TOCHKA(松村浩行)

 寒々しく無機質なコンクリート作りの戦争遺跡、トーチカ(防御陣地)。敵を狙い撃つための小窓から、カメラのファインダーを覗くように女が目を凝らすと、外には男がひとり寒空の下にたたずんでいた――。

 日本最東端のロシア国境の町、北海道根室。そこには連合国軍の上陸に備え、第二次大戦末期に作られたトーチカ群が、今なお朽ちたまま散在しているという。広大な冬枯れの荒野、曇天に押しすくめられた冷たい海、海岸線にそびえるトーチカ、そして男と女。場面設定といい登場人物といい、それらが極限まで切り詰められたことで、屋外ロケながら密室劇のような緊迫感が漂う。

 女は、友人から譲り受けたカメラに残された一枚の写真に導かれるようにこの地を訪れ、男は幼少の記憶をたどって再び生まれ故郷へと舞い戻った。そして今、このトーチカの内と外で偶然にも出会ったのである。

 男は、トーチカの外から、「他人には初めて話す」という自らの記憶を、中にいる女に語り始める。幼い頃、犬と散歩しているうちにこのトーチカへと辿り付き、中を覗いて見ると父がうずくまっていたという。その出来事は、その後二度と彼の足をトーチカの中へと踏み入れられなくさせてしまう。後日、家からいなくなった父は、このトーチカの中で頭からガソリンを浴びて自殺を遂げる。その時煙突から黒煙が立ち昇る光景と、あたりに立ちこめるいやな匂いとが、彼の記憶に焼きついて離れない。「ほら、壁面にその時の黒いすすが残っていませんか?」

 女は、男の重い記憶語りに息が詰まり、ついには気を失ってしまう。戦争遺跡が舞台になっているとはいえ、戦争の記憶が直接的に語られるわけではない(「戦争遺跡を研究している」という女の言葉も嘘であった)。「男」の口から語られる記憶という物語が、「女」に強制的に押しつけられ、いわば植民地的に蹂躙していくこと自体に「戦争」があるのだ。トーチカから覗いていた女が、男の接近・侵入に備えてナイフを手にするも、記憶=物語という武器を携えた男の来襲を受けてしまう。その姿に、かつてあったかもしれない「戦争」が現れるのである。

 この『TOCHKA』は、末尾で告げられているように、監督の松村浩行が、学生時代の教師であった石井直志氏に特権的に捧げた作品である。両者の関係は、松村自身の言葉に詳しいが(オフィシャルブログ http://www.tochka-film.com/)、松村はそこで、ポール・ヴィリリオ『戦争と映画』の訳者として石井が記した、「あとがき」の言葉を引いている。

 「しかし、なぜ「トーチカ」が最初の著作のテーマに選ばれたのだろうか。おそらくそれはヴィリリオが「トーチカ」の建築構造にある種の魅惑を感じていたからにちがいない。小要塞の内部をつつむ薄闇のなかにはただひとつ開口部が設けられており、周辺の光景はちょうど暗箱に収められたレンズに映じるイメージのように見つめられている。従って、「トーチカ」は写真機や映画撮影機に類似した構造をもつ建築空間であり、眼の機能そのものを内包しているさえいえるだろう」。

 ここには、トーチカに「魅惑」されたヴィリリオと、そのヴィリリオに魅かれた石井がいる。そして、このトーチカをめぐるヴィリリオと石井による「欲望の三角形」とも言うべき関係を、あたかも反復するように、松村が『TOCHKA』の制作に向かったことは、もはや明らかだろう。実際、松村は、『TOCHKA』を撮影しながら、親友との間に芽生えた「欲望の三角形」が、師弟の間で反復されていくという夏目漱石『こころ』の高名な一節、「記憶してください。私はこんな風に生きてきたのです」を反芻していたというのだ。

 この反復構造は、『TOCHKA』の作品内部にも及んでいる。父の記憶=物語に苛まれていた男は、やがてそれをなぞるように、自らもトーチカでガソリンをかぶって自殺する。男はひとしきりたばこを吸った後、うめき声を上げながら暗がりの中で自らの体をガムテープでがんじがらめにし、ついにはガソリンをかぶっていく。その過程がワンカットで映し出され、絶望的なまでに記憶=物語に呪縛された孤独な男の姿と、数分後に彼に訪れるだろう運命の救いのなさとが、いやがうえにも増してくるのだ。そして、その姿を、あの日の男同様、犬と散歩していた地元の少年が見てしまうのである。

 それにしても、女はいったいどこへ行ったのか。ここに、この作品の批評性がある。男の記憶=物語に飲まれた女は、だがその後、坂口安吾を思わせるような「ふるさと=家」に突き放されたという、いわば男と対照的な幼少の記憶を思い出しながらトーチカを去っていく。その途中、男が自死を遂げるためにトーチカを訪れていたことにふいに思い至り、一瞬引き返しにかかるのだが、結局男を止めることなく再び立ち去っていくのである。

 ここに、「男」と「女」の、トーチカ(=原初の記憶、物語)という「点」(tochkaはロシア語で点を意味する)をめぐる決定的な非対称性=他者性がある。柄谷行人風にいえば、「男」の記憶=物語は「語る―聞く」の関係にあるが、「女」のそれは「教える―学ぶ」の関係にあるのだ。この監督が、教育や学習にある関係性にことのほか敏感なことは、先ほどの師弟の問題もさることながら、かつてブレヒトの教育劇「イエスマン・ノーマン」を映画化したことからも明らかだろう。

 それは、戦後、アメリカとソ連の間にあったと言われる密約、北海道分割案(ルーズベルト急死を受けたトルーマンによって破棄された)によって、ひょっとして分割・植民地化されたかもしれない危機にあったこの地だからこそリアルに感じられる関係性かもしれない。海から迫り来る他者=敵との関係ほどクリティカルな関係性もなく、残存するトーチカ群は、不断にそれを思い起させるようにそびえているのではないだろうか。

中島一夫