私の中のあなた(ニック・カサヴェテス)

 少し前になるが、妻の南田洋子の死に際して開かれた長門裕之の会見を見ていて、ふと認知症の身体はいったい誰のものなのだろうかと思った。南田が認知症になってからというもの、長門は本を出版したりTV番組に出演したりして介護の状況を赤裸々に公開してきたが、果たしてそれらは認知症の妻の承認を得ていたのだろうか。いや、そもそも「承認」とは、どのように可能なのか。

 「病気の姉を救うために、私はつくられた」――。『私の中のあなた』の妹アナは、2歳の時に白血病が判明した姉のケイトのドナーとして遺伝子操作によって産まれたという、手段も目的も人工的に作られた子である。両親も含めて、ケイトに適合する骨髄移植のドナーが見当たらなかったためだ。

 姉思いのアナは、献身的に協力してきたが、腎臓の一部を提供しなければならなくなった段に至って、敏腕弁護士を訪ね、両親を訴える決意をする。11歳の娘と両親は、子供の人権をめぐってついに法廷で争うこととなる(しかも、母親役のキャメロン・ディアスは元弁護士だ)――。

 映画館のそこかしこですすり泣きが絶えない、いわゆる「難病もの」「家族愛もの」だが、五人家族一人一人の視点から家族の関係を多面的に描きつつ、それぞれの心情とその変化を浮き彫りにしていくという構成はすぐれている。

 ケイトが、病院で知り合うがん患者のテイラーとデートを重ね、まるで生き急ぐようにお互いを強く求めていく姿が痛ましく胸を打つ。「がんにかからなければ君に出会うこともなかった。僕は、がんになって本当に良かった」――。

 やがて、アナが訴訟に踏み切ったのは、姉ケイトの希望だったことが明らかになる。ケイトは、幼少の頃からあの手この手で自分を延命させようとしてきた親の「愛」がだんだんと重荷になり、自作の思い出アルバムを作るほど両親や家族を愛していながら、「生かされること」から解放されたがっていたのだ。両親は、アナのみならず、ケイトの生や身体をも権力的に所有してきたわけである。

 したがって、法廷で争われるのは、単にアナの意志を無視して痛々しい移植が施されてきたことの是非ではない。判断力の及ばない子供や病気の身体や生は、いったい誰のものなのか。今まで満足に聞いてもらえなかったその問いを、姉妹は結託して両親にぶつけているのだ。

 親子関係や病気を看護する関係においては、「愛」の名において、それらが権力関係であることが隠蔽される(現在は、「虐待」という形であからさまになってはきているが)。やがて、ケイトは亡くなり、真の原告が不在となった裁判は、娘の側が勝訴する。家族は、ケイトの死と引き換えに家族とは何かを学び直し、お互いに新たな関係を築いていくことになる。

 だが、ひとつ大きな疑問が残る。アナは、自らが姉を生きさせるために人工的に作られたことを、いったいどのようにして知ったのだろうか。両親が伝えたのか、ケイトが知ってしまいそれをアナに伝えたのか、そのあたりを見逃してしまったのかもしれないが、今ひとつ明確になっていなかったように思う。

 だが、オイディプスではないが、自らの出生の秘密が明らかにされてしまうことは、アナにとっては自己を崩壊させかねない致命的な出来事だったはずではないか。アナにとって本当の苦悩は、ケイトの延命のために自分の身体を使われることではなく、そのために生まれたことを知ってしまうことではなかったのか。事後的に、また一方的に与えられ、その真偽を証明しようもない出生にまつわる「知」を、己の「物語」として引きうけて生きていかざるを得ないこと。これこそが、親子関係に潜む最も大きな権力ではないだろうか。

中島一夫