帝国主義の尖兵――文学・転向・擬制

 上記連載を、近々刊行の『子午線 原理・形態・批評』vol4にて開始します。初回は、中村光夫を論じました。

http://shoshi-shigosen.co.jp/books/shigosen4/

 中村光夫二葉亭四迷伝』の冒頭に、中村が、染井霊園の二葉亭の墓を訪れたエピソードがあります。中村が、二葉亭が命を終えた46歳になったとき、「この記念すべき命日に彼の墓に行こうという独合点の欲求のため」に訪れた、と。

 二葉亭や中村に準えるのもおこがましいですが、昨年私も「独合点の欲求のため」に、二葉亭の墓に行きました。今まで頭では理解していた、批評家中村光夫二葉亭四迷の墓に向かったわけが、今回身に染みて分かったような気がしたからです。そのわけについては、この連載の初回の中村論を読んでいただければと思います。気づけば、私自身も47歳になっていました。


 連載では、今や、なしくずしに見えなくなった、文学そのものの「転向」の問題を、主に文芸批評の言説を頼りに探っていきます。

 かつて、文芸批評とは、まずもって文学批判でした。したがって、それは必然的に「文学嫌い」の言説でしたが、今やそれは「文学好き」によるものと化したようです。
 その結果、いったい文学が何に隷属し、奉仕させられているのかが不問に付されることとなりました。おそらく、かつてはよく言われた、文学は「制度」であるという認識すら共有されなくなっているのではないでしょうか(この延長に「文学部廃止論」があり、したがって文学は、もはやこれに対抗する論理を持ちませんが、ここでは措きます)。
 
 今回の連載は、こうした文学の気の抜けた現状に、飽き飽きしている方にぜひ読んでいただきたいと思っています。そして、この連載を通して、そんな方々と結びつくような「ひとつの子午線」を「見つけ」たいと願っております。

 私たちが語りかける相手は、オイディプスとか去勢、そして死の欲動といったものが、とても単調で、わびしくて、鈍重すぎると思っているような人たちなのです。つまり異議をとなえるような無意識に語りかけるということですね。私たちは仲間を求めているのです。仲間がいなくては始まりませんからね。(ドゥルーズ『記号と事件』)

中島一夫