三島由紀夫の「政治と文学」

 

 三島由紀夫は、共産主義の「粛清」を、カトリックのエロティシズムとパラレルに捉えた。

 

仮に、言論の自由表現の自由をエロティシズムの領域に限ってみても、私はかねがねエロティシズムの問題と宗教の問題を最も賢明に解決したのは、カトリックであると思っている。カトリックの考える人間の性の観念は、あたかも薄い盆の上に水を湛えて人に持って歩かせるようなものである。ちょっと手が揺れれば、水は盆から零れてしまう。そして、そのごく薄い盆の上に湛えられた水こそは、正常な夫婦間における、生殖を目的とする、正常位による性行為なのである。人間がどうしてこれに限局されようか。しかもカトリックが、盆から零れた水を懺悔によって救い上げ、水を零してかえりみぬ人たちを異端として糾問したことは、共産主義の「自己批判」や「粛清」に正確に照応している。もしその許容範囲を少しでも広げれば、人間性のエロティシズムは、その自然から得た力によってついには快楽殺人(ルストモルト)にまで及んでゆくものだからである。(「自由と権力の状況」一九六八年十月)

 

 性行為を「正常な夫婦間における、生殖を目的とする、正常位による」ものに限定し、それ以外の性的自由を認めないカトリックの掟からすれば、世俗的なわれわれは、ほぼ全員が変態の裏切り者として異端「糾問」だろう。

 

 三島にとって、エロティシズムは、カトリックの厳格な戒律があってはじめて存在する。掟を破れば罪になる。罪を犯した者は、いやでも神に直面せざるを得ない。そして、エロティシズムとは、そうした過程をたどって、いわば裏側から神に到達することだ、と。

 

 むろん、三島の『サド侯爵夫人』のテーマだが、それについては別稿で論じたので措く。三島にとっては、エロティシズムも革命も、絶対者にかかわらない限りあり得ない。カトリックの異端糾問やスターリン主義の粛清において、裏側から絶対者=神に触れてしまうことによって、はじめてそれらはエロティシズムであり、革命たり得るのだ。これは、前回の記事で見たジジェクの論点――粛清=裏切りがあってはじめて革命が証明される――と同型のロジックだろう。

 

 三島は、合理主義的で相対主義的な世界における、例えばフリーセックスなどにはエロティシズムを認めなかった。それは、どんなにアナーキーなセックスであろうと、絶対者にかかわらない限り、抵抗が不在だからである。もし神がいないなら、神を復活させねばならない、というのが三島の「革命」である(ここから「文化概念としての天皇」が要請されるが、これも今は措く)。だから、とうとうゴドーが出てこない『ゴドーを待ちながら』を、「けしからん」と一蹴した。

 

 三島にとっては、フリーセックス=アナーキズムなど、程よい秩序に飼い慣らされたフリー=自由にすぎない。

 

フリー・セックスの行手に、もし快楽殺人(ルストモルト)が許されるならば、この瞬間に国家体制は破壊されるであろう。と同時に、このような政治における快楽殺人(ルストモルト)は、アナーキズムの誘惑と常に踵を接している。政治上のアナーキズムとは、エロティシズム上のルストモルトと相接近した観念であって、地上に実現されずサドのように牢獄の中における幻想裡でしか実現されぬ理想的観念なのである。(「自由と権力の状況」)

 

 むろん、この自由は、冒頭の引用のとおり「言論の自由」「表現の自由」は言うまでもなく、昨今また浮上している「学問の自由」なども含めて全体に関わる問題である。言論の自由は、あらゆる保護や干渉、すなわち政治を「悪」とし「敵」とみなし、「人間性」を自由に解放しようとする。それは、「アナーキズムの誘惑と常に踵を接している」のだ。そうなれば、人間世界は崩壊し恐ろしいことが起こるから、「「人間性の解放」という美名で呼ぶのである」。

 

 果たして、自由やアナーキズムを叫ぶ者は、本当にそこまで腹をくくっているのか。そこには、自由やアナーキズムとは、それを「言ってしまっては身も蓋もない言葉であるという意味では、あたかもルストモルトと同じである」という三島の怯えがない。言論の自由とは人間性の無差別な解放なのであり、何もマイノリティだけの特権ではない。マジョリティや権力者の自由だろうが、ダーク(ウェブ)な破壊衝動だろうが、すべてが解放されなければならない。いわば、言論の自由とはパンドラの箱なのだ。

 

 パターナリズムを批判するのは簡単だが、三島の言うように、保護と加虐は一体であり、後者のみ退けて前者を適度に求めるのであれば、その状況こそがパターナリズムだろう(三島はそうした状況を、今なら完全にPC的にアウトな「われわれは女子供と学生の時代に生きている」という言葉で語った)。

 

 三島はチェコ事件が起こった時、このように「自由と権力の状況」をつきつめて考えざるを得なくなった。それが三島の「68年」であり、三島ほどこれに震撼させられた者もいないのではないか。

 

 もし、あのときソ連チェコに介入(パターナリズム!)していなかったら、どうなったか。おそらく、ジジェクの言うように、「チェコ共産党指導部が制圧に乗り出さねばならなくなり、チェコスロバキアは(以前よりもリベラルな、真の)共産主義体制を維持していたか、あるいは、チェコスロバキアは西側のような「正常な」(おそらくスカンジナヴィア的な民主主義の風味をきかせた)資本主義社会に変わっていたかのどちらかであ」っただろう(『全体主義 観念の(誤)使用について』)。チェコソ連の加虐を退けようとするならば、同時にソ連の保護も一切期待してはならない。共産主義の粛清を退け、言論の自由を求めるならば、同時にそれは究極、快楽殺人(ルストモルト)をも許すことを覚悟しなければならない。三島は、チェコの二千語宣言について言う。

 

だからまた二千語宣言が、「真実は勝利するのではない。真実はただ他のものがすべて消耗してしまった時にあとに残るのである!」と言っている、その言葉こそわれわれの胸を打つのである。何故ならば、他のものがすべて消耗してしまった時代にわれわれはいま生きているのであり、これはチェコひとりの運命ではないからである。そして、われわれが救出しようとする真実は、人間性の側にあるのか、あるいは政治体制の側にあるのか、という最大の二律背反に、チェコは直面していなかったように思われる。何故なら、そこにこそわれわれの時代の政治と文学の、最大の恐ろしい難問がひそんでいるからである。(「自由と権力の状況」)

 

 

 

 共産主義が失効するということは、「われわれが救出しようとする真実は、人間性の側にあるのか、あるいは政治体制の側にあるのか、という最大の二律背反」に切り詰められることを意味する。その「他のものがすべて消耗してしまった時代にわれわれは生きているのであ」る。ここでは、奥野健男が「『政治と文学』理論の破産」(一九六三年)で三島『美しい星』に見た、「政治の中での文学」ならぬ「文学の中での政治」など、もはや「消耗してしまっ」ている。

 

 平野謙荒正人ら「近代文学」派は、スターリン主義(政治)の粛清を退けてもなお、「主体性」(論)という「真実」(文学)は残ると考えた。福田恒存は、「九十九匹」(政治)に回収しきれない「一匹」は、文学という「真実」によってしか救うことができないと考えた。それが彼らの「政治と文学」であった。だが、三島にとって「68年=チェコ事件」とは、「他のものがすべて消耗してしまった時にあとに残る」「一匹」の「真実」すら「消耗してしまった」出来事にほかならない。ならば、文学も政治もどうして存在し得るだろう。

 

 三島にとっては、政治も文学も「百匹」である。言い換えれば、政治=全体主義と、文学(文化)の全体性が、互いに「全体」(百匹)を独占しようと「二律背反」的に対峙しているのである。

 

そもそも文化の全体性とは、左右あらゆる形態の全体主義との完全な対立概念であるが、ここには詩と政治とのもっとも古い対立がひそんでいる。文化を全体的に容認する政体は可能かという問題は、ほとんど、エロティシズムを全体的に容認する政体は可能かという問題に接近している。

 左右の全体主義文化政策は、文化主義と民族主義の仮面を巧みにかぶりながら、文化それ自体の全体性を敵視し、つねに全体性の削減へ向うのである。言論自由の弾圧の心理的根拠は、あらゆる全体性に対する全体主義の嫉妬に他ならない。全体主義は「全体」の独占を本質とするからである。(「文化防衛論」一九六八年九月)

  

 これこそが、「われわれの時代の政治と文学の、最大の恐ろしい難問」、のり越え不可能なアポリアである。コロナ禍において、世界的に全体主義がリアルになっている。民主主義でこれに対抗することはできない。なぜなら、三島が言うように、「民主主義は、他のあらゆる政治体制と同様、人間性の味方ではなくて、人間性に対応する政治悪の最小限な必要悪としての表現」であり、「人間性と政治秩序との間の妥協」(「自由と権力の状況」)にすぎないからだ。それは、適度な秩序に飼い慣らされながら自由を主張しているにすぎず、三島が見た「他のものがすべて消耗してしまった」地点からはるかに後退している。

 

中島一夫

 

革命それ自体の転向について

 前回の記事の続きにもなるが、平野謙は、スターリン主義の粛清を「野蛮なアジア的後進性の特産物」とみなしていた。つまりそれは、「ナチス・ドイツの近代的な野蛮性」とは違う何かである、と。「『夜と霧』の悲惨は決してアジア的後進性の特産物ではない」(「粛清とはなにか」(一九五七年)。

 

 スターリン主義の野蛮さは、西欧近代的な「個人主義の論理」で捉えられるものではなく、スターリン個人やらブハーリン個人やらを「一様にまきこんだ組織の自転的な力学」としか言いようのないものではないか――。「その自転的な力学とは、具体的には、第一次五カ年計画の遂行に際会して、人民抑圧の機関と化した秘密警察の自己増殖以外にあるまい」と。ここから平野は、「組織と個人」論を展開していく。それが、「組織」一般へと平板に還元してしまった伊藤整福田恆存のそれとは根本的に異質であったことも、すでに述べたとおりだ。

 

 だが、平野が、スターリン主義の粛清の要因を、「五カ年計画」や「アジア的後進性」に求めたことは、伊藤や福田とは別の意味で「還元」だった――資本主義(の不均等発展)や帝国主義の問題への――こともまた否めない。例えばジジェクの議論は、その平野の視点からは漏れてしまうものに触れていよう。

 

 ジジェクは、スターリン主義的な党の問題は、人々を人間的な感情を喪失した「機械のような」「恐るべき自動人形」にさせることではないという(『全体主義 観念の(誤)作用について』二〇〇二年)。むしろ、そのように捉える「ヒューマニズム的な誘惑に抵抗」しなければならない、と。

 

 平野がスターリン主義に「自転運動」「自動的な力学」を見た視点を、ジジェクは「ヒューマニズム」と否定しているわけだ。そしてそこに、例によって、ある「倒錯」を見る。

 

さらに適切な例はもちろん、人間を愛しているにもかかわらず恐ろしい粛清や処刑を行う〈スターリン主義共産主義者〉である。粛清や処刑を行うとき彼の心は張り裂ける。しかし彼はそれをせざるをえない。それは〈人類の発展〉に対する彼の〈義務〉なのである……。われわれがここで出会うのは、大文字の〈他者〉の〈意志〉にしたがう純粋な道具という立場に立とうとするきわめて倒錯的な態度である。つまり、これは私の責任ではない、実際にそれを行ったのは私ではない、私は高次のレヴェルにある〈歴史的必然〉の道具にすぎない、という態度である。この状況において猥褻な〈享楽〉を生み出しているのは、私が自分のしていることに対して責任を感じていないという事実である。たとえば、私には責任がない、私は〈他者の意志〉の代理にすぎないと認識したうえで他人を痛めつけることができるなんて、すばらしいことではないか……という具合に。これこそ、カントの倫理学が禁じていることである。(『全体主義』)

 

 ここでは、スターリン主義的な「組織」(九十九匹)においては、「個人」(一匹)の「責任」)は存在しないというような単純な見方が退けられている。ジジェクは、スターリン主義的な粛清にサドの倒錯を見る。もちろん、そのとき、ラカンの「サドはカントの真理である」がふまえられているのだが、重要なのは、それは単純に「カントの裏はサド」という意味ではないということだ。カントの冷酷さとサドの冷酷さは違うのである。というか、そのようにラカンは見なしたということだ。

 

ここで導くべき結論は、サドは残忍な冷酷さに徹し、カントは人間的な思いやりをいくぶんか考慮せざるをえない、ということではない。それとはまったく逆のことである。つまり、実際に冷酷(無感情)に徹しきっているのはカント的な主体だけであり、一方サディストはじゅうぶんに「冷酷」ではないのである。サディストの「無感情」は偽物である。それは〈他者〉の〈享楽〉への熱烈な奉仕を隠蔽するおとりである。

 

 そして、カントとサドの差異――カントには不在の(パトローギッシュな?)サドの享楽という倒錯――をふまえて、レーニン主義スターリン主義の関係を次のように捉え直す。

 

そしてもちろん、同じことはレーニンからスターリンへの移行についてもいえる。革命的、政治的分野においてラカンのいう「サドとともにカントを」に対応するのは、まちがいなく「スターリンとともにレーニンを」である。スターリンの存在があってはじめて、レーニン的革命主体は、大文字の〈他者〉の〈革命〉の倒錯的な対象―道具に変わるのである。

 

 「スターリンとともにレーニンを」。すなわち、スターリン主義の粛清の享楽があってはじめて、レーニン的革命主体は真の「それ」になることができる。絶え間ない粛清があってはじめて、かつて体制の起源に「真の」革命があったことを、体制に刻印し続けることができるのだ。ここに、粛清の暴力に、(アジア的後進性の上にたつ)「組織」の「悪」しか見ることのできなかった平野の限界がある。

 

しかし、〈共産党〉が党員に加えたこの暴力は、体制のはらむ解消不可能な自己矛盾を――体制の起源においては「真正の」革命的プロジェクトが存在したという事実を――物語っている。つまり、絶え間ない粛清は、体制自体の起源の痕跡を消すために必要であるだけでなく、ある種の「抑圧されたものの回帰」として、体制の核に残留する解消不可能な否定性として必要なのである。〔…〕したがって、スターリン主義的粛清は、たんなる〈革命〉に対する裏切り――真正の革命という過去の痕跡を消す試み――ではない。むしろそれが物語っているのは、革命以後の新しい体制が〈革命〉に対する裏切りを自らの内部に(再)刻印することを強いる、つまりその裏切りを〈ノメンクラトゥーラ〉全員にとって脅威であった独断的な逮捕や殺戮という装いのもとに「再―銘記」することを強いる、「天邪鬼」のようなものである。〔…〕踏みにじられた革命の遺産は、ほかならぬ粛清という形で存続し、体制に取り憑くのである。

 

 ここでは、粛清という暴力は、むしろ革命の証明である。誰もが革命への裏切りの可能性を内に秘めている。そうみなされることで、革命という起源が担保される。革命があったからそれへの裏切りがあるのではない。裏切りがあるから革命があったのだ。だから、裁判では、粛清の対象になった者が、自ら裏切りの理由を考えださねばならない。言われるように、それはある日突然「審判」を受け、しかもこの審判=門は「お前のためだけのものだ」と言われてしまうカフカ的世界である。裁かれる理由はお前自身が考えよ、法=門はお前に何も求めていない――。

 

 ジジェクが言うように、したがってナチズムの「不合理」とスターリン主義の「不合理」とは決定的に異なる。ナチズムにおいてはユダヤ人であることが粛清の理由だが、スターリン主義にはそんな「差別」は存在しない(革命的!)。それは、いつでも誰でも無差別に粛清され得るという「天邪鬼」が、社会全体に浸透している世界である。東浩紀は、それを「確率性」の支配と呼んだ。

 

 それは、革命が、歴史の「必然」ではなく、偶然で「確率的」な次元へと転倒した世界である。反スターリン主義に規定された「68年」以降の世界といってもよい。ここでは、革命それ自体が「転向」しているのである。言い換えれば、世界に確率性=天邪鬼の位相を導入したスターリン主義(の粛清)は、そのまま反スターリン主義へと不可避的に反転したのだ。述べたように、粛清自体が革命の証明だったからである。しかし、それは何と反革命的な証明だったことか。以降、「確率的」な「出来事」や、歴史の必然なき「決断主義」が、革命の「条件」へとせりあがってくることになる。

 

中島一夫

 

福田恆存の「政治と文学」その3

 福田の「政治=九十九匹」は、従来の「政治と文学」における「政治=マルクス主義」からすでに転換している。「ぼくがこの数年間たえず感じてきた脅威は、ミリタリズムそのものでもなければナショナリズムそのものでもなかった――それはそれらの背後にひそむ個人抹殺の暴力であり、その意味においてボルシェヴィズムにも通ずるものであった。〔・・・〕ぼくのわずかになしえたことといえば、ロレンスの『黙示録論』を訳すことにすぎなかった」。

 

 それは左右を問わない「政治」的集団や組織を指していた。六年後(一九五三年)のスターリン死去の年、伊藤整によって「組織と人間」として定式化される問題である。コミュニズムの社会であろうと資本主義の社会であろうと、「九十九匹=組織」の中にいるかぎり、「一匹」の自由や人格、すなわち一人の「人間」の「真実」(伊藤)は存在しない――。

 

 以降、「文学」は根本的に「九十九匹」の中に居場所をもたない「一匹」の実存をあらしめる「表現」となった。福田はそのことを、マルクスをふまえて「文学は阿片である――この二十世紀において、それは宗教以上に阿片である」と言った。福田以降の「文学=一匹」は、だから通俗化したマルクスなのである。一見無縁に見えようとも、述べてきたように、それもまた「政治と文学」の文脈にある。

 

 この福田―伊藤の問題の端緒は、平野謙の「ひとつの反措定」や「政治と文学」(ともに一九四六年)によってすでに開かれていたといえる。平野は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』におけるイワンのアリョーシャへの高名な問いかけ――「お前が最終的に人々に平和と平安を与える人類の運命という建物を建てるとする。ところがそのために、ほんのちっぽけな子を苦しめなくてはならないとしたら、これに同意するか?」――をふまえて言う。

 

このイワンの設問とそれに対する二様の答え、そこにレーニンドストエフスキーという二人の天才の岐れ路がある。単に天才だけではない。なべてここを分水嶺に、政治家と芸術家、実践人と観念人、リアリストとロマンティケルとがそれぞれの星まわりと気質とを抱いて、各自の宿命をたどってゆく。イワンの問いはいわば人類永遠の問題である。ファシズムの時代でもデモクラシイの時代でも、よしコムミュニズムの時代になろうと、この設問の孕むプロブレマティックはその光を失うものではない。(「政治と文学(二)」)

 

 レーニン(政治)とドストエフスキー(文学)の「分水嶺」――。

 そもそも、ロレンスが『黙示録論』を書いたのも、このイワンとアリョーシャの対話の影響だった。個人的自我(ちっぽけな子)と集団的自我(人類の運命)の二律背反の問題である。この二律背反は、福田恆存の「一匹」と「九十九匹」、柄谷行人の「単独性」と「一般性」、さらにいえば、以前も書いたように、東浩紀の「具体性=根源的」と「確率的=非根源的(「ソルジェニーツィン試論」一九九三年。この東のデビュー論文のベースにあるのも、カラマーゾフの一節だ)へと変奏されていくことになる。

 

 重要なのは、彼らが「一匹=文学」と「九十九匹=政治」の二律背反を考えなければならなかったのは、「政治」(大衆)と「文学」(知識人)の間に分割線が引けなくなったからだということである。それが「知識人―大衆」という図式の崩壊した「アポカリプス=終末」という事態であった。平野謙が、絶対に論争したくなかったとこぼした中野重治を相手に戦後「政治と文学」論争に踏み出せねばならなかったのも、レーニンドストエフスキーとを分けた「政治」と「文学」との分割線が、すでに引けなくなりつつあったからにほかならない。だからこそ、「政治=組織」の犠牲者として「文学」者の小林多喜二火野葦平とを表裏一体にながめるという、いわば「炎上」覚悟の「ひとつの反措定」をあえて提起せねばならなかったのだ。述べてきたように、この「反措定」やそれによる論争がなければ、この文脈の中に表れた福田の「一匹と九十九匹と」や『黙示録論』翻訳が、西部邁柄谷行人といったブントをはじめ、吉本隆明東浩紀に至るまで、あれほどまでのインフルエンサーになることはなかった。

 

 知られるように、平野の文学史観では、「政治と文学」を回転軸として、「昭和」文学は「昭和」十一年ごろを境にして前期と後期にはっきり区分される。前期は「労働者運動の一翼たるマルクス主義文学側の「政治と文学」の問題提起」、後期はマルクス主義の退潮とともに「軍閥、官僚、それをとりまく「革新的」文学側からの「政治と文学」―文芸統制」が、それぞれ重心をなす。

 

 平野が言うように、「前期における「政治」概念と後期における「政治」概念とはまるで正反対である」。だが、「政治と文学」の問題を真に考えるなら、いくら都合が悪かろうと、後期の「政治」を前期の「政治」とは別物だからといってオミットすることはできない。しかも、後期の「政治」概念もまたマルクス主義であったことは、今日明らかなのだ。後期の「革新的」文学のベースにあったのは、講座派から出てきたいわゆる生産力理論、すなわちソ連五か年計画をモデルとする総力戦体制=統制経済にほかならなかった。それが「民主主義(革命)文学」と呼ばれたのである。この講座派イデオロギーによる「民主化」は、戦後GHQの占領政策にも引き継がれ、それがいわゆる「戦後民主主義」を規定していくことになる。占領軍を解放軍とみなす「誤認」もここから出てきた。

 

 戦後「政治と文学」論争においては、少なくとも平野の側からみれば、中野がこの後期の「政治」を歪曲しようとしているように見えた。中野が、講座派的な二段階革命論に則り、「プロレタリア文学の当面する主要課題を「ブルジョア民主主義革命」の遂行と規定」し、「プロレタリア文学をその活字面の上でいかにして今日の民主主義文学にまでつなぎあわせ、それを「運動の正規の成功、発展」として押しだすかに、中野重治の現実の関心はかかっていた」ようにみえたのである(「「政治の優位性」とはなにか」一九四六年)。だが、真に「政治の優位性」というのなら、その誤謬や退潮を見ないようにして「「運動の正規の成功、発展」として押しだす」のではなく、それらもふまえたうえで発展させていくべきではないのか――。

 

 このように捉えてみることで、平野が中野との論争において、何を問おうとしたのかが見えてくる。平野は、後にフルシチョフによる、いわゆる「スターリン批判」を批判した(「粛清とはなにか」一九五七年)。フルシチョフは、専らスターリンの個人悪から粛清を説明しているが、平野は、粛清工作をスターリン個人の残忍な権勢欲から説明しきれるものではないという。

 

あえていえば、私は粛清工作と第一次五カ年計画とをなるべくくっつけて、そこに一種の因果関係をたどりたいのである。くりかえせば、私は中世の魔女狩りにも匹敵する粛清を、スターリン個人の恣意に限定したくない。いかにもスターリン個人は重大な因子にちがいないが、そのスターリンをもまきこんだまがまがしいメカニズムの自転運動みたいなものが作用し、その自転作用はもはやスターリン自身といえども抑制することができなくなった、とみたいのである。そして、そのような運動の起点を私は第一次五カ年計画の苛酷な遂行にさだめたいのである。(「粛清とはなにか」)

 

 もちろん、ほぼトリアッティそのままである。「帝国主義諸国の重囲のうちに、一国社会主義を建設してゆかねばならなかったところに、いわゆる一枚岩的なスターリン主義の本質があった〔…〕それは西欧流の個人主義的論理ではどうしても割りきりにくいものだった」と。平野の「組織と個人」論が、左も右も同一視した福田恆存伊藤整の議論と決定的に異なるのは、このようにスターリン主義の粛清が、スターリン「個人」の問題ではなく、「スターリン主義がアジア的な後進性にふかく依存し」た「組織」であったことをふまえているということだ。

 

 おそらく平野が、粛清と五カ年計画を「個人」ではなく「組織」の問題として捉えようとしたのは、先に触れたように、マルクス主義講座派が、その五カ年計画を参考に戦時中の生産力理論=総動員体制へと乗り出していった「政治」を、それらとパラレルに捉えようとしたからだろう。すなわち、スターリン主義の「組織」に西洋的な個人主義では割り切れないアジア的後進性を見る視点は、翻って日本の「半封建的」な後進性から醸成される「政治」をも捉えようとするものでもあったのである。一貫して知識人(プチブルインテリゲンチャ)論を保持し、したがって福田や伊藤のように「大衆」の位相を捉え損なった平野は、そのかわり「半封建的」な後進性が、「迷える」ことをも許さない、「一匹」を抹殺する「政治」を生み出す「組織」(「スターリンをもまきこんだまがまがしいメカニズムの自転運動みたいなもの」)として作用することを見出したのである。

 

 平野は、このアジア的後進性における「マルクス主義=政治」の問題をトータルに捉えようとした。だからこそ、一見正反対に見える「昭和」十一年を境に前後半で転換した政治を、あえてひと続きの「政治」とみなし、小林多喜二火野葦平を表裏一体に見るという「暴挙」に出たのである。だがこうしてみてくれば、それは、「極東の「半封建的」な島国の住人たる私たち」の「資本論に反する革命」(グラムシ)を捉えようとした、平野なりの「革命運動の伝統の革命的批判」(中野)ではなかったか。

 

 少なくとも、ここには、「半封建的」な後進性が、すんなり「民主主義(革命)」には接続し得ない「何か」への視点があった。それは、論争相手の中野からも、同じ陣営にいた福田や伊藤からも、消え去ってしまった「もの」である。おそらく、平野は、これに対する「反措定」の契機を、すでに一九三四年の「リンチ共産党事件」の際に見出していた。平野は、半封建的な後進性を、粛清やリンチといった「暴力」の問題として感受していたのである。

 

中島一夫

 

福田恆存の「政治と文学」その2

 福田恆存は、「一匹と九十九匹と」や「人間の名において」(いずれも一九四七年)によって、主に中野重治荒正人平野謙との間で繰り広げられた、いわゆる戦後「政治と文学」論争にコミットした。

 

 特に「一匹と九十九匹と」は高名だが、福田はそこで、ルカ伝の「なんじらのうちたれか百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失わば、九十九匹を野におき、往きて失わせたるものを見いだすまではたずねざらんや」という有名な一節を、「このことばこそ政治と文学との差異をおそらく人類最初に感取した精神のそれである」と捉えた。

 

革命を意図する政治はそのかぎりにおいて正しい。また国民を戦争にかりやる政治も、ときにそのかぎりにおいて正しい。しかし善き政治であれ悪しき政治であれ、それが政治である以上、そこにはかならず失せたる一匹が残存する。文学者たるものはおのれ自身のうちにこの一匹の失意と疑惑と苦痛と迷いとを体感していなければならない。(「一匹と九十九匹と」)

 

 文学は、政治の見逃した一匹を救いとることができる――。

 戦後「政治と文学」論争において、それに対して批判的ながらも、なお「政治(マルクス主義)の優位性」から自由になりきれず、その「内部」にあった荒や平野ら「近代文学」同人に対して、この福田の一文が、「政治」批判としてはるかに歯切れがよく、いわば「外部の一撃」として響いたことは容易に想像できる。相手陣営の中野重治が、思わず福田を「荒の直接の弟子」呼ばわりしたのも分からないではない。

 

 ここで福田の言う「九十九匹」を救う「政治」が、『黙示録論』においては「衆の心=集団的自我」と呼ばれていたことは言うまでもない。福田にとっては、戦前から問題は地続きだった。

 

 福田が、あえて「外部」から戦後「政治と文学」論争に関わっていかざるを得なかったのは、共産党の講座派歴史観に基づく革命の第一段階である、「民主主義革命=戦後民主主義」が無視できなかったからだろう。民主主義(革命)における「衆の心=集団的自我」の実態に絶望したロレンス『黙示録論』に影響された福田としては、戦後民主主義革命が結局ナショナリズムにすぎないように見えたことは、避けて通れない問題だった。

 

 当時、似たような思考は、論争を離れてある程度共有されていたといえる。例えば大岡信が『うたげと孤心』という言葉で捉えようとしたのも、同様の問題だろう。

 

私は一九四五年八月十五日に中学三年生として日本の敗戦を経験した世代に属するが、少年は少年ながらにあの当時感じていたある覚醒の経験が、このような問題を意識させた大きな要因だったと思っている。つまり、戦中の軍国主義合唱のうたげが、あっというまに戦後の民主主義合唱のうたげに変貌するのを肌身に感じたときの奇怪な感覚が、その後ずっと消え去ることなく続いて、〈うたげと孤心〉という主題を私の中に用意したのであるらしかった。(「この本が私を書いていた」同時代ライブラリー版『うたげと孤心』に寄せて)

 

 大岡のいう「うたげ」が福田の「九十九匹」、「孤心」が「一匹」に当たることは明らかだろう。実際、『うたげと孤心』の岩波文庫版解説を書いた三浦雅士は、大岡の問題意識が、一九五〇~六〇年代のマルクス主義=政治に対する批判であったことは否定できないと言っている。

 

 福田の「一匹と九十九匹と」という問題設定は、当時福田にとどまらないものだったのであり、その後の思想にも大きな影響を与えていくことになる。

 

呉智英「ただ、福田がおもしろいと思うのはね、戦後民主主義のひとつ前の原型は、〝マルクス主義の薄まったもの〟いわゆる通俗マルクス主義だよね。で、その通俗マルクス主義のもうひとつ前、前身はというとこれは、キリスト教文化になってくるわけで、福田の場合、このキリスト教批判からやっているということね。有名なD・H・ロレンスの『アポカリプス論』を戦争直後に翻訳した頃から、キリスト教的な「憎悪の構造」について、彼はずっと批判しているわけで。」

すが秀実「そう。戦後しばらくして書かれた「一匹と九十九匹と」、あれはまさに、戦後民主主義批判なわけですよね。〝九十九匹より一匹にかける〟というニュアンスでもって、いわゆる全員一致にはかけないという。だから福田がブントに影響を及ぼした部分ってのは、実はある。」

呉「ある、ある。」

すが「これは最近、ブントの指導者に一人だった西部邁が「福田恆存論」を書いているし、柄谷行人なんかも個人的にはそういうことを言っているのを聞いたことがある」。

呉「福田はだから、吉本にも影響を与えているわけですよ。吉本の「マチウ書試論」ってのは明らかに今言った『アポカリプス論』に触発されて出てきたもんだから。そういうパースペクティヴの長さということから言っても、福田恆存が朝日的な進歩主義、水増しされた通俗マルクス主義に対して、いちばんノンを唱えているという気がする。」(別冊宝島『保守反動思想家に学ぶ本』一九八五年)

  

 ちなみに、この『保守思想家に学ぶ本』の巻末には、「保守思想家之閻魔帖」という一覧表がある。上の呉とすがに加えて、三上治高橋順一の四名が、名だたる「保守反動思想家」らを、「学ぶべき点」から◎〇△✕で採点しているのだが、その中で、柳田国男三島由紀夫を抑えて、唯一四人とも◎を与えているのが福田恆存なのである。本書を初めて読んだのは、福田をまともに読んだこともない学生時代だったと記憶するが、その頃から、福田というのは、当時ラジカルと言われていたあの西部邁柄谷行人吉本隆明にまで影響を与えた人物なのかと内心驚いたものだ。

 

 前回に述べたことを繰り返せば、福田は、それまで、例えば平野謙などの知識人論には欠落していた大衆(衆の心)を問題化しようとした。それまでの知識人―大衆という図式における「大衆」は、知識人(イエス)によって「個の心」を陶冶されるべき「迷わない」子羊たちにすぎない。真に大衆の「大衆」性が露呈するのは、知識人―大衆の図式が崩壊し、知識人(イエス)が大衆(ユダ)の心を表象=代表し得なくなってからである。そこは、イエスなきユダらが人々を裁かずにいられないという「懲罰社会」である。

 

 ロレンスが見たその「アポカリプス=終末」に震撼させられた福田は、「知識人」に「自覚して滅びる唯一の人種」という使命を見て、その後いわゆる「知識人論争」にコミットしていくことになる(「論理の暴力について」一九四八年)。いずれにしても、福田は、従来のように「知識人」ではなく、「大衆」=迷える子羊の「一匹」へと視線を転じていったのだ。「大衆への反逆」(西部)や「大衆の原像」(吉本)はもちろん、知識人/大衆の差異が消滅したのちの絶対的ではない相対的な「他者」(柄谷)の問題も、明らかにその福田の影響下にあった。柄谷の「この私=単独性」(『探究Ⅱ』)とは、「九十九匹」(一般性、私的所有)からの疎外をポジティヴに捉え返した「一匹」(個体的所有)にほかならない。この「一匹」の立場を選択することによって、ブントは共産党から分かれ得たのである。「政治」概念は大きく転換しようとしていた。

 

(続く)

 

福田恆存の「政治と文学」

  

黙示録論 (ちくま学芸文庫)

黙示録論 (ちくま学芸文庫)

 

 

 

  

 「他人を裁かずにいられない」という現在の「懲罰社会」は、かつて画家のクールベが語った、夜になると目を覚まし、「裁きたい、裁かずにおられるものか」という人々のことを思い出させる。ドゥルーズは、この「裁きたい」という「審判」のシステムを、キリスト教に導入した『黙示録』を論じた、D.H.ロレンス『黙示録論』の仏訳版序文に、したがってクールベとロレンスは「似たところを持っている」と書いた(『情動の思考』)。

 

 もともとキリスト教福音書には、個への関心しかなかった。そこに「衆の心」を導入したのが『黙示録』だった。

 

いずれにしろ、純粋なクリスト教精神なるものは国家、あるいは一般に社会というようなものとは絶対に相容れぬ存在である。大戦の結果これはあきらかな事実となった。それは個人にのみ適応しうるものである。集団的全体はそれとはまったく別の発想に立たねばならない。

 こうしてアポカリプスは、その根本精神においてはいかほど不快なものであるにせよ、とにかくそのような第二の発想をうちに含んでもいるのである。それは、挫かれ抑圧された集団的自我、すなわち心中の挫かれた権力意識の危険な呻吟が復讐的な響を伝えているためにのみ、吾々に不快の感を催させるのだ。しかしながら、また一方には真の積極的な権力意志の啓示もいくらか含まれている。(D.H.ロレンス『黙示録論』福田恆存訳)

  

 第一次「大戦の結果」のヨーロッパを見ながら、ロレンスは、死の直前に『黙示録論』の執筆に向かわざるを得なかった。そして数年後、第二次大戦の開戦と先を競うように、福田恆存はその翻訳に急き立てられることになる(出版にこぎつけたのは、戦後一九五一年)。両者にとって、眼前の民主主義(革命)が問題だったことは言うまでもない。だが、これについては、また後で触れよう。

 

 カエサルのものはカエサルに返すがいいというところに、キリストの「貴族性」、衆ではなく個にしか訴えかけてこないキリストの企てがよく表れている、とドゥルーズは言う。

 

個の心を陶冶してゆけば、衆の心にひそんでいる怪物を追い払うことができると彼は考えていたのだった。政策を誤ったというべきだろう。衆の心――私たちの外にまた内にあるカエサル、私たちの内なるまた外なる〈権力〉――にどう処して切り抜けるかは、彼は私たち一人一人の手にゆだねたのである。この点では彼の使徒や信徒たちも失望を味わわされつづけた。(『情動の思考』鈴木雅大訳)

 

 失望を味わわされた一人、ユダは、この「個の心」に躓いたのである。イエスはいつも一人で、弟子たちと心から交わったこともなく、行動を共にしたこともなかった。「彼はいついかなるときにも孤独だった」。イエスはユダたちの「主人=権力者」になることを拒み続けた。その結果、「ユダのような男のうちにある権力渇仰熱はみずから裏切られるのを感じていたのだ! ゆえに、それは裏切りをもって逆襲し、接吻をもってイエスを売ったのである」(『黙示録論』)。果たして、このときユダは、イエスの「教え」(イエスという人ではない)を裏切ったのか、それともむしろ忠実だったのか。

 

 ロレンスは、キリスト教の「本当の主役はユダなんだ。ユダがいなかったら、この大芝居全体が失敗に終わっていただろう」(『アーロンの杖』)と言う。それは、人は「ひとりになったとき始めてクリスト教徒たりえ」るが、人は純粋に個人たり得ず、キリスト教がキリスト「教」たり得るには「衆の心」、すなわちユダの心をかえりみる必要があるということだ。

 

 このユダの心は、貧しき者、弱き者たちのへりくだった気の毒な心ではない。この「衆の心」こそ、あの「裁きたい」という審判の「権力」、それも「上訴不可能な、他のすべての権力がそのもとに最終的に裁かれてしまうような、ある神のもつ権力」、「普遍的な世界権力」の実現を望む心である。イエスは、パリサイの徒の支配から、人々を剣でもって切断し、解放しようとしてからというもの、ずっと憎み続けた当のもの、すなわち「集団的自我=衆の心」を、あろうことか自ら与えざるを得なくなったのである。キリスト教がキリスト「教」であるためには、イエスも個のままでいられなかった。ニーチェが言ったように、キリストとキリスト教=聖パウロとは区別されねばならず、ロレンスが言うように、福音書を書いたヨハネと『黙示録』を書いたパトモスのヨハネは「同じ人間ではありえない」のだ。

 

 同様に、「レニン、リンカーン、ウィルソンにしても純粋に個人の状況を保っているかぎりは真の聖者たりえたのだが――ひとたび人間の集団的自我に手を触れるとき、あらゆる聖者が悪人と化せざるをえないのだ」。(『黙示録論』)

 

 知識人は、個人としては知識人でも、いざ大衆の心=集団的自我に触れれば、知識人のままではいられない――。ロレンス『黙示録論』が示しているのは、このいわゆる知識人―大衆という図式の崩壊だった。アポカリプス=終末とは、ほとんどそのことを意味している。すなわち「転向」の問題にほかならない。終末とは「ユダの季節」(江藤淳)であり、しかもキリストがいないまま「裁きたい」と言うユダの群れの時代なのである。

 

 福田恆存が、「この一書によって、世界を、歴史を、人間を見る目を変えさせられた」と、ロレンス『黙示録論』に震撼させられたのは、この文脈においてであろう。この期に及んで民主主義(革命)などあり得るのか。福田が、戦後「政治と文学」論争にコミットしたゆえんである。

 

(続く)

 

階段と戦争――小津安二郎の「不潔」その3

 だから、その後の『晩春』で、原節子が口にする「不潔」は、消えた「階段」と引き換えの言葉だった。小津作品においては、何よりも「階段」が、語らずに語る「階段」こそが、「不潔」と言われて「排除」されてきたものなのである。

 

 そう考えてくれば、『晩春』の原節子が、なぜ父・笠智衆の再婚話を聞いて、いよいよ嫁ぐ決心をするのかも、またなぜその再婚話が芝居として打たれねばならなかったのかも納得がいく。娘は父が「不潔」になるのを悲しみ、父は進んで「不潔」になることで、娘から自身を「排除」しようとしたのだ。だが、小津においては、「不潔」になることは避けられねばならないゆえに、それは「芝居」でなければならなかったのである。それが「芝居」を撮り続ける条件だ。

 

 だからこそ、蓮實重彦が指摘するように、あれほどまでに隠されてきた「階段」のフルショットが、一瞬映し出されてしまった『秋刀魚の味』が、小津の遺作たらざるを得なかったことは、とても偶然とは思えないのである。

 

一貫して視界から遠ざけられていた階段が、その不在の特権を剥奪され、階段としてフィルムの表層に浮上した瞬間、それは狂暴なまでの現存ぶりによって後期の小津的「作品」の基盤をそっくりくつがえしてしまう。それは、「作品」がその限界点に触れようとする苛酷な一瞬だ。(『監督 小津安二郎』)

 

 さらに付け加えるなら、その「階段」が映し出されてしまう直前に、笠智衆が、他界した妻の面影があるゆえに、あわよくば再婚相手に考えているバーのママ・岸田今日子のもとへと、ふらふらと赴いてしまったことは、あらゆる意味で決定的だったと言わざるを得ない。なぜなら、そのバーは軍艦マーチがかかるバーだからである。これが、あれほどまでに避けられてきた、戦争体験の「不潔」への武装解除でなくて何であろう(そういえば、娘の岩下志麻は、家族が口々に母に似ている岸田を見に行きたいというなか、「私はそんなところにいきたくない」と忌避していた。二十五歳の娘の「不潔」の回避)。

 

 しかも、娘の結婚式の足で、そのままバーを訪れた笠智衆は、そのモーニング姿を見た岸田今日子に「今日は何のお帰り?お葬式ですか?」と声をかけられてしまう。笠はそれに対して、「まあ、そんなものだよ」と受け入れるほかはない。

 

 この「葬式」という言葉が、結婚式にも葬式にもモーニングは着られるとか、娘の結婚式は父にとって葬式だとか、小津の遺作となる予兆だといったようなさまざまな詮索を寄せ付けないような、ある絶対性を帯びたものであったことは、もはや言うまでもないだろう。若い女性との再婚に軍艦マーチ。これが、小津において、それまで沈黙を貫いてきた戦争体験に飲み込まれていくことでなくて何なのか。「お葬式ですか?」は、小津作品が、まさに「限界点に触れようとする苛酷な一瞬」を示している。それは、小津作品が、自らの死を表明しているのだ。

 

 「だからこそ」、べろべろの笠智衆が、家に戻ってきてもなお口ぐさむ軍艦マーチを引き継ぐように、その後作品のBGMで軍艦マーチが流れ、作品空間が戦争に覆われるなか、例の禁じられていた階段のフルショットが映し出されることになる。その暗すぎる階段が示しているものは、ずっと二階の「聖域」にいた娘の不在どころではない。おそらく、あの階段から、かつての田中絹代のように、小津自身が落下していったのである。

 

中島一夫

 

階段と戦争――小津安二郎の「不潔」その2

 田中絹代は、「小津映画の俳優としては、私は落第生なのでございます」と言っていたという(『小津安二郎―人と仕事』一九七二年)。この言葉は、もう一方に、小津映画の優等生であった原節子を想起させずにおかない(石田美紀田中絹代と小津映画」、『ユリイカ 総特集小津安二郎』二〇一三年)。

 

 実際、「失敗作」と評された『風の中の牝鶏』(一九四八年)の直後、野田高梧とともに茅ケ崎にこもって、「『風の中の牝鶏』の影を追い払う起死回生の作となる」(石田)次作『晩春』(一九四九年)の脚本を書き、主演女優に原節子を配した。

 

 一方、『非常線の女』(一九三三年)で、「どうせあたいはずべ公だよ!」と叫んだ「時子」=田中絹代は、『風の中の牝鶏』で小津作品に再び「時子」として帰還したものの、まさに「ずべ公」として階段から突き落とされたのである。以降、小津作品に登場するのは、蓮實重彦のいう「宙に浮んだ」二階であった。

 

では、なぜ二階は宙に浮んでいるのか。理由は単純である。階段が存在していないからである。『朗かに歩め』や『その夜の妻』といった初期の小津には確実に存在していた階段が、後期の小津からは姿を消しているのだ。(『監督 小津安二郎』) 

 

 そして、宙に浮んだ二階は、『晩春』の原節子から『秋刀魚の味』の岩下志麻にいたる、作品の結末で他家に嫁いでゆく「たえず二十五歳でとどまりつづける未婚の女たち」の「聖域」となっていく。

 

小津的「作品」に後期の相貌を刻みつける娘たちがほぼ二十五歳でその成長をとめてしまった瞬間から、地面とはたやすく接点を持ちえない階上の空間が、小津的な生活環境を二重化し、その上層部分を宙に浮上させてしまったのである。それまで男の子供たちの成長ぶりを一貫して見据えてきた小津の視線が適齢期の娘の上へと移行したときから、この空間の二重化が日常化される。そしてこの二重の空間は、選別と排除の運動によって宙に浮んだ二階の部屋を特権化するにいたる。

 

 蓮實のいう「選別と排除」は、述べてきた文脈でいえば、まさに「落第生=ずべ公=田中絹代」の「排除」と、それに入れ替わるような優等生、原節子の「選別」にほかならない。前回述べたように、田中絹代の「排除」と、小津自身の戦争=従軍慰安婦体験の拭い去り、さらにはそれらを象徴する「階段」の消去は、互いに連関している。小津作品における「階段」の消去とは、戦争体験の沈黙とともにあるのだ。

 

 以降、他家に嫁いで「国民」化していく以前の娘が、宙に浮んだ「聖域」において、「ほぼ二十五歳でその成長をとめてしまった」ように見えるのも、したがって必然であろう。ある時期からの小津は、嫁いでいく娘ばかり撮っていたというより、むしろ己の戦争体験を記憶に呼び覚まさせかねない、銃後を担い得る婚姻後の娘を、ひたすら繰り返し「排除」しようとしていたのではあるまいか。その結果、娘のみならず階段までもが「排除」され、宙に浮んだ二階が「聖域」と化したのである。

 

 さまざまな意味において、『風の中の牝鶏』の「影を追い払う起死回生の作」であった『晩春』で、階段から落下した田中絹代と入れ替わるように、二階の聖域へと君臨した原節子は、最近後妻を貰った叔父・三島雅夫に、「汚らしい」「不潔」とさかんに言い放つ。この「不潔」は、その後、遺作となった『秋刀魚の味』において、若い後妻を貰った友人の北竜二を「不潔」呼ばわりする笠智衆にまで引き継がれていくだろう。

 

 彼(女)らから発せられる、この「不潔」というセリフは、改めて耳にするとドキっとする。若い後妻と結婚することが、そんなにも「不潔」で「汚らしい」という潔癖さを、こちらはすでに共有していないからだ。だが、小津において、まさにそれは「不潔」でしかなかったのだ。

 

 初老の男と若い女との再婚には、どこか(経済力に裏打ちされた)「性的」な「慰安」のイメージがつきまとう(もちろん「事実」ではない)。子作り(という目的)が想像しにくいからだろう。『秋刀魚の味』の北竜二が、笠智衆中村伸郎にさかんに「性的」にからかわれるゆえんだ。小津の場合、述べてきたように、それはほとんど消し去られるべき「戦争=従軍慰安婦」体験と通底するものだったのではないか。再び『秋刀魚の味』でいえば、笠と中村が、料理屋の女将相手に、北は「昨日死んだよ」「残念だったねえ」と口々に冗談を飛ばすのも、おそらく若い後妻との再婚が小津の中では「戦争」と直結しているからだろう。

 

 「不潔」というのは、当時の価値観というより、小津自身の視線なのだ。それは、戦後の「家」の中に持ち込まれてはならない「不潔」なものなのである。あの「ずべ公」田中絹代は、そのような「不潔」であったがゆえに、「階段」から「排除」されようとしたのではなかったか。

 

(続く)