を描いている。あるいは、記憶の新しいところでも、たとえば『キャタピラー』などよりも身体のおぞましさが描かれているのだ。『キャタピラー』の「芋虫」にはまだ旺盛な性欲が残っていたが、この『NN』の身体にあるのは、もはや欲望=生ではなく欲動=死でしかない。

 自己破壊もリミットに達した零一は、後半、「爆音の粒子になりたい」という死に至る目的をも見失い、心音を聞く研究へと向かう。文字通り「振り子が振れる」ように、死から生へと転じるのだ。これを機に、大学における研究成功から「中央研究所」への引き抜き、さらには環境庁配属へと、とんとん拍子に出世していく。

 重要なのは、テロップにもあるように、1971年に発足される環境庁とは、政府の公害問題対策として始まったことだ。1968年に水俣病公害病として認定したのを皮切りに、政府は、それまで放置してきた公害問題に取り組まざるを得なくなっていた。マイク片手に路上に立つ、どうやら騒音担当の零一は、このとき、高度経済成長とともに巧妙に重心移動していく国家に、決定的に吸収されたのだ。

 すなわち、ここでは「68年」以来グローバルに進行するエコロジー問題が、「45年」の一国的な原爆問題を回収する装置として働いている。この作品は、原爆被害者から公害の加害者(に加担する官僚)へと転じていく零一を通して戦後史を見ることで、そこに潜む欺瞞を暴きだしている。しかもそれを政治的、社会問題的にではなく、死の音から生の音へという、零一の身体の無意識を通じて行っているところに、この作品の稀有な試みがあるのだ。

 大評判の新作『堀川中立売』と並行して撮られたという、ひたすらマイクで音を拾っていく集団を追ったロードムービー『ギ・あいうえおス』を合わせてみても、この監督が音にこだわっているのは明らかだ。だが、こうして見てくればこれまた明らかなように、それは単なる音へのこだわりではあり得ない。

 なるほど、「音楽のように映画をつくる」ぐらいのことは、この監督なら言うだろう。だが、この監督ほど音を恐れ音を憎んでいる者も、実はいないのではないか。いや、音を恐れ憎むという形で、音にとり憑かれているというべきか。

 『ギ・あいうえおス』の副題は、「ずばぬけたかえうた」という。あくまで元歌がある「かえうた」が「ずばぬけている」とは、逆説以外の何物でもない。言うまでもなく、それは『NN』の零一が、「元音」たる原爆の爆音を決して再現することができない、その不可能性と同じである。

 この監督の追う音は、「ノイズ」というのとも違う。それは、死の音、音の死…、再現=表象不可能な「音」である。新作『堀川中立売』も、それが「何と読むのかわからない」というところから出発したというこの監督は、むしろ不可能性に憑かれた映像作家なのだ。

中島一夫