キャピタリズム〜マネーは踊る(マイケル・ムーア)

 ムーアの映画を、あれこれあげつらうのはたやすい。リーマンショック後に、急いで仕上げられた感のある今作は、特にそうだろう。だが、いまだかつて、「資本主義」などというタイトルで映画を撮った者があっただろうか。

 「今回は最後の映画になるかもしれないと思ったんだ。さんざん叩かれてきたからね。もう誰も僕に映画の資金を出さず、どの劇場も僕の映画をかけてくれなくなるかもしれない。もしそうなら、最後に映画で何を言っておくべきか、考えた。だから、映画作家として二十年間訴えてきたことの集大成として資本主義そのものをテーマにしたんだ」(「週刊文春」誌上の町山智浩によるインタビュー)。

 「資本主義を批判していれば、正義の味方を気取れる時代は終わった」などとほざいているフヌケどもに聞かせたいような言葉だ。ムーアを過激な映画作家のように捉えるのも、また正義の味方のように見なすのも間違いだろう。彼は、ただ当たり前のことを当たり前に主張しているにすぎない。アメリカにおいては、上位1%の富裕層が底辺の95%より多くの富を所有し、7秒半に一軒のスピードで家を失っている人たちがいる。このような状況において、むしろ、どうして資本主義を批判しないでいられるのか。

 ムーアが、資本主義を批判するうえで掲げるのは民主主義だ。一見これも、正義の味方を気取ったアメリカ民主党のイデオローグが、レーガン以降のネオリベ政策によってズタズタにされた「友愛」の絆を、もう一度取り戻す社会に「チェンジ!」と言っているかのように見える。

 実際、労働者による工場占拠の闘争に、市民や政治家らが差し入れを行って応援し、地元メディアもこれに加勢してついに勝利を遂げるという美しいエピソードが語られる。あるいは、ムーアが合衆国憲法を隈なく読むシーン――そこには、資本主義や自由競争などの文言がどこを探してもついに見当たらず、代わりに、すべての人々の平等と幸福が明言されていた――や、その精神に則ったローズヴェルト大統領最後の演説シーンなどを見るにつけても、先ほどのインタビューで町山智浩も揶揄するように、これでは古き良き「ニューディール体制へのノスタルジー」にすぎないではないか、と訝らずにいられない。

 また、ウォール街ホワイトハウスの癒着が金融崩壊をもたらしたとして、その張本人たる元財務長官のルービンやサマーズ、現財務長官のガイトナー、元連邦準備制度理事会FRB)議長のグリーン・スパンらが次々と名指しで糾弾されていく。このあたりは、政財界の人脈を洗いだしながらアメリカの腐敗を追い、ついには具体的に「犯人」を名指していく、広瀬隆の手つきを思わせる(『資本主義崩壊の首謀者たち』など)。

 極め付けは、ニューヨーク証券取引所や銀行、証券会社の周囲を、黄色い「犯罪現場」のテープでぐるぐる巻きにするラストシーンだろう。建物の中に向かって、拡声器で「犯罪者よ出て来い!市民逮捕だ」と叫ぶムーアの姿は、滑稽なまでに「正義の味方」そのものだ。

 だが、エンドロールとともに、こともあろうに「インターナショナル」が流れるとき、我々はムーアのいう「民主主義」や「市民」という微温的な言葉に、まんまとだまされていたことを知る。これは、まぎれもなく、コミュニズム映画なのだ。そもそも、ゴールドマン・サックス公的資金によって救済され、GMが国有化されたアメリカとは、今や臆面もなく社会主義化されたということではないのか。ムーアはいう。「あとは政府が新聞も買っちゃえば、旧ソ連と同じだ(笑)」。

 国民皆保険をテーマとした前作『シッコ』を思い出してほしい。肺や心臓を患い、腰や歯がぼろぼろになりながらも9・11の救援活動に勇敢に携わった「英雄=消防士」たちが、にもかかわらずネオリベ下で保険適用外の扱いを受け、治療も満足に受けられずに苦しんでいた。アメリカの冷淡さを見るに見かねたムーアは、最後、彼らを救うために、何と共産主義国キューバに連れていったのだった――。そこで「英雄」たちは、安い治療費で身体を癒すにとどまらず、思いもしなかったキューバの消防士たちの表敬を受け、健康とともに誇りをも取り戻す。「世界の消防士は皆兄弟です」。

 また、今作で取り上げられる「くたばった小作人」(字幕では「農民」となっていたが、「peasant」なので「小作人=農業労働者」の方が適当だろう)はどうか。「くたばった小作人」とは、大企業が社員に黙って彼らを生命保険に入れ、死亡すると保険金が入る、その死んだ労働者を企業は「くたばった小作人」と呼んでいたというのである。

 ムーアは、なぜ「労働者」が「小作人」と呼ばれていたのかと疑問を投げかける。おそらく、このシークエンスには、労働者というものが、もともと暴力的なエンクロージャー(囲い込み)によって土地や生産手段を奪われた農民達に起源を持つという、いわゆる「原始的(本源的)蓄積」(マルクス資本論』)の認識がある。まさに生命保険とは、この「労働者=小作人」の命を、資本が金銭的に管理する「生政治」(フーコー)にほかならないことをムーアは暴露しているのだ(今や証券会社は、生命保険すらデリバティヴとして売り出し、「賭け」の対象としている)。

 ムーア作品の根底には、一貫してこのような共産主義への思いがある。ムーアが、あえてそれを「民主主義」というのは、おそらく共産主義社会主義へのアレルギーが強過ぎるアメリカにあって、まずもって観客に拒絶反応を起こさせない戦略からだろう。「普通の人々が観たがる映画が作れなかったら、僕の政治的主張には反するし、意味がない」。「僕は民衆の怒りを煽動したいわけじゃない。彼らはすでに怒っているんだから」。

中島一夫