戦争をふせぐ歴史観――「党」のクビまで引っこ抜かないこと その2

 すがは、戦時下抵抗のルネッサンス論と見なされがちな『復興期の精神』(一九四六年)を、花田自身は「アンチ・ルネッサンス論」と主張していたことに注目する。そして、花田のいう「復興期=ルネッサンス」は、「文学史的には「昭和十年前後」(平野謙)とも呼ばれる「文芸復興期」を(も)指していると見なしうる」と述べるとき、それはすが自身の批評が「アンチ・ルネッサンス」であったことを想起させてやまない。例えば、次のような一節。

 

ヨーロッパ中世を「闇」とし、ルネッサンスを「光」と見なす歴史観や、日本の戦後を「第二の青春」と高唱する文学観は、今やあまり顧みられない。にもかかわらず、そうした観念は今日なお曖昧なまま生き延びている。それは、宮沢俊義丸山真男のいわゆる八月革命説が、その論理的・歴史的誤謬をさんざんに指摘されながらも、その前提なくしては戦後憲法や戦後史の正当性もほとんど語りえないのと似ている。

 

 この一節には、すがの批評が拠って立つ「六八年革命」が、まずもって「八月革命説」を背景とする戦後民主主義に対する批判だったことが含意されていると読める。言い換えれば、戦後の文学は、概ね八月革命説=戦後民主主義に担保された文芸復興期だったともいえよう。そこでは、文芸復興期を規定した横光利一のいう「純粋小説=純文学にして通俗小説」がずっと支配的だったのである。すがが、『探偵のクリティーク』(一九八八年)以降、たびたび横光「純粋小説論」を問題化してきたゆえんである。

 

 今回、すがが明らかにしているのは、そうした文芸復興=ルネッサンス論が、カントの「崇高」に基づく一種の転向であったということだ。その人間復興=人間性の回復は、非転向の絶対的な神のごとき人間離れした者を前にした「崇高」の感情に依っており、この非転向者の非人間性に対する畏怖からの「解放感」が、ルネッサンス=光として表現されたのだ、と。キリスト(非転向者)に対するユダ(転向者)の人間性=やましさこそが、キリストを崇高化する。崇高とは転向者の感情なのだ。花田が、例えば中野重治や中野を敬愛する平野謙らと決定的に異なるのは、「中野や平野に典型的な「転向」という問題系がない」ことである。花田のアンチ・ルネッサンス論は、現実の政治運動に関わったマルクス主義者には殊の外困難だったと思われるが、決して「党」を絶対化、崇高化しなかったということなのだ、と。

 

 注意すべきは、その「党」の崇高化=非人間化が、一方で小林多喜二のような「党」に対する「殉死」に基づいていることだ。人間イエスが代表として死ぬことで、その後復活して非人間=キリストと化したゆえに崇高化したように、「人間であるなら、小林多喜二のように死んでしまうが、党はそれを超えている」のだ。

 

 知られるように、カントの「崇高」は、「主観における人間性の理念に対する尊敬を客観に対する尊敬と取りちがえる」という「詐取」に基づくが、それは「死」を所有したかに見える「主」=非人間を前にした「奴隷」の死への恐怖を、フロイト的な「死の欲動」と「取りちがえる」「詐取」と別のものではない(かつて柄谷行人は、例えば坂口安吾にこの「崇高—死の欲動」を見たが、確かに安吾の、「人間」は「堕落」するものだという「人間」主義(「われわれは人間に戻ってきた」)は、非人間性からの「解放」という文芸復興的=ルネッサンスな戦後文学として捉えられよう)。

 

 そして、「転向」とは、この「詐取=取りちがえ」にほかならない。実際は「党」から「疎外」されている「負傷」者にすぎないにもかかわらず、かえってそれゆえに自らは「革命運動の革命的批判」(中野重治)が可能なポジションにいるという「詐取」である。「外的強制であれ内的要請であれ、はたまたなし崩しであれ、転向が遂行される時、その酔いからの覚醒は「負傷者」の――花田のクリシェを用いればパーソナルな――「自意識」としてあらわれる。これは「絶対的な相」から「疎外」されたことの疚しさであると同時に、自由の意識という「人間性」である。その疎外された自由の意識が、「絶対的な相」への批判を可能にする」(すが)。その心性が「転向小説=私小説」を醸成させもしたし、「むしろ」転向者こそ大衆をつかんでいる、したがって転向者こそ革命的だとする吉本隆明「転向論」的なレトリックに、ある種の説得力をもたせてもきたのである。

 

 そして、ここからは、すが論と離れるが、平野謙のような人間にとっては、小林多喜二の殉死の「崇高性」こそが、純文学の「純粋性」と結びつくことになる。

 

なんといっても小林多喜二の生涯を絶対視したい私どもの世代は、またかつての私小説を絶対視したい視点からのがれがたいのである。いまでも私には小林多喜二の『党生活者』と嘉村磯多の『途上』とは、ほぼ同質のものとして残像している。というより、党に殉じた小林多喜二の生涯と純文学に殉じた嘉村磯多の生涯とをほぼ等価で結びたい気持がつよいのである。この場合における党なり純文学なりの概念は、その純粋性においてひとつのシンボルを形成した。(『文学・昭和十年前後』一九七二年)

 

 平野が、「ともに世俗性をきびしく排除することによって、よく純粋性のシンボルとなり得た」という意味で共産党と純文学を「等価で結」ぶことができたのは、小林多喜二の殉死があったからだ。平野にとっては「純文学」とは、理念的には「プロレタリア文学」を指していたが(拙稿「なし崩しの果て――プチブルインテリゲンチャ平野謙」二〇一七年「子午線vol.5」参照)、その両者のつなぎ目に小林多喜二の死が横たわっているのである。両者は本来、ともに「純粋」で「崇高」でなければならない。もちろん、両者に対して殉死に至るのが最も「純粋」だが、「世俗性をきびしく排除すること」が出来ずに、徐々に通俗性にまみれて「不純」になっていく共産党や純文学にしがみついているよりは、より「純粋」な形態を目指して「転向」する方が、平野にとっては「純粋性」の「シンボル」に忠実な姿勢だった。平野において「転向」とは、不純な共産党に対する「分離=結合」(福本和夫)なのだ(平野にとっての「人民戦線」)。

 

 そして、この「純粋性」をめぐって、中村光夫らと純文学論争をたたかうことにもなる。おそらく、私小説=転向小説を批判し続けた中村と、私小説の純粋性を純文学の理想とした平野との分岐が、やがて「党」の純粋性が崩壊したかに見えたときに、その純粋性という「故郷」の「喪失」に、「天皇制」という別なる純粋で崇高な「故郷」を呼び込んでいった平野と、「天皇制」への批判を持続し得た中村との分岐となっていくのだ。

 

 この共産党の純粋性の崩壊と天皇制の問題は、中野重治の問題でもあろう。例の「村の家」の共産党が、大和=日本の「故郷」のメタファーで語られている問題である。

 

共産党天皇制が類似しているという、この、しばしば言われるアナロジーは、「村の家」に即して見た場合、どのようなことを意味しているのか。それは、そのどちらかに寄り添わない時には「狂気」におちいるという、「村の家」のヘルダーリン的な主題と関係しているだろう。それらは、寄り添う者を狂気から守る硬い核のような「もの」を内包していると見なされているのだ。(すが秀実『1968年』二〇〇六年)

 

 共産党天皇制とが「故郷=同心円」として見なされている時点で、すでに「転向」ではないかと思われるむきもあろう。だが、事はそう単純ではない。それは、第一次大戦後のグローバルなリベラリズムの席巻と無縁ではなく、それに対する「保守革命」の文脈を考えあわせる必要があるからだ。それは近代が内包する「故郷喪失」(ハイデガー)の磁場に逃れがたくある。

 

 冷戦が終焉しようとしまいと、冷戦の米ソの「平和共存」において、すでにソビエト社会主義リベラリズムの一変種となり果てていた。それは第一次大戦後と地続きな、リベラリズムしか勝たん!世界である。現在の「新冷戦」や「権威主義/民主主義」といった愚劣な見立てを退けるためにも、今なお「アフター・リベラリズム」(ウォーラーステイン)という視点が必要だろう。

 

 だが、そうである以上、リベラリズムという世俗化(フォニイ)の包囲に対して、すでに「喪失」されたものとして、崇高に屹立する純粋性=本来性を求めてやまない心性もまた、不可避的である。例えば、江藤淳が、『昭和の文人』で取り上げた平野謙中野重治堀辰雄を通して見たのは、彼らにとどまらないリベラリズムの波に飲み込まれた、日本人の日本人からの「転向」であった(拙稿「江藤淳新右翼」参照)。むろん、大塚英志も言うように、江藤自身が、世俗化(フォニイ)するサブカルチャーの波にのまれながら、「純粋」な「少女」としての「天皇」をフェティシズム的に求めていったのである。

 

(続く)

 

戦争をふせぐ歴史観――「党」のクビまで引っこ抜かないこと

 遅ればせながら、すが秀実花田清輝の「党」」(「群像」2022年3月)を読んだ。

 

 以前、何度か触れたことだが、花田清輝は、現代史を「〔…〕二つの戦争によってきりとらずに、逆にそれらの二つの戦争に終止符をうった二つの革命によって――つまり、ロシア革命と中国革命とによってきりとっ」た(「現代史の時代区分」一九六〇年)。戦争中心の歴史観から革命中止の歴史観へ。眼前の一九六〇年安保反対闘争が「ほとんどナショナリズムの立場からなされているということ」への批判として提示されたこの革命中心の歴史観を、一九六八年革命へと延長させ史論を書き継いでいったのが、すが秀実であることは論を俟たない。

 

 いまや、ロシアや中国に対して、少しでも肯定的に言おうものなら糾弾されかねない状況だが、言うまで もなく、花田のいう革命中心の歴史観と現在のロシアや中国とは何の関係もない。両国(ナショナル)が、どう読み替えようとも、とうに革命(インターナショナル)を本質的に喪失しているのは明らかだ。だが、後で触れるように、ある種の人々は、どうしても両者の区別ができないのである。「だからこそ」、次の花田の言葉は、現在改めて肝に銘じられるべきだろう。

 

むろん、平和主義者のなかには、荒正人のように、戦争も革命も嫌いだといったようなひともいるにちがいないが――しかし、戦争をふせぐための最後の切札が革命であり、その逆もまた真であるということを、くれぐれも忘れないでいただきたいとおもう。(「歌の誕生」一九五七年)

 

 もちろん、すでに革命の概念自体が見失われているいま、とても当時の花田のように「われわれは、第一次大戦後とは反対に、戦争にむかってではなく、革命にむかって、一歩、一歩、あるきつづけているわけである」と容易に信じることはできない。しかしこれまた、「だからこそ」、われわれは花田がスターリン批判を、スターリン個人への批判から切り離したことを想起すべきである。「誰よりもスターリン批判の必要を痛感したのは、スターリン自身」(「歌の誕生」)であり、したがってスターリン批判とは「スターリン自身の遺志による「自己批判」(「偶然の問題」一九五七年)だった、と。

 

 すがが、本稿の末尾で述べるように、スターリンや党を批判して、その「頭から帽子を引き抜いた」のは結構だが、「それを「クビまで引っこ抜いてしまっ」て、どうするのか、と」花田は言った。党の「帽子」は引き抜いたものの、なお残っている「クビ」を、すがは「花田清輝の「党」」と呼んだわけだ。それは先に述べたように、今後ますます加速していくだろう、ロシアと中国の「帽子」を引き抜く批判をあらかじめけん制すると同時に、「クビまで引っこ抜いてしま」わないような「理性を守る」「楯」を要請しているのである。

 

 花田は、中江兆民『一年有半』の「権略、これ決して悪字面にあらず、〔…〕ただ権略これを事にほどこすべし、これを人にほどこすべからず、正邪の別、ただこの一着に存す」に準えて、次のように言った。「「権略」を「事にほどこす」ことと、「人にほどこす」こととの区別がどうしてもわからないのが、わたしのいわゆる「モラリスト」と名づける人種であ」る(「日本における知識人の役割」一九五六年)。

 

 スターリン批判をスターリンという「人」に対する批判とみなし、現在のロシアや中国が駄目ならレーニン毛沢東もすべて駄目というような、一点の汚れも認めない道徳的な「人種」を、花田は「モラリスト」と呼び論争した。いわゆる「モラリスト論争」である。

 

 今や「モラリスト」たちは、ポリコレやキャンセルカルチャーとして増殖し、また例えば芸能人の不倫を裁かずにいられないような「人種」へと通俗化して跋扈している。なお「モラリスト論争」が重要だと思うゆえんだ。ふと見渡せば、今や「モラリスト」ばかりになってしまったのである。

 

数カ月前の『中央公論』で、わたしは、コンミュニストの山辺健太郎が、幸徳の直接行動論をナンセンスだといってせせら笑い、幸徳が、荒畑寒村の妻と恋愛したり、入獄中、離婚した師岡千代子の世話になったりしたというので、革命家の風上におけないほど堕落した人物だといってきめつけているのをみて、やれ、やれ、とおもった。山辺もまた、荒と同様プロテスタンティズムの倫理の信者だかどうだか知らないが、なかなかの道徳家である。

 E・H・カーの『浪漫的亡命者たち』のなかに描かれているゲルツェンやオガリョフのように、まるで義務みたいに友だちの女房と恋愛しなければならないとおもいこんでいる連中もコッケイだが――しかし、山辺のようなコチコチのモラリストもまた、困りものだ。恋愛の自由を肯定したことのないものに、プロレタリアートの自然発生的=本能的欲求が理解できるはずがないのである。(「日本における知識人の役割」)

 

 すがが言うように、「花田がもっとも強く「党」の正統性を主張したのは、スターリン批判がおおやけにされた一九五六年に、荒正人山室静埴谷雄高らとおこなったモラリスト論争においてであった」。にもかかわらず、スターリン批判が、スターリンという「帽子」のみならず、「党」の正統性という「クビ」まで引っこ抜いてしまったので、スターリン批判以降、「権略」を人にほどこしてやまない「モラリスト」=異端者の群れが世界を覆っていったのである。

 

 すると、『花田清輝 砂のペルソナ』(一九八二年)から出発したすがが、おおかたの嘲笑に逆らって、あえて一九六八年革命を「勝利」と主張してみせることで、花田の何をつかみ継承しようとしたのかが、より鮮明になってこよう。一九六八年革命史論を、スターリン批判から説き起こさねばならなかったのも、それによって、むしろ「六八年」を、単に「反スタ」に淵源していると捉えるべきではないと告げようとしたのではなかったか。「六八年」を反スタとしてのみ捉えてしまえば、それは「クビ」まで引っこ抜いた「モラリスト」たちの、「第二」ならぬ「第三」「第四」の「青春」(荒正人)にしかならないからだ。事実、「六八年」論の多くは、終焉した「青春」へのノスタルジーに終始したのである。

 

(続く)

  

マシュー・C・クレイン/マイケル・ペティス『貿易戦争は階級闘争である 格差と対立の隠された構造』

 

 

 ジジェクは、『パンデミック2』で次のように本書に触れている。

 

現代における階級闘争の強力な再起とは、あらゆる矛盾の階級闘争への収斂ではなく、メディアが注目する他の闘争が階級闘争により変位効(displaced effect)として過剰規定されることである。マシュー・C・クレインとマイケル・ペティスが『Trade Wars Class Wars』で立証するように、米中の〝貿易戦争〟は、両国内の階級闘争を背景に分析して初めて理解ができる。(中林敦子訳)

 

 トランプは、「米中貿易戦争」という、あたかも貿易が二国間のゼロサムゲームであるかのように、短絡的な二項対立の物語を煽った。また、そこから「新冷戦」や「米中派遣争い」、「二大ブロック」……などなど世界を二分する、これまたわかりやすくも(被害)妄想的な物語が派生し、流通していった。本書は、オーソドックスな国際貿易金融のメカニズムの歴史的な解明の書でありながら、同時に、そうした安易な、だからこそ感情論的に機能する物語からいかに思考を脱却させるかという視点で書かれている。その結論は同意しかねるもの――認識を改めさえすれば、自然に不平等も帝国主義も平和裏に解消されるかのような社会民主主義的なもの――だが、視点としては現状に対して批評的といってよい。吟味しながら読むことで、有効な武器になろう。章立ては以下のとおり。

 

 第一章 アダム・スミスからティム・クックへ――グローバル貿易の変容

 第二章 国際金融の発達

 第三章 貯蓄、投資、不均衡

 第四章 天安門から一帯一路へ――中国の黒字を理解する

 第五章 壁の崩壊と黒いゼロ(シュバルツェ・ヌル)——ドイツの黒字を理解する

 第六章 アメリカ例外主義――法外な負担と執拗な赤字

 まとめ――貿易戦争の終わり、階級闘争の終わり

 

 大枠の主張は、ほぼ書名が告げるところに尽きている。

一国内の不平等が拡大する → 本来労働者が得られるはずの収入を奪われる → 労働者の購買力が抑えられる → 消費がふるわない → 製造品の過剰在庫が生じる → 他国に売りつけられる → 富裕層の余剰資金も国内では収益が確保できないので、国外へ投資される → 一国の貿易黒字が計上される――。

 

 したがって、現在の貿易黒字は、生産性の向上によるものではなく、国内の不平等の帰結なのだ、と。ある国の貿易黒字は他国を貿易赤字に追い込むのだから、その結果両国内に引き起こされる「貿易戦争」の核心は、一国内「階級闘争」(正確には「階級格差」であり、両者の違いは決定的だが、ここでは問わない)だということになる。本書の分析では、「現代では中国、日本、ドイツが製品を過剰に供給し、アメリカがその受け皿になっている」と。いずれにしても、「19世紀末も1920年代も今日も、所得のきわめて不平等な分布が引き起こした悪影響は、グローバルな貿易と金融の制度を通じて他の国へと広がっていった」(小坂恵理訳)のだ、と。

 

 もちろん、本書「解説」(青山直篤)も指摘するように、「本書は長く続いた賃金の抑制に着目し、需要サイドを重視するあまり、供給サイドへの目配りが弱い」ことは否めない。また、全ての矛盾の受け皿がアメリカであるという、その「アメリカ例外主義」(第6章を見れば明らかだが、本書はアメリカ例外主義を隠さない)は果たしてどうなのか。もちろん、本書はただ単に「アメリカは唯一の犠牲者」だと言っているわけではなく、「アメリカの金融制度や消費者市場は他の場所で行なわれる搾取のための安全弁として機能して」おり、実際は「世界のすべての国の国民が、この仕組みに苦しめられている」という意味でそうなのだということではあるが……。本書に対する経済学者の批判や反論を待ちたいところである。

 

 それでもなお、国家間の貿易戦争を激化させている根源的な要因は、むしろ国家の内部で進行する不平等の拡大だと主張し、なおかつ「これは本質的に楽観的な主張だ」とする本書のスタンスは現在きわめて重要だろう。本書がその主張を「楽観的」と言うのは、そう主張することで本書は、「国家間や経済ブロック間でゼロサムゲームが進行し、勝ち負けを争う状況を世界は我慢するしかないとは考えないからだ」と。本質的には「中国人もドイツ人も悪者ではないし、私たちが暮らす世界では、一国の繁栄は他の犠牲によって成り立つわけではない」のである。これら中国人やドイツ人に、現在ロシア人――政権と寡頭資本家、新興財閥(オリガルヒ)の権力独占によって、無理やり「失地回復」という対立の物語に駆り立てられている――を加えてもよい。

一国が他国を犠牲にするというゼロサムゲームを、世界は決して受け入れないだろうと「楽観的」に考えること。言い換えれば、本書は、世界が「貿易戦争」の核心たる「階級闘争」へと目覚めることに、決して悲観的にはなるまいと主張しているのである。

 

 別に真新しくもなく、繰り返し言われてきたことだが、あえて最後に引用しておく。

 

あらゆるところで庶民は購買力を奪われつつある一方、それは基本的に自分たちの利害と相容れないからだ、と言葉巧みな愛国者日和見主義者によって信じ込まされている。あるいは、利害が競合する国同士の対立がクローズアップされるが、それはまったくの誤解だ。実際には、同じ国のなかの経済階級同士の対立が、世界規模の紛争を引き起こしている。このままでは、1930年代が再現されかねない。当時は経済や金融の国際秩序が崩壊した後、民主主義が弱体化して悪意あるナショナリズムが勢いづいた。その結果、戦争や革命や大虐殺が発生したのである。

 

中島一夫

 

文学の毒――平野謙と瀬戸内晴美

 

 『ユリイカ 2022年3月臨時増刊号 総特集 瀬戸内寂聴―1922-2021』に、「文学の毒――平野謙瀬戸内晴美」が掲載されています。

 

 よろしくお願いします。

食うこと、明日、元気に会社に行くこと その2

 だが、「食う=吃飯問題」から「身体」や「健康」の政治性に接続されていったとき、革命が受動的革命へと反転していく契機が、すでに内包されていたこともまた事実だろう。例えば、津村は、いわゆる「横断左翼論」の出発点について、次のように回想している。

 

68年当時東大助手共闘にいて早稲田のナンセンスドジカルにいたく共感してくれたある先輩が東大赤門の近くの喫茶店で一種の集合論の図式で説明してくれたことを今になって思い出しました。「こうやって組織があって(丸を描く)その中に自分がいるという発想は共産党新左翼も変わらないのさ。君たちのやりかたのどこが新しいかというと、自分という円があって、その一部に自分の革命サークルもある、なんとか研究会もある、学校もあるし仕事もある、個人は無数の関係の集積だとわかっていれば組織に支配されることはない」「それって横断左翼論ですよね。うちの親父が同時に社会党にも共産党にも総同盟にも総評にも入っていたというのはそういうことなのかな」「そうかも知れない」「でもそう考えると授業に出るから裏切ったとか会社に入ったから挫折だということはなくなりますね」「そう。そのかわりどこまでも責任を逃れられないよね」考えてみればあれが世間に流布する全共闘イメージとひとつ次元の違う議論をした最初だったと気がします。私の中に「権力」も「反権力」も「革命党」も「内ゲバ」もあるとしたら、私が変わっていくこと以外に希望はないわけです。身体の政治性というテーマはそこから出てきました。(『LEFT ALONE 持続するニューレフトの「68年革命」』「対談を終えて」二〇〇五年)

 

 このように、津村にとって、「横断左翼論」と「身体」は地続きだった。その根源にあったのは、「個人は無数の関係の集積だとわかっていれば組織に支配されることはない」というパースペクティヴの転換である。むろん、マルクスフォイエルバッハのテーゼ』の「人間は社会的諸関係の総体(アンサンブル)である」をふまえていよう。当時、廣松渉が、疎外論的な本質主義を批判するために、このマルクスの「人間は社会的諸関係の総体である」という関係主義、多元主義、社会構成論を導入していったことは有名である。津村の「横断左翼論」も、この疎外論批判の文脈にあった。

 

 だが、このマルクスによる組織や社会からの「個」の解放ほど、68年以降に簒奪された「革命」もないだろう(以前述べた、伊藤整の「組織と人間」論を展開させた福田恒存の「一匹と九十九匹と」も、ブントに影響を与えていながらその後保守に簒奪された)。

 

 

knakajii.hatenablog.com

フェミニズム本質主義ウーマンリブ)からジェンダー論(社会構築主義)への転換はもちろん、近いところではNAMにおける複数の部会に所属し、トップはくじ引きで決めるという組織論(そういえば、NAMを立ち上げた柄谷行人は、野口晴哉の「整体」に関心を持ち、「革命はいわば〝整体〟のようになされるべきだと思う」(『LEFT ALONE』)と言っていた。津村と意外に近いところにいたといえる)や、さらに通俗的なレベルでいえば、SNSで匿名のアカウントを複数所有するという現在の「文化」(スタイル)にまで、その多元主義は浸透していよう。

 

 だが、すでに、上記の回想で津村はその危うさを指摘していた。確かに人間が「諸関係の総体」ならば「授業に出るから裏切ったとか会社に入ったから挫折だということはなくな」るだろう。だが、その一方で、「そのかわりどこまでも責任を逃れられない」ことを招き寄せてしまうのだ。いわゆる「自己責任論」である。「諸関係の総体」による解放は、いつのまにか、逆にすべてが「自己責任」へと包摂される事態に帰結してしまったのだ。本質主義的な「自己」からの解放どころではない。プロレタリアートが上部構造へと進駐していった結果、「自己」が全体主義的に肥大化してしまったのである。文化大革命の「整風運動」が、全体主義的な粛清へと帰結していったのも、このあたりに起因するのではないか。

 

 重要なのは、それがもともと「人間は社会的諸関係の総体である」という認識そのものに潜在していたロジックだということだ。

 

疎外論は必ずや「本質からの疎外」という問題構成を取る。いわゆる「人間疎外」なる概念は、「人間」という抽象的な「本質」を前提とせざるをえない。これに対して廣松は、「人間は社会的諸関係の総体である」(「フォイエルバッハ・テーゼ」)という「関係主義」=社会構成論を対置した。そして、廣松の実証によれば、この関係主義への転換に際してヘゲモニーを取ったのが、エンゲルスだとされるのである。おそらく、この実証は正しいのであろう。

 しかし、そのように見る時、『資本論』を中心とする後期マルクスのいわゆる物象化(物神化)概念は、平板化することをまぬがれない。物象化が、ある歴史段階の社会的諸関係がもたらす「錯視」でしかないとしたら、社会関係を変えればその錯視はすべて消滅する(革命!)、という「全体主義」的オプティミズムに帰結するほかないからである。事実、廣松はマルクスの立場を「トータリスムスtotalismus」と捉える。(すが秀実『革命的な、あまりに革命的な』)

 

 先に見たように、津村は、「私の中に「権力」も「反権力」も「革命党」も「内ゲバ」もあるとしたら、私が変わっていくこと以外に希望はない」と言った。この「私が変わっていくこと」から、私の「身体」や「健康」が主戦場として前景化されてくる。だが一見、最も全体主義に遠いこの「私」の「身体」こそが、最も全体主義に漸近していってしまうのである。「社会的諸関係の総体」として捉えられていない「身体」は、「総体」から疎外されていることになり、したがって再び疎外論が作動するからだ。いかに、疎外論批判の貫徹が困難か、ということだろう。「社会的諸関係」という社会構成論=ジェンダー論が、ポリコレという倫理的な全体主義に帰結したことについても言うまでもない。

 

 だが、津村が「身体」や「健康」を主題化していこうとしたのは、あくまでそれらが資本主義の労働力の問題に関わってくるからだったことを忘れるべきではない。

 

権力と資本がよびかける「健康」とは、まず労働力のリ・クリエイトのことであって、いいかえれば、秩序の要求するペースについて来い、という命令にほかならないのだということをまず確認しよう。これにたいして、われわれが投げつけるべきコトバは、「病気でいいじゃないか!」である。(津村喬、岡島治夫「〈人民の健康〉のために――東洋体育道の基礎概念」一九七四年)

 

 要は、明日も元気に会社に行けるのが私の健康ではなく、会社の健康でしかないとしたら、本当の「健康」とは何かという問題である。1974年に、当時新日本文学会で企画委員をやっていた津村は、その名も「健康道場」なる連続講座を行った。その時、病床にいた花田清輝は、そのタイトルを聞いて「文学者は不健康でなければいけないんだ」と批判したという。もちろん、津村の言い分は、先の引用のように、自分もまた「病気でいいじゃないか」と主張しているのだということだったろう。健康/不健康という対立自体が、資本制を担う労働力としてのそれに還元されてしまっていることが問題なのだ、と。


 宇野弘蔵が、労働力商品の「無理」といって、資本制に対する労働=身体の外部性を強調したとしたら、津村は、すでに内部に回収されてしまった「身体」の「健康」を主題化したといってよい。だが、宇野の「無理」が、「本来人間は商品化されてはならない」といった疎外論的な人間主義ではなかったように、津村もまた、資本主義に組み込まれた「身体」や「健康」が本来性を喪失していると言いたかったわけではない。そうではなく、すでに商品化されてしまった労働力の「身体」や「健康」を、資本主義下のそれらではないものへと何とか読み替えようとしたのである。

 

 その読み替えにおいても、期せずして宇野理論と並行、シンクロしていたといえる。宇野は「科学」としての経済学は、「革命の必然性」を証明できないが、資本制はその矛盾を「恐慌」として表現すると考え、いわゆる「恐慌論」を展開した。同様に、津村もまた「病気」を、「健康」の対立項として捉えるのではなく、「身体」の運動における「恐慌」現象として見ようとしたのである。

 

病気は「おそってくる」のではない。それは自業自得である。生活の構造に規定された身体の歪み、異常が蓄積していった時、この異常を異常として表現しつつ解決しようとする生命のはたらきがおこる。これが病気である。それはいわば全構造的な矛盾の展開過程であって、そこから症状(矛盾の現象形態)だけを切離して治したりすることはじつはできない。〔…〕風邪はたしかに外部のヴィルスが入ってきてひくのであるけれども、しかしヴィルスがあれば風邪をひくわけではない。無理な生活、無理な姿勢が続き、身体のバランスがこわれた時に、そのバランスが回復するために身体がヴィルスをよびこむのである。これは恐慌が資本主義の自動調整作用であるのに似ている。風邪をうまくひけば、それを機会に身体のいろいろなゆがみを正し、ひく前より一段と健康になることができる。

 

 津村は、例えば下痢をしたからといって、腸が悪いと考えて薬を飲むのは、「自分が侵略によってつくりだした「後進国」に恩きせがましい「援助」をする帝国主義の論理と同じである」とまで言っている。これは、宇野経済学の「鬼っ子」と呼ばれた(その1で見た)岩田弘の「世界資本主義」論と同型のロジックだろう。津村にとって「身体」や「健康」が、あくまで(世界)資本主義の構造の問題として考えられていたことは、何度強調してもしすぎることはないだろう。

 

 津村が、「病気でいいじゃないか」とアジったのは、まさに「病気」を直ちに「不健康」として「健康」と対立させてしまうのではなく(そうすると、それを「切離して治」すか、あるいは「周縁=後進国」として「従属」させておくかになる)、資本主義の「恐慌」や「最も弱い環」(岩田弘)という、資本制の矛盾が露呈する一局面として捉えようとしたからであった。「病気」における帝国主義(戦争)を内乱=矛盾へ、というレーニン主義というべきか。いずれにせよ、どんなに「病気」でも仕事は休めないといって、「無理」に「健康」になろうとすることによって、自らを「労働力商品」化するサイクルは開始されているのだ。

 

中島一夫

 

食うこと、明日、元気に会社に行くこと

 津村喬を読み返していると、津村がやろうとしていた革命が、現在ことごとくひっくり返されているのがよくわかる。反差別、反原発、日中国交回復、日常生活、身体、健康、飯を食うこと、…。津村は、持久戦的に次々と戦線を移動していったが、その足跡を見るにつけても、まるで世界は津村の実践を捕捉しては、ひとつひとつその可能性をつぶしていったように見える。現在が、いかに「六八年」の受動的革命に規定されているかということだろう。「「反革命」は必ず革命的条件をも作り出しているというのが、大原則」(すが秀実『1968年』)なのだから、津村の革命は、反革命=受動的革命として「実現」されていると見るべきなのだろうが、凡人にはそうした「絶望する勇気」を持つのはなかなか難しい。

 

 例えば、「食う=腹を満たす」ことについて、呉智英は次のように述べている。

 

新左翼が例えば知識人批判をしたときにね〝彼らは全く空理空論であって、大衆の立場を忘れてるんだ〟という風なことを言ったわけですよ。具体的に言えば津村喬ね。〔…〕人民に依拠した! その人民というのを考えてみた場合ね、人民が求めてるのは理論家ではなくて実務者だったわけですね。これはまさにね、文革を保守側が取り込んでいるということでね。というのは、紅衛兵たちは〝知識人は特権階級である。お前らの話を聞いても何の役にも立たん! うだうだ理論をこねるよりもとにかく今、我々の腹を満たせ〟と喚いたわけです。それと同じことをね、保守側にやられたんでは、新左翼の突き出した問題は全部体制側に回収されてしまってるってことでね。(『保守反動思想家に学ぶ本』)

 

 呉の言う「実務者」というのは、古典的知識人ではなく、「経済学というよりは商学であり、理学というよりは工学であるみたいな」いわゆる実学志向のテクノクラートであろう。中国文化大革命が掲げる「人民」は、それまでのロマン主義的な理想に燃えた革命に対して、「食う=腹を満たす」というリアリズムを対置した。この「食う」という本来「下部構造」の問題が、「文化」(大革命)という「上部構造」の問題として現れたことが、文革の、そして文革を背景にした(といわれる)日本の68年の特質だろう。津村が、「プロレタリアートの上部構造の進駐」というスローガンとして何度も繰り返した問題である。

 

 確かに、津村は、最初期から「この世で最も重大な問題はなにか? 飯を食う問題である」という毛沢東のいわゆる「吃飯問題」を重視してきた。それを離れたどんな高邁な理想も芸術も理論も、例外的で特権的な少数者に属するものにすぎない、と。だが、いわばそれは、呉が言うように、ロマン主義(理想)に対してリアリズム(実務)を掲げたというより、両者を止揚するために重視されたのだ。それが、「プロレタリアート(リアリズム)の上部構造(ロマン主義)への進駐」なのである。

 

 魯迅が言うように、「なお存在する多くの階層の差は、人間をそれぞれ分離させる結果となり、人々はついにもはや、他人の苦痛を身をもって感ずることができなくなってしまった」(「燈下漫筆」)。

 

 では、どうすればよいのか。このとき最大の問題となるのが、飯を食うという「吃飯問題=日常性」なのだと津村は言う。

 

日常性の度合の基準となるべき、現実の水準は存在する。それは、その社会の主要な生産力が形成する日常性の水準である。現代日本の第一の生産力、それは工業プロレタリアートである。一九二七年の中国にあっては、それは農民であった。農民の中でも圧倒的多数を占める半自作農の大部分と貧農であった。他の諸階層は、夫々に生産力なのであるが、〈上層〉へ行くほどに日常性(吃飯問題!)が軽くなるということは、それだけ主要な生産力にたいする寄生性が増すということなのである。この日常性の分離を普遍的なものにまで組織するのは、近代国家である。そしてプロレタリアートだけが、この国家を廃棄しうるほどの生産力の水準を形成しうる。〔…〕〈部落〉や人種の分離は所有関係から直接規定されない。この分子はさまざまな起源をもっているが、近代社会にそれ自身の物的基礎を通常余りもたずに残存し、日常性の下位の水準を形成する。マルクスは、すべての日常性の分離を自覚的に解体しなければならないこのことを「プロレタリアートは全人類を解放することなしに自分を解放できない」と言った。毛主席が文革の中で少くとも三度以上、マルクスのこの言葉に注意をはらうよう指示したことは、周知のとおりである。

 これらの全体が、最大の問題としての〈吃飯問題〉ということだと私は考える。(「毛沢東の思想方法――日常性と革命」一九七〇年)

 

 津村にとって、「部落や人種」に対する「反差別」闘争が、決して現在のような倫理的なポリコレという「上部構造」にとどまるものではなかったことは、「〈部落〉や人種の分離は所有関係から直接規定されない」し、彼らは「物的基礎」を「余りもた」ないものの、この「分離」を真に「解体」するためには、やはりプロレタリアートによる全人類の「解放」が、つまりはマルクスが必要なのだと明言しているくだりからも明らかだろう。すなわち、所有関係や物的基礎を問わない倫理的なポリコレは、結局部分的な闘争に終わる。革命が全体性であるためには、食うこと=吃飯問題をつかむ革命が必要なのだ、と。

 

 おそらく、このとき、「文化」大革命という呼称が誤解を与えた。「文化」という言葉は、マルクス主義的にいえば表層的な「上部構造」の問題にすぎず、すなわちそれは単なる「改良」闘争であり、「権利擁護闘争」であり、当時の言葉でいえば「諸要求」路線と受け取られたのである。だが、津村が考えていた「文化」革命とは、「食うこと=吃飯問題」を中核に据えた文化=生活様式の革命であり、津村の言葉でいえば「スタイル」の革命だった(いまや通俗的な言葉としてある「ライフスタイル」なども、津村の日常性の「スタイル」の受動的革命だろう)。

 

政治的な行動様式をおしつけることは、むずかしいことではない。だがそれが、彼の生活様式にとって外的な政治的行動様式の共同性であるとしたら、それは持続しない、弱々しいものになり、もうすでにはっきり結果があらわれているように、少々さわぎをおこすことができるだけで、すぐに破産してしまうのである。なぜもっと盛大にさわぎをおこすことができないのか。〈飯を食い、話をする〉問題をつかまないからである。生活を組織しなければならないこと、要するに文化(生活様式)の革命ということを理解しないことが、現在の日本の革命闘争の主要な思想的困難である。

 

 「少々さわぎをおこすことができるだけで、すぐに破産してしまう」運動をいかにしてのりこえられるか――。いまだなお支配的なこの難問(つまりアナーキズムの全盛、支配)に、津村もまた直面していた。そうした「弱々しい」革命を強靭に持続していくために、いわば「食う」ことを、上部構造=文化へと進駐させようと目論んだのだ。それが津村の「持久戦」だった。むろん、それは、内容が形式を、ではなく、形式(スタイル)が内容(食う)を規定するというフォルマリスムであった。それは毛沢東主義につきまとう、農本主義的で日本浪漫派的なイメージを刷新するものだったはずだ。主要な生産力が異なるのだから、単に毛沢東のように農民に向かっただけではうまくいかない。もはや農業(のみ)に「食う」が規定されているわけではないからだ。津村は、「食う」を、農業の問題から、いわば世界資本主義の問題へと読みかえよう(=「活学活用」(毛沢東))としたのである。

 

 津村が、ニクソン田中角栄の訪中と、先を競うように掲げた左派ヘゲモニーによる「日中国交回復」が、岩田弘の「世界資本主義」論と並行していた戦略であったことを忘れるべきではない(すが秀実『1968年』参照)。津村にとっては、「食う」もまた世界資本主義の問題だった。だが、日中国交回復同様、それは理解されなかったのである(現在のように、中国の権威主義を民主主義陣営から批判を繰り返す(民主主義会議!)のは容易だが、それ自体が世界資本主義を、すなわち津村の「日中国交回復」の戦略を忘れさせる、世界資本主義を前提とした偽の問題設定だろう)。

 

今また〈高度成長〉の矛盾がさまざまな公害としてあらわれ、問題になって来ている。食品公害も問題になった。中国の場合〈吃飯問題〉とは本当にメシが食えないことだったが、ビキニ・マグロやチクロの場合は、メシがあっても食えない、ということだ。他方でコメがひどい余り方をして、減反のためにたいそうな予算を使ったりする。ここで毛沢東思想を活学活用しようというなら、なぜそうなるのか、本当の矛盾は何なのかキチンと暴露して、これが資本主義なのだ、もう本当にやっつけなきゃだめなのだ、ということを労働者大衆の胃袋にタタキ込むことが求められているのではないか。〔…〕これをさておいて、なんの「人民、ただ人民……」であろう。毛沢東思想を抽象的で常識的な教条にしてしまうことと斗わねばならない。

 

 津村は、単にインテリの空理空論を軽蔑して、より「実務」的で具体的な、人民の「食う」へと移行しようとしたのではない。それだったら、よくある「大衆」へ下りていこうとする、反知性主義的な転向の一形態にすぎなかっただろう。そうではなく、すでに「食う」ことも世界資本主義に包摂されており、であれば、世界資本主義を問題化しないかぎり、「食う」ことすら取り戻すことはできないと考えていたのである。もはや「食える/食えない」だけで「食う」問題を考えることはできず、現在、たとえ「うだうだ理論をこねるよりもとにかく今、我々の腹を満た」したところで、それ自体が世界資本主義の枠内に回収されて終わりだろう。津村を「活学活用」するには、まずは津村の「食う」が、単に大衆の「リアリズム」への転向ではなかったことを見る必要がある。

 

(続く)

 

ポピュリストの嘘と猥褻 その3

 イロニーは、その主張がそれとは別のことを意味する「確信」の「共有」をもってしか機能しない。だが、保田が、そのイロニーの命綱である「確信」という審級をも破棄してしまったとき、「保田のイロニーははたしてイロニーとして機能しうるのか?」(『近代のはずみ、ひずみ』)。

 

 このイロニーのリミットとしてのロマン的イロニーは、例の「戴冠詩人の御一人者」(一九三八年)に至り、ついに「自然=現人神」を砦としてイロニーの崩壊を防衛する方へと引き返していくほかはない。転向といってよいだろう。だが、「近代に生まれ落ちたヘルダーリンがその夢想した古代ギリシャ人のごとく健全無垢ではいられなかったと同じに、「嘘」において防衛されなければその自然はそもそもありえない。その「嘘」にこそ当為が内包されており、防衛とはゆえにイロニーの別名にあたる」。

 

 この時、「嘘」は「嘘」であることをやめた。「嘘」だとわかっていたからイロニーたり得たのであって、「嘘」を「自然」として設定してしまえば、もはやそれは「嘘」ではなくなる。にもかかわらず、「嘘=イロニー」たろうとすれば、それはもはや「嘘」という事実の陳述(コンスタティヴ)ではなく、「嘘を自然ならしめよ」、「嘘を真ならしめよ」とする「当為=パフォーマティヴ」という政治なのだ。

 

 ポスト真実=ポスト嘘を思考するなら、この保田のロマン的イロニーに戻って考えるべきである。長濱が言うように、「そこにあっては「主張」の言語がもはや「討論」のものでなく、「確信」のみならず「主張」までその意味を「透明化」せしめ、かくしてその「ことば」は二重に表層的な強度を獲得する」。イロニーのリミットにおいて、「その主張は「討論」を拒絶している」のだ。

 

 ほかならぬこの地点に、中井正一は、保田批判としての「討論の論理=委員会の論理」を差し向けるわけだが、これについては長濱の分析を読まれたい。ここで、改めて注目したいのは、あのアメリカ史上最悪と言われたバイデンとの討論会を待つまでもなく、まさにトランプ=ポピュリストの主張もまた「「討論」を拒絶している」言葉だということだ。それは、批判しても無駄な言葉として存在している。われわれはいま、この批判しても無駄な言葉に悩まされているといってよい。

 

 ユヴァル・クレムニッツァーは、今日ポピュリストが行なっているゲームは、リベラルな政治空間の「代表制の論理」の内部にとどまりながら、代表制の論理ではとらえられない嘘を暴露するので、リベラルはこれを批判することができないという。「右派によって暴露された真実――象徴秩序は暴力的な現実を隠蔽するための聖人ぶった外観に過ぎないことの発覚――は、批判的思考の反イデオロギー的な計略と調和する。だから批判ではこれに対抗できないことをリベラルは思い知るのだ」(『The Emperor’s New Nudity:The Media,the Masses,and Unwritten Law』)。

 

ジジェクはしたがって、ポピュリストの猥褻な〈主〉の暴露は、「リベラルの中立性という錯覚のポリコレ的な暴露」と「お互いに補完しあって、補強し合っている」と主張する。だが、ポピュリストとポリコレは、いかなる意味において補完的なのか。

 

ポリコレという態度の致命的な欠陥を理解するには、ラカン派による〈喜び(pleasure)〉とそのトラウマ的過剰である〈享楽(jouissance)〉との区別を考えざるを得ない。単刀直入に言えば、ポリコレの規則が排除しようとするものは、〈喜び〉ではなくそのトラウマ的次元にある〈享楽〉、喜びと苦痛、欲望と暴力の混合としての〈享楽〉である。(『パンデミック2』)

 

 民主主義的な平等のもとでは、「喜び」を全員が同じように得られなければならないのだから、他者の必要以上の喜びは奪われるべき、となる。だが、上のレベルで喜びを平等に均すのが困難である以上、そのためには、逆に下のレベルで均すべく平等に「禁欲」を強いるほかない。かくして、喜びの平等は反転して、平等な禁欲が命令として発動されてしまうのだ。「楽しめ!」(イベントでもライブでもスポーツでも、今やどこでも「楽しんでいって!」と命令される)には、同時に「だが必要以上には楽しむな!」が含意されているのだ。こうして喜びの平等は、いつしか平等な状態からの「享楽」の「盗み」を暴力的に糾弾するという、嫉妬の爆発を招き寄せてしまうのである。こうして、ポリコレは不可避的に「抑圧」へと転じる。

 

ポリコレはすべての人に欲望の表現を保証する建前になっているが、実際は従来の抑圧よりも圧制的である。ただ、ある非常に強い欲望は、ポリコレの中でも生き残る。それは犯罪行為を探し出したい、あらゆる所で人種差別や性差別の悪魔に嫌疑をかけたい、絶滅させたいという欲望である。この欲望は分厚い規則のネットワークによって保持されていて、この規則の違反こそ本当に禁止されている。

 

 ポリコレは、この「分厚い規則のネットワーク」を前提にしなければ成り立たない。この抑圧的な「規則」を全員一致で受け入れよ、という「マゾヒズム」が機能していなければ、ポリコレは崩壊する。「ポリコレの態度は当然マゾヒズムも受け入れるのだが、厳格に同意にもとづく形でなければならない。はっきりと同意を示さなければ、相手を打つなど許されない」。

 

 では、ごく素朴に問おう。だが、「マゾヒズム」が「同意」されなかったら、どうなるのか。

 

しかし、諸事がごちゃまぜになった場合は、どうするか。求めるものが同意の形にまとまらないグレーゾーンがあったら、どうなるか。たとえば、自分の同意に反して、同意なしに打たれたり辱められたりしたいとしたら、明示的に同意すればすべて台無しになってしまうような状況だとしたら。そして、〈享楽〉がまさにこのグレーゾーンに存在するとしたら……。

 

 ポリコレは、このマゾヒズムが「同意」されなければ機能しない。だが、「喜び」と違って「享楽」とは、常にすでに共有不可能な「グレーゾーン」にしか存在しないやっかいなものなのである。ここで、われわれは、あの(その2で見た)「確信」の「共有=同意」なき、保田のロマン的イロニーへと連れ戻されることになる。

 

 保田のロマン的イロニーが、古典を称揚する「嘘」を、「自然ならしめよ」、「真ならしめよ」というパフォーマティヴな命令=政治であったように、ポリコレの主張もまた、「禁欲」という抑圧的な「規則のネットワーク」を、マゾヒズム的に受け入れよ、同意せよという政治にほかならない。『マゾッホとサド』のドゥルーズを待つまでもなく、マゾヒズムとは相互的な「契約」なのだ。しかるにポリコレは、「契約」を結ばない他者を、他者として応接するのではなく暴力的に糾弾する。このようなポリコレのスタンスが、先に見た保田同様、下手をすると、トランプ=ポピュリスト以上に「「討論」を拒絶している」(長濱)ことは、言うまでもないだろう。ポピュリストとポリコレが、相互補完的であるゆえんである。

 

かくしてポピュリズムと〈政治的公正〉は、ヒステリーと強迫神経症との古典的な区別と重なる二つの相互補完的な嘘の形式となる。ヒステリーのひとは、嘘のかたちを借りて真実を語る(語られた言葉は字義どおりにとれば真実ではないが、この嘘は嘘のかたちを借りて本当の不満を表現している)。それに対し、強迫神経症のひとが主張することは、真実を字義どおり語っているが、それは嘘に奉仕する真実である。〔…〕ポピュリストの反抗は、真正の不満や真正の喪失感を外部の敵のほうにずらしてしまう。それに対し〈政治的公正〉を旨とする左翼は、〈政治的公正〉の要点(言葉における性差別、人種差別をあばくことなど)を利用することで、みずからの倫理的な優位性をあらためて主張し、またそれによって真の社会的、経済的変革を頓挫させる。(ジジェク『絶望する勇気』)

 

 われわれが、いかんともしがたくドレフュス革命以降の「嘘の形式」=「嘘言の構造」(中井正一)の上にいる以上、ロマン的イロニーも、ポピュリズムも、ポリコレも、必ず「嘘」の主張を「真ならしめよ」と、他者に同意の強要を迫る言説たらざるを得ない。つまり、それは「討論」を拒絶した暴力を免れないということだ。

 

 問題は、いかにその一歩手前で「後退」(レーニン)し、寸でのところで身を「はず」ませ(長濱)ることができるか――。まさにクリティカルな現在だが、そこからしか、討論、議論する言葉は奪還されないだろう。

 

中島一夫