新宿ダンボール村 迫川尚子写真集1996―1998

新宿ダンボール村 迫川尚子写真集 1996-1998

新宿ダンボール村 迫川尚子写真集 1996-1998


 この写真家の第一作『日計り』は衝撃だった。
 そこに映し出された新宿の街は、1990年代のそれには見えなかった。迫川の新宿は、高度経済成長とともに均質に発展し続けた巨大都市のイメージを覆してみせた。まるで震災後の瓦礫のように、至るところでコンクリートは剥がれ、裂け目を見せている。迫川の見た新宿は、成長という「大きな物語」ではなく、むしろそのカケラ、残余で覆われていた。

 だが、同じ時期の新宿でも、ホームレスたちが集う西口の「ダンボール村」に照準を絞ったこの新作を見ると、その前作の新宿すら、まだポエジーの漂う牧歌的なものに見える。『日計り』と同じ写真が数枚重複しているにもかかわらずだ。ここには、前作にはなかった緊張感と切迫感が漲っており、正直戦慄を覚える。

 新宿西口地下ダンボール村は、1996年1月24日に誕生し、1998年2月7日に完全撤去された。だが、正確に言えば、それはすでに第二期のようだ(稲葉剛の挿入文「新宿ダンボール村の歴史」による)。バブル経済が崩壊した1991年末には、仕事からあぶれた日雇い労働者たちが、もうダンボールハウスを作り始めていたという。それとともに、新都庁のお膝元から彼らを排除しようとする東京都との「戦争」が開始されることとなる。

 ダンボール村の歴史とは、西口地下広場という公共圏をめぐる、行政や警察との戦争の歴史である。この迫川の第二写真集は、その戦争の記録なのだ。

 ダンボールハウスの住人たちの姿や生活の写真とともに、まるでそれらをかき消すかのように、一帯を取り締まり、彼らを排除し撤去しようとする警察官の群れや、それを報道するテレビ映像や新聞の紙面の写真が、交互に割り込んでくる。ここでは、写真と写真、頁と頁が戦争をしている。

 自分たちの窮状を訴えるビラ、ダンボールハウスに描かれたアート、マイクひとつで行きかう人々に演説するホームレスの姿。前作で発揮された、均質的な平滑空間の隙間や裂け目への視線は、さらに進んで今作では、その隙間こそが、現在の戦争の最前線であることを暴いてやまない。

 もちろん、迫川が戦場をカメラに収めることができたのは、来る日も来る日もダンボール村に通っては、その中に入り込んでいるからだ。真正面から至近距離でカメラを向けられたホームレスの人々の表情は、互いの心の距離感をも示している。

 いったい、この戦場は、どこへ続いているのか。
 それを告げる一枚の写真が、何気なく、だが写真集のほぼ真ん中に見られる。広場で配られていたという一枚のビラの写真だ。

 そこには、「福島第一原発」「シュラウド交換中」と明記されている。1990年代に入ると、日本の原発は次々と老朽化し、原子炉を覆うシュラウドは腐食割れを引き起こし、所々で亀裂が生じていた。そんななか、1997年、世界初のシュラウド交換工事が、福島第一原発で実施されたのだ。この写真は、そのシュラウド交換工事が、ダンボール村の攻防と同時期に行なわれていたという、抜き差しならない歴史性を明確に刻んでいる。

 むろん、交換工事の作業員らは、多量の放射線を浴びることになる。ビラに大書された「原発の仕事に行くな!殺される」は、だから決して大げさな主張ではない。数頁後には、露骨に「殺すな」と書かれたダンボールが、柱にガムテープで貼られた写真も見られる。

 これは、ベトナム反戦広告に見られた、岡本太郎による「殺すな」のロゴを思わせよう。だが、ベトナム戦とも、それが引用されたイラク戦とも異なるのは、まさに「殺される」当人が自らこの「反戦」を訴えていることだ。どうして戦慄を覚えずにいられよう。

 原発を動かすには、大量被曝を前提とした、だからこそフレキシブルに取り換えなければならない、そうしたホームレスをはじめとする日雇いの底辺労働者たちが大勢必要とされることは言うまでもない。手配師たちが、寄せ場をはじめホームレスの集まる場所から、彼らを日々かき集めてくるわけだ。だが仕事がない以上、原発に「行くな!」と言われた彼らに、いったい行かないという自由はあるのか。「二重に自由な労働者」(マルクス)の「自由」が、いったいどれほど残されているのだろうか。

 資本主義は、構造上、こうした交換可能な産業予備軍の労働者を、周辺に大量にプールするほかない。にもかかわらず、資本主義は、一たび彼らが公共圏を占有すれば、国家の暴力を借りて容赦なく排除しようとするだろう。原発問題とは、端的に資本主義の問題であり、ホームレス問題と直結している。迫川の撮影した新宿西口の戦場は、福島第一原発へとまっすぐにつながっているのだ。

中島一夫