ハウス・ジャック・ビルト(ラース・フォン・トリアー)

 2011年カンヌ映画祭の『メランコリア』上映後の記者会見で、トリアーは「ヒトラーにシンパシーを感じる」と発言し、カンヌから永久追放となった。まさに今作のエンディングよろしく、カンヌから「二度とやって来ないで!」と排除された。

 

 もちろんあの発言は、トリアーが、ずっと自分はユダヤ人だと思っていたところ、実はドイツ人の血を引いていたことが分かり、そこで「僕はナチスだ」と言ったという文脈があった。トリアーがずっと重度のうつ病に悩まされていた時期でもある。だが、初期の『ヨーロッパ』(1991年)からしナチス側の視点に立った作品だったのだから、これは「失言」というより「本音」に近かったのではないだろうか。

 

 後半、アラン・レネ『夜と霧』の一場面――ユダヤ人の大量の死骸がブルドーザーになぎ倒され一掃されていく、例のアウシュヴィッツの記録映像――が挿入される。あたかも、今作の主人公のシリアルキラー「ジャック」(マット・ディロン)が、ナチスの末裔であるかのように。「ミスターソフィスティケート(洗練)」と呼ばれるこのシリアルキラーは、国「家」に住みつく不快な「しみ」を除去し浄化しようとする、一個の潔癖症的な20世紀の精神ではないか。

 

 作中言われるように、この20世紀の精神は、その昔ギリシャ人たちがヒュブリス=過剰と呼んでいた狂気と通底している。フーコーを待つまでもなく、近代以降のヨーロッパ人の理性は、こうした過剰な狂気を、非理性として疎外、排除、監禁した。

 

 だが、それらは写真のネガのように、必ずポジの奥底や裏側に張り付いている。ネガとポジは、カントとサド、啓蒙の弁証法のようにいつでもひっくり返る。作中、アニメで繰り返される街灯と影のくだりは、ジャックの狂気とともに時代の狂気の比喩でもあろう。時代が街灯の下まで歩みを進めたとき、世界のどこかでシリアルキラーたちが突如覚醒する。排除されてきたことへの復讐のごとく。

 

 技師のジャックが、「自分の家」を建てようと建築家を夢見ているというのも示唆的だ。そもそも、20世紀の建築家にとって、自邸をデザインし建てるのは、最も重要なマニフェストだった。隣が誰だか分からず、したがってSOSを叫んでも助けの来ない集合住宅に、もぐらのように住んでいる住人たちを、次々と草を刈るように殺しては運び出していくジャックは、まるで「家」が「住むこと=建てること」から遠く離れて、「住むための器になってしまっている」(「ヘーベル―と家の友」)と嘆いたハイデガーを想起させる(ハイデガーナチスの親近性については言うまでもない)。ジャックは、家を建てることを忘れ、家は買うか借りるものだとしてもぐら化した現代の住人たちを、今度は「家」の素材にしてしまうことで国「家」を倒錯的にデザインしようとしたのではなかったか。人体を洗う石鹸の素材を、自ら殺した人体にしようとしたナチスのように。人間がモノと化しているなら、お望み通りモノとして再利用し機能させよう。ツェランが言ったように、花を人間にではなく、人間を花に捧げようとしたユダヤ絶滅収容所のように。

 

 ここで、ジャックが、グレン・グールドに憧れていることがにわかに興味深くなる。グレン・グールドがピアノを弾く姿をもぐらにたとえたのは浅田彰だったか。

 

異常に低い椅子に腰かけ、背を丸めて、ほとんど鼻の先で忙がしく指を動かす。それは、もぐらが土の中で穴を掘っているところにそっくりだ。そういえば、日のあたるステージから逃れ、人目に触れない奥まった録音スタジオにこもったところも、もぐらのようだと言えるだろう。とはいえ、そのもぐらの穴は、地上の喧騒をはなれ、自分自身と一対一になるための、閉ざされた避難者というだけではない。それは、ほんもののもぐらの穴が無数の隙間によって外と通じているのと同じように、エレクトロニクスのネットワークによって全世界と通じているのだ。グールドはかつてスタジオのことをもっとも「子宮的」な場所と呼んだことがあるけれども、それはいわば電子の子宮である。地上からそこへと身をひいたグールドは、自閉に陥るどころか、慣習的なコード――例えばコンサートという演劇的儀式を律するそれのような――から解き放たれた、より自由なコミュニケーションを行なえるようになる。穴にこもることがいっそう大きな運動性を獲得することでもあるという逆説。(『ヘルメスの音楽』)

 

 ジャックもまた、死体を押し込んでおく巨大な冷凍庫という「スタジオ」に身を引きながら、しかし「自閉に陥るどころか」中盤から持病の恐怖症からも「解き放たれた、より自由なコミュニケーション」ならぬ「殺人」を行うようになっていく。

 

 グールドの音楽が「垂直的」というより「水平的」と評されるように、本当はジャックの殺人の「家」も、何かそこに「地下室=深層=無意識」があるような垂直的な構造をもってはおらず、水平的に横へ横へと連続的に解離的にズレていくだけだったのではないか(死体の保管の仕方も行き当たりばったりに見える)。だからジャックは、なかなか「家」を建てられないのである。垂直的ではなく水平的にズレていく「家」とは、いわば「家」の自己否定のようなものだからだ。

 

 だから、惜しむらくは、本作があの冷凍庫の奥に「開かずの間」を設計してしまったことだろう。部屋がどこへと続くのかは触れずにおく。だが、お決まりの枠物語としてあの部屋を設えてしまうところに、トリアーの愛らしい人の良さが表れていることもまた確かだ。いつも思うのだが、だがそれは彼にとって、解放なのだろうか、それとも呪縛なのだろうか。

 

中島一夫