ニックランドと新反動主義(木澤佐登志)

 

 

ニックランドとCCRUがこうした冷戦終了後の90年代に現れたのはその意味で示唆的である。歴史の終わりの中で、共産主義とは別の形で未来を思考するとはどのようなことなのか。加速主義は資本主義リアリズムのヘゲモニーが確定した時代、言い換えれば共産主義が不可能になった時代における最初のユートピア思想なのである(p178)。

 

 まあ、私がよく分かっていないのだろうが、「加速主義」なるものが、資本主義の枠内で資本主義を「加速」させることなのに、どうして資本主義のオルタナティヴたり得るのかが、ついに分からなかった。

 

 一読して浮かび上がってくるイメージは、不謹慎を承知でいえば、アクセルが戻(せ)らなくなった高齢者ドライバーの車のような、はたまたトニースコット『アンストッパブル』の暴走機関車のごとき、技術の「せきたて」(ハイデガー)に対する不可能な追いつけ追い越せ、だ。

 

 かつて津村喬は、「ぼくは十分に早くあったろうか」という浅田彰の「加速主義」的な「逃走=闘争」を、「走ることの快楽は、もっぱらゆっくり走ることにある」と批判した(「〈逃走〉する者の〈知〉――全共闘世代から浅田彰氏へ」(1984年9月「中央公論」)。ランニングではない、「ジョギング・ブームは、「ヴェトナム」へのアメリカ人の総括だった」と。

 

 これはこれで、気功やスローライフに行き着く気がしないでもない。だが、そこで津村が「競争のために身体を使う時、必然的に身体は畸形化される。外側のモノサシに合わせて、身体を切りとらねばならないからだ」と言っているのはその通りだろう。その帰結は、例えば長濱一眞が言うポストヒューマンの「魑魅魍魎」=サーバント(だがいったい誰が「主人」なのだろう)の姿か(「週刊読書人」2019年6月7日号「論潮」)。働き方改革とやらで残業が駄目となれば、今度は足りない分は朝4時に起きて「副業」をせよ、いやコマ切れの余暇は「投資」だ、と。

 

 これほどまでに「加速」に駆り立てられた先に、「クラッシュ」(ヴィリリオ)以外の何かあるのだろうか。とうに原発はクラッシュしたというのに。もはやクラッシュは潜在的にも顕在的にも常態化しているので、クラッシュまでもが資本主義的に先延ばしに感じられているだけだ。

 

 ということは「加速主義」とは、ハーヴェイやシュトレークなど「資本主義の終焉」論の手の込んだ一ヴァージョンなのだろうか。加速の果てにクラッシュで終焉。だとしたら、いかにも「暗黒」なヴィジョンだ。さすがに、そんな単純な話ではない?

 

中島一夫

 

いのちの女たちへ とり乱しウーマン・リブ論(田中美津)

 

 

 一九九〇年代後半、アジアに対する戦争責任が先か、自国の戦死者を弔うのが先かという論争(歴史主体論争)が巻き起こったとき、冷戦終焉以降、そうしたアジアからの問いが突きつけられる歴史性は十分理解しながらも、どこかその論争は表面的に、また平板に見えた。論争が、いわゆる「七・七華青闘告発」以降のジレンマを回避、解消してしまい、そこからはるかに後退した地平で闘われているように思えたからだ。

 もちろん、私は「七・七華青闘告発」について、すが秀実の一連の著作や論考を通してしか知らない。だが、それゆえにあの論争が、「68年」を「(敗)戦後」のパースペクティヴに回収する働きをするものだったことが、論争の平板さへの違和感を通してすぐに分かった。その感覚はうまく言語化できないままだったのだが、最近、田中美津を読み直していて、少しずつ見えてきた(以下引用は、上記の「「チョウからアオムシへ」の誤り」の章より)。

 

華青闘の7・7の決別宣言、劉彩品さんの支援の側の主体を問うあの叩きつけるように迫りくる告発のことば、そして劉道昌君の昨年一二月二五日に法務省から突きつけられた「半年」の在留許可証をのまざるを得なかった自分に対し「思想転向」を犯した、とまで自己批判を徹底化させ、あくまで闘争主体としての自己を問うていこうとする厳しい態度……。(中略)私たちが抑圧者であること、これは確認しすぎることのない事実だ。(中略)もう一つの事実、それは抑圧者は被抑圧者でもあるということだ。「他国民を抑圧する民族に自由はない」というレーニンの古典的テーゼを引用するまでもなく、抑圧者は抑圧者であるが故に、被抑圧者として存在する。被抑圧者としての自らの痛みを、自らの惨めさを視ることなしに抑圧者としての自己など真の痛みになるはずがないのだ。

 

 アジアへの責任が先か後かという論争は、いわば自らが「抑圧者」か「被抑圧者」かを争うものだ。そしてそれは、端的に、「(敗)戦後」のパースペクティヴである。だが、「68年」以降の問題とは、抑圧―被抑圧が決して一面的には捉えられない、ということではなかったか。「私たちが抑圧者であること、これは確認しすぎることのない事実だ」としても、もう半面で「抑圧者は抑圧者であるが故に、被抑圧者として存在する」という事実。

 

 田中は、ベトナム反戦運動以降、「「加害者の論理」というのが「自己否定の論理」と対になった形で登場してきた」と言う。だが例えば、「沖縄人(ウチナワンチユ)に対し、日本人(ヤマトンチユウ)たるあたしたちは、光として存在するが、だからといって「美智子にことを娼婦にさせちまェ」という沖縄の男のことばを寛容をもって受け入れる訳にはいかない、といった具合に、被抑圧者同士の抑圧/被抑圧は、社会という布地に解き難く縫い込まれているのだ」。したがって、人間は、「加害者の論理」だけで闘うことなどできないのである。

 

 もちろん、田中は、加害者=抑圧者を解放しようとして、そのように言っているのではない。そうではなく、「肯定でも、否定でもなく冷厳な事実として」「人間とは、他人の痛みなら三年でもガマンできる生きもの」であり、「それなのに抑圧者としての痛みなるものを原点にして闘おうとすれば、どうしたってうさん臭さがつきまとう」ゆえに、そう言っているのだ。

 

だが、「自己否定の論理」は、いわゆる「血債の思想」(中核派)を根幹としてとどまることなく進行していき、その果てに「もはや否定しきれずに告発されることもないぎりぎりの「主体」の核を希求する」方向へ、「「無」でありながら「核」であるような「主体」を見出さなければならない」という方向へと突き進んだ(すが秀実『1968年』)。

 

 「無」を「核」とする、ほとんど「主体」の解体ともいえる「ホモ・サケル」(アガンベン)のような「主体」。だが、その「自己否定の論理」は、いかに過激でラジカルに見えようとも、それは抑圧―被抑圧という一面的な構造自体は変えないという保守的な思想にすぎない。したがって、その構造のもとで、闘争の主体をいかに「ホモ・サケル」のごとく管理しておくかという、権力による統治の論理へと容易に横領された。現在のPCによる統治は、その通俗化の帰結である。ジジェクがいうPC「による」風景の構造化である。

 

このようにして、政治的公正さが蔓延する風景が構造化される。西洋から遠く離れた世界に生きる人々ほど、(たとえばアメリカ先住民や黒人のように)本質主義者、レイシストアイデンティティ主義者というレッテルを貼られることなく、自分たち固有の民族的アンデンティティを強く主張できるのだ。悪名高い白人男性異性愛者に近づくほど、そうした主張は問題含みのものとなる。アジア人ならまだ大丈夫。イタリア人やアイルランド人はぎりぎりなんとかなるだろう。ドイツ人や北欧の人々ならば、そんな主張をしただけで問題となる……。しかしながら、〈白人男性〉という特定のアイデンティティを主張することを(他者を抑圧する典型例として)禁じることによって――この禁止自体は〈白人男性〉の罪を認めるものではあるが――やはり彼らを中心的な場に置くことになってしまう。(『絶望する勇気』)

 

 田中は、「あたしが生れて初めて自分の尻尾以外のものをハッキリとらえることができたのは、その「加害者の論理」によってであった」と言う。田中のウーマン・リブが、被抑圧者ではなく抑圧者=加害者の論理から出発したことは、とりわけ現在、強調してしすぎることはないだろう(石原吉郎なら、同じように自らの加害者性に衝撃を受け、その加害―被害の構造自体から一人下りた友人・鹿野武一のように、田中に「明確なペシミスト」を見るだろう。ちなみに本書で田中は、石原の詩を引用している)。なぜなら、それは容易に「(敗)戦後」の、ひいては統治の論理へとすり替わり、差別を告発したつもりになっているが、その実統治の側に加担することに帰結してしまうからだ。

 

 「周縁的な、抑圧されたマイノリティーアイデンティティを主張することは、恵まれた白人のアイデンティティを主張することと同じではないのはもちろんだが、それでもやはり両者の同一性を見逃すべきではない」(ジジェク)。PCが蔓延する現在とは、マイノリティーの顔をしたマジョリティーが跋扈する世界にほかならない。ドゥルーズが言ったように、マイノリティー/マジョリティーは数の問題ではないのだ。

 

中島一夫

 

〈空白〉の根底 鮎川信夫と日本戦後詩(田口麻奈)

 

 

〈空白〉の根底 鮎川信夫と日本戦後詩

〈空白〉の根底 鮎川信夫と日本戦後詩

 

 

 本書をご恵投いただきました。

 

 いつも論考を拝読している、現代詩の研究者である田口麻奈氏による、鮎川信夫や「荒地」についての研究論文集成である。550頁にわたる大部な一冊で、巻末には鮎川の全集未収録の詩篇11篇など「附載資料」も充実している。

 

 つらつら読んでいて、かつて『エンタクシー』誌上のアプレゲールをめぐる鼎談(すが秀実福田和也、坂本忠雄)で、日本にアプレがあったとしたら、小説ではなく、むしろ鮎川や田村など「荒地」詩人においてではないか、と論じられていたのを思い出した。本書は、鮎川の詩を明確に「戦後詩」として捉え、結果的にアプレゲールとしての鮎川の像を強く打ち出しているように思う。

 

だが、戦後詩は本来、戦時中の戦争詩・愛国詩への反省を経て、あらゆる表現は社会的責任を帯びる、例外はない、という意識を強く持っていたのではなかったか。先走って述べれば、詩を社会から浮き上がらせない、特権視しないというその構えこそが、詩の現在に届く議論として今なお残されているのではないか。戦後詩の持つこのような見識が汲み損ねられたまま、詩は詩であるゆえに如何様にも読める、という地平で固有の歴史性が引き剥がされてゆくことを、現時点で豊かな可能性だと言えるかどうか。(「はじめに」p10)

 

 そしてそれは、本書のタイトルにある、例の「空白」にも関わってくる。次の一節などは、従来の鮎川のイメージに逆らう挑発的な一節ではないか。

 

さらに一九五四年の評論において、鮎川は戦死したモダニストたちが「生きていたかもしれないスペース」を「埋めることの出来ない途方もなく大きな空白」と呼び、死者本人以外の手によっては完成されない領域の「保存」を主張している。

 

 この運動(引用者注――モダニズム)は、一度は死ぬ必要があったのです。そしてぼくらの前に、空白をつくり出す必要があった、すべてを、新しくやり直すためには……。ぼくたちがモダニズムの運動から受取る本当の遺産は、この空白だけです。(中略)ぼくらは、その空白を永久に保存しておくのです。とり返しのつかぬものとして……。(「われわれの心にとって詩とは何であるか」、『詩と詩論』第二集)

 

 戦争期を精神的な停滞期として「空白」と呼称する前世代の言説に対し、「荒地」同人の北村太郎が、「彼らが空白だ、ブランクだ、という時代に僕らはまさにこの肉体を持って生きてきた」と反駁したことは、戦後詩史上に事件性をもって記憶されている。そのため「空白」は隠蔽や忘却を意味する語として、戦中世代の「荒地」によって否定されたという印象が強い。ここで否定されているのは、本来は無数の戦死で充満している戦争期を「空白」と呼ぶ虚偽であるが、鮎川が自らの当為に結びつけて用いた真正の「空白」とは、死の代補不可能性として戦後にこそ現出するのである。

 表象不可能性の認識を含むという点で、死者代行とははっきりと異なる倫理的水準を示すこの「空白の保存」という発想が、詩営為に関する文脈で語られたことの意義は重大である。(第Ⅰ部・第一章「死んだ男」論、p68)

 

 

 

 「空白」を、倫理的にではなく、言語的に、しかも「存在しなかった言葉」として「保存」すること。有名な詩「橋上の人」の「橋上」なども、存在しなかった言葉を言語的に存在させようという鮎川のジレンマを示している、と。「橋上」とは、「無根拠な近代」の「上」であり、「「根」を求めて土地に帰るという退路を断って」、しかし「詩作する」場所にほかならない。近代日本の無根拠さ、だがそうであっても、この「世界」との接触を失うまいとする、きわめて逆説的な場所であった、と。この「〈空白〉の根底」という逆説こそ、鮎川がアプレゲールたるゆえんだろう。

 

 「橋上の人」の「前テクスト」としてサルトル『嘔吐』を名指していく実証的なくだりや、「第Ⅱ部」で論じられる「荒地」の共同性、また「思想詩におけるリズム」の問題はきわめて示唆的である。また、次なる一節なども、革新、革命を思考する者にとっては、避けられないアポリアを突き付けてこよう。

 

しかし、詩がどのようなふるまいを見せても詩であるという自明性のない地平において、制度に対して真に革新的であることはほんとうに可能なのだろうか。あらゆる制度内部からの制度批判がそうであるように、批判者が極めて無自覚な場合をのぞき、それは革新の意味を担保してくれる制度を自覚的に保持する動きを抱え込まざるを得ないのではないか。(第Ⅱ部・第四章「思想詩におけるリズム」p427)

 

 もちろん、こうした拾い読み自体が批評家の悪い癖で、本書の魅力は、あくまで先行論への広い目届きのうえに実証を積み重ねていく、その堅実な記述にある。今後、鮎川や「荒地」を論じるうえで不可欠な一冊となろう。

 

中島一夫

 

あるリベラリスト(高見順) その2

  作品前半には、そのリベラリズム=文学が、切断されないまま、負け続けることで勝ち続けるものとなっていく、その予兆が描かれているように思う。

 

 冒頭、「進歩的な文芸評論家」と目されている「秀島」が、C町文化会で講演を行うところから作品は始まる。与えられたテーマは、「日本文学が所謂近代文学としての完全な開花をしていないというテーマ」。もちろんこれは、戦前から持ち越された、日本文学の半封建性=前近代性という、いわゆる「講座派」史観的なテーマで、だから秀島も「自分にはやや退屈なテーマだった」と思う。

 

 だが、「大正」期の初期社会主義文学運動に関わってきた「オールドリベラリスト」奥村からすれば、自分たちは社会の「非近代性」の「単なる反映の文学」ではなく、「近代化の為の」「闘いの文学」を実践してきたという自負があるわけだ(奥村は「大正期の有名な文化雑誌のグループのひとり」とある。『種蒔く人』やその後進の『文藝戦線』あたりか)。そこで奥村は、秀島に「大正期」の初期社会主義の評価を問いただすのだが、対する秀島は奥村の反応を見ながらもネガティヴな評価を下すのだ。「文学史的には価値があっても、文学的価値となると」、「文学作品としては、やはり文学的価値が高くないと」と。

 

 ここで、もし両者の間でさらに議論が展開されたなら、「大正=奥村」と「昭和=秀島」の差異がより浮き彫りにされ、ひょっとしたら「大逆」事件や一九三〇年代問題にまで踏み込んで、「転向」が主題化されたかもしれない。だが、ここで作品は「ひとりの青年」を介入させてくる。それによって議論は生煮えのまま、思わぬ方向へとズレていってしまうのだ。

 

 青年は言う。「講師は、いわゆる日本文学の非近代性を説かれるに当って、日本社会のいわゆる封建性に対して明らかに否定的な、いわゆる態度を取っておられた。すなわち進歩的な態度を、いわゆる表明していたのであるが……」、「……しかるにいま文学的価値を云々されて、文学の社会的価値よりも、芸術的価値の方を絶対視している。そこに、はしなくも矛盾が曝露された」と。

 

 重要なのは、ここで奥村が「秀島に代って」「自分の出番をながく待たされていた大部屋俳優が、ここぞとばかりに熱演する」ように応答することだ。「秀島さんは」「文学作品は先ず文学作品としてすぐれたものでないと、社会的価値は無いと言おうとしたんだと思うね。文学の社会的価値と芸術的価値とは、君の言うように分けて考えない方がいいんで」。奥村の説明は、さらに「昭和の初め頃」の「文学の政治的価値と芸術的価値」の、いわゆる「芸術的価値論争」へと及んでいく。そのとき、秀島は奥村の後に「僕は、奥村先生と同意見です」と応えるのみだ。こうして、本来切断されるべきだった「大正=奥村」と「昭和=秀島」は、同じ陣営へと癒着していってしまうのである。

 

 しかも、このときヘゲモニーは、自分ら初期社会主義者は、日本の近代化(市民社会)に向けて闘ってきたと自負する「大正=奥村」の側にある。この「大正教養主義」とも「大正デモクラシー」とも言われた、奥村が体現する「大正」期のリベラリズムが、その後マルクス主義プロレタリア文学によって何度も切断を試みられたものの、十分に切断されないまま今日に至っていると言ってよい。

 

 実際、その予兆ともいえるこの作品は、この「奥村―秀島」リベラリスト連合に対して、批判し切断を試みようとしたラジカルな青年を、作品の外へと排除しにかかるのだ。

 

「講師はすなわち、進歩的でもなんでもないということが、これで分りました。どのような詭弁を弄そうと、いわゆるその本質的なところは、――いわゆる文学的価値さえ高ければ、どんな反動的な作品でも立派な文学だということなんで……」

「僕等はもう、秀島さんの書いたものなど読む必要はない。今迄、秀島氏の書いたものに、僕等は、いわゆるだまされていたが、これで、はっきりしたです」。

流石に座は騒然となって、出席者の間で争いがはじまり、幹事は閉会を宣した。

  

 秀島が「ひどい青年がいるものですね。僕はいいとして、あなたにまであんな……」と言うと、奥村は「いや、いや、若い内はあれでいいんでしょう」と受ける。リベラリスト連合は、政治的価値に対する文学的価値の優位性に対して批判を挑んできた青年を、その思想を問題にすることなく、血気盛んな若者の無礼な振舞い(ゴロツキ?)として退けるのだ。まさに、花田清輝が高見や「近代文学」同人を批判して呼んだ「モラリスト」である。以降、作品に、青年もリベラリスト連合への批判者も出てこない。完全に排除された形で、作品は進行していくのである。

 

中島一夫

 

 

あるリベラリスト(高見順) その1

 

  1951年発表のこの小説は、社会主義者として「大正」期の初期社会主義文学運動に関わり、今や周囲から「オールドリベラリスト」と称される「奥村健人」と、主人公「秀島」をはじめとする「昭和」期の「進歩的」文学者たちとの交錯を描いた作品である。

 

 その後高見が、花田清輝との「モラリスト論争」(1955年)に進み出る、その前夜にある作品で、ラストで奥村が、「ロシア文学によく出てくるあの余計者」として「悲惨であることによってその姿は光栄と権威に輝いていた」と両義的に評価されるところなど、まさに花田に「異端者きどりのモラリスト」と批判されていく高見の姿が先取りされているといえる(対する高見は、花田を「ゴロツキ」と呼んだ)。

 

 そう、まさに「先取り」なのだ。秀島は奥村に「精神的敗残者」を見るが、同時にそれは自分たちの中にも住みついており、彼らが奥村を疎んじて敬遠しがちなのも、「つまりそれは、自分の顔を見るいやさなんだと分」かってしまっている。すなわち、この作品は、「大正」期から「昭和」にかけてリベラリズムは何ら切断されなかった、そしてその様子を、「余計者=異端」として負け続けながら、ついに「養老院」に行き着いてもなおだらだらとしゃべり続ける(秀島は奥村を「底抜けの弁舌の徒」と評すが、これは高見の「饒舌」を想起させる)奥村の姿を通して描いたものなのだ。

 

 なるほど、高見(奥村でも秀島でもあろう。まさに「ある」リベラリスト)が、花田の批判を先取りし、あらかじめ「負け」ているのは「いやな感じ」としか言いようがない。だが、この切断されずに、だらだらしゃべり続けるリベラリズム=文学は、今もなお「悲惨」に「輝」き続けているのではないか。まさに「負けるが勝ち」である。リベラルの強靭さは、この負け続けることで勝ち続けることにあろう(リベラルアイロニー?)。

 

 知られるように、高見は戦時下、「文学非力説」(これを収めた評論集『文藝随想』は、ビルマ戦線に従軍中だった高見に代わって平野謙が編集した)を主張して、右からの政治圧力から文学を守ろうとした。その際、尾崎士郎から、今「文学の純粋さ」を守ろうとする態度は、「自由主義のもつ敵性に気脈を通ずる」と批判される。高見は、1932年に治安維持法違反容疑で検挙され、長期拘留ののち起訴保留処分で釈放、以来警察の監視下におかれていた。そんななか文壇タカ派の尾崎に、「敵性=自由主義」と「気脈を通ずる」と批判されたのは、相当に痛かったはずだ。

 

 尾崎の批判は、その意図とはずれたところで当たっていたといえる。文学は国策に加担したり時局に便乗したりして、力を発揮できるほど有力のものではなく、あくまで「非力」なものにすぎない――。そのように、あらかじめ「負け」ているのが「文学」である。それは敗残者でありながら饒舌にしゃべり続ける奥村のように、「自由主義リベラリズム」に「通ずる」ものなのだ。

 

中島一夫

 

 

ドゥルーズとマルクス 近傍のコミュニズム(松本潤一郎)

 

 

 

 本書をご恵投いただきました。

 

 中上健次は「物語とは、資本である。物語論とは、資本論である」と言った(「〈熊野〉と〈物語〉断章 Ⅰ物語=資本」1978年、『中上健次と熊野』)。「戦略を自覚せよ、資本論としての物語、ととらえるという事は、つまり、安易な、物語に対するオマージュでもないし、ましてや、資本論を~主義のもとに読もうとするではない。」

 

 中上は、「物語論とは、資本論である」ことを捉えるには「戦略を自覚」することが必要だと述べる。それは同時に、それが「戦略」でしかないこと、すなわち決定的な処方箋ではあり得ないことを「自覚」することでもある。

 

語る事を自註する事が〈開かれた豊かな文学〉では要るのではないか、定型をずらす事、定型を、いまひとつ、変容さす事、もちろん変容したとしても、また新たに、別の戦略があらわれるだけである。木喰(ミイラ)取りが木喰になるが、それを知りながら、定型=物語の奥深くに入り、この世界を鏡に写してやる事。

 

 本書を読んで真っ先に思い出したのは、この中上の「物語論とは、資本論である」というテーゼだ。

 

 松本は、「マルクスは産業資本主義の仕組みを解明し、それを過去のものにして、「むかしむかし資本主義というものがあった……」と始まる物語を完成させようとしました。物語は完成しなかったものの、その〈終わり〉の素描を彼は遺しました」(本書あとがき)と述べる。

 

 中上は「物語論とは、資本論である」と言って、資本論としての物語を「変容」させようという「戦略」を作家として実践しようとした。それに準えれば、マルクスは「資本論とは、物語論である」と捉え、その物語としての資本主義を終わらせようとした。一言で言えば、本書はそのような書物だ。

 

 中上は物語の「機構」を浮き彫りにする。「物語とは、それこそ、最初の冒頭を読んだだけで、ああなってこうなって、ああなる、と序破急、起承転結、プロローグからエピローグに流れ、読みはじめるや否や物語のわくに人をはめこめて、涙を流したくてたまらない人間にさせ、性器を勃起させたり女陰を濡らして喜びたい人間にさせる通俗そのものの機構なのである」。

 

 松本によれば、マルクスは同様に、資本主義という物語の「仕組み」を問題にしたのだ、と。

 

資本は私たちに欲望を吹きこんだうえで、「きみがそれを欲するのであれば、それなら――」をもって私たちを円環に引きずりこむのです。この仕組みはすべてを手に入れたいという願望から生まれるのでしょうか。仕組みが先にあるから願望が生じるのでしょうか。マルクスの立場は後者でした。この仕組みはしかも願望に依存しつつ、仕組みを拡大させてゆきます。先後がひっくりかえっているのです(あとがき)。

 

 物語とは、偶然に起こった出来事E1と、その後起こった出来事E2とを、因果の鎖で結びつけ、本来何の脈絡もない出来事を「序破急、起承転結、プロローグからエピローグに流れ」ていくよう「物語のわくに人をはめこめて」、偶然性を必然性へと変換させてしまう「機構=仕組み」にほかならない。物語を語る欲望とは、あらゆる出来事を必然的な因果関係=歴史の「円環」に回収してしまいたい(いわゆる伏線回収の快楽)という欲望である。

 

 そのとき、欲望が先か、「機構=仕組み」が先か。マルクスは後者が先だと考えたはずだと松本は主張する。だが、歴史の必然を説く唯物史観マルクス(主義)は、マルクスを偽りの「歴史」家=「物語」作家に仕立てあげてしまった。スターリン批判以降、68年以降、冷戦終焉以降、……。「物語」は、強靭にも、歴史の必然からの解放そのものをその都度「物語」として語ってきた。本書は今度こそマルクスを、そうした「物語」から解放し、必然ではなく偶然の歴史を見ようした本来の「歴史家」へと奪還しようとする一冊である。そのために松本は、マルクスドゥルーズ「と」(あるいはクロソウスキー「と」)接続させようという「戦略」を立てたわけだ。

 

 同時にそれは、革命概念を、「必然史観」に基づくものではなく、そこから「マイナス1」されたものへと「変容」させようとすることでもあろう。ミイラ取りになるのを承知で物語の懐に入りこんでは、物語の「近傍」で物語をずらそうとした中上のように、松本は資本主義の「近傍」に、「もし労働と資本とが出会わなかった」としたら、というコミュニズムというもうひとつの「物語」を語ろうとする。あくまで「戦略」のひとつとして。

 

 (中島一夫