リンカーン(スティーブン・スピルバーグ)

 このすこぶる評判の悪い新作で、スピルバーグは、いったい何を撮ろうとしたのだろうか。

 戦闘シーンはオープニングだけ、戦場が映るのも、馬上のリンカーンが死体の山の中を練り歩く黒澤明ばりのシーンのみで、明らかに南北戦争をテーマとする戦争映画ではない。

 では、輝かしい奴隷解放か。いや、この作品には、黒人奴隷の姿は一切登場しない。出てくるのは、すでに解放され身分を手に入れた黒人や、議会に招かれる活動家の黒人ばかりだ。作品は、一貫して、奴隷制度廃止を訴える合衆国憲法修正第13条をめぐっているにもかかわらず。

 では、アメリカで最も人気があり尊敬されてもいるという、この大統領のオーラやカリスマ性か。それにしては、ダニエル・デイ=ルイス演じる本作のリンカーンは、観客を魅了するにはあまりに疲れ過ぎている(実際、自らそう呟く)。おそらく、これを見たリンカーン好きは、がっかりしてすっかり萎えてしまうだろう。正直、スピルバーグ作品の中でも、これほど時間が長く感じられる作品も他にないのではないか。

 ひょっとして、今作のスピルバーグは、まさにこの時間の長さ、もっと言えば退屈さそのものを撮ろうとしたのではないか。

 是が非でも、黒人に自由と平等をもたらそうとする、共和党急進派の有力議員(トミー・リー・ジョーンズ)を、リンカーンが説得するシーンがある。「方位磁針は、北=正義のありかを示せても、そこに至る道の山や谷=障害物の地図を明らかにしてくれるわけではない」。

 正義を主張し続けるのは立派だが、問題はそれを実現するまでの長い長い試練の時間ではないか。「黒人が選挙権を持つのは千年後だ」というセリフは、黒人の解放は思っても平等までは考えていないという否定的な意味ではなく、世の中は漸進的にしか良くならないというポジティヴなセリフなのだ。

 なるほど、これは、大した戦闘シーンも演説シーンもないままに、憲法修正第13条を下院で可決するまでのプロセスを長々と描いた、退屈といえば退屈な議会映画だ。それは、ロビー活動あり、買収あり、天下りありといった、ちっとも心踊らない、日々嫌というほど目にしている政局報道そのものだ。

 だが、結局物事が動くのは、散文的な議会の多数派工作であり、また選挙だ。この、まったくロマンティックな何ものもかきたてられない、うんざりするような退屈なプロセスこそが、われわれの逃れがたい普遍性を形成しているということ。

 思えば、この作品におけるリンカーン=大統領は、終始「間接的な迂回」にとりつかれている。例えば、リンカーンといえば誰もが思い出す、例の「人民の人民による人民のための政治」という演説も、この作品ではついにリンカーンの口から直接述べられることはない。後ろ姿のリンカーンに、黒人兵がその文句を感動的に告げるばかりだ。

 修正案が可決したという知らせも、リンカーンは議場で直接目にするでも耳にするでもなく、そこから離れたホワイトハウスで、窓の外から聴こえる鐘の音によって間接的に知る。またその音さえも、風に舞うカーテンに包まれてしまったリンカーンの耳に、直接届いたとは言いがたい。

 可決した修正条文も、なぜかトミー・リー・ジョーンズの妻である黒人女性の口から読まれるし、ここではリンカーン暗殺の知らせすら、直接的にではなく、劇場の舞台上で台本が上演=再現されるように、きわめて媒介=間接的に家族の耳に届くのだ。

 そもそも、リンカーン自身、説得する相手やその場の心をつかむために、直接的なメッセージをぶつけたりはしない。あくまで、ユーモアを交えた間接的な「逸話=エピソード」で、迂回するように聞き手の中に入っていこうとするタイプなのだ。この作品で、リンカーンが披露する逸話は数知れない。その迫りくる危機に対する悠長な迂回ぶりは、「この戦局が切羽詰まったときに、そんな逸話はやめていただきたい!」と、周囲をうんざりさせるほどだ。

 言うまでもなく、この間接的な迂回は、民衆から選ばれる大統領選挙人が大統領を選ぶという、アメリカ大統領選の間接民主主義のあり様そのものである。そこでは、途方もなく長い時間かかって、幾重にもわたる間接的な迂回を経て、ついに大統領は民衆とつながることになっている。もちろん、そのことと、大統領に独裁的で強大な権力が宿ることとは矛盾しない。実際本作でも、時にリンカーンは、威丈高な独裁者そのものとして振舞う。

 だが、本作のウェイトは、その長さと退屈さの方にある。2時間半を通して、本作のリンカーン疲労困憊の果てに、すっかりオーラとカリスマ性を剥ぎ取られてしまうのだ。ラストの演説のシーンなど、画面の中のリンカーンの姿はあまりに小さ過ぎて、一瞬見失ってしまうほどであった。

中島一夫