セルジオ&セルゲイ 宇宙からハロー(エルネスト・ダラナス・セラーノ)

 キューバマルクス主義哲学教授の「セルジオ」と、ソ連の宇宙飛行士「セルゲイ」は、冷戦終焉により一夜にしてそれぞれ「エリート」や「英雄」から「過去の遺物」へと転落。ソ連崩壊によって宇宙ステーション「ミール」から帰還できなくなったセルゲイに、ある日セルジオアマチュア無線がつながるところから、セルゲイの遠大な帰還計画が始まるのだが。

 印象的だったのは本筋の部分ではない。セルジオマルクス主義から転向していく過程だ。当初彼は、女子学生が自分に反抗し、卒業制作のみで済まそうとして論文に一向に向かわないことを厳しく指導していたのだが、己の拠って立つマルクス主義の権威が弱体化するにつれ、徐々に態度を軟化させていかざるを得なくなるのだ。そのありさまが身につまされた。

 本作のモチーフは、まさに共産主義が過去の遺物と化していく時代の趨勢において、いかにキューバが多様性を肯定し、国際的な孤立を脱することができるか、にあるといってよい。宇宙に取り残されたり、ひとりアマチュア無線に興じることは、その地に足の着いていない孤立=アイデンティティの「宙づり」の比喩でもあろう。そして、彼らが「地上」に降り立つには、多様性を受け入れるという「寛容さ」しか選択肢はない。むろん、こうした「寛容社会」は、「西側」では1968年の後にすでに現れていたものだ。

ジャン・クロード・ミルネールは、体制がいかにして一九六八年の脅威を払拭することに成功したか痛切に認識している。いわゆる「六八年精神」を体制側にとりこんで、反乱の精神に反するものに転じたのだ。新しい権利の要求は(真の意味で権力の再分配を意図していたろうに)認められはしたが、それは「寛容」の装いにすぎなかった。国民に許されることの範囲は広げながら、よけいな権限はもたせない、まさしく「寛容社会」である。(中略)これこそ離婚、中絶、同性婚、その他の権利の現実だ――いずれも権利を装った許可でしかなく、権力の分配を一切変えはしない。(中略)六八年の五月革命が全体を統一する(そして完全に政治的な)活動をめざしたのに対し、「六八年精神」はこれを非政治的な活動もどき(新しいライフスタイルなど)に、まさに社会への従順に、置き換えてしまった。(ジジェクポストモダン共産主義』)

 今作は、むしろ「地上」はすでに「寛容社会」に覆われていて、いかにセルジオとセルゲイがそこに向かって着地=転向していくかを示している。ラストのセルゲイの姿は究極の「寛容」を体現する最後の転向者であり、まるでコミカルなピエロだ。一方セルジオは、「論文はこの制作の彫像の中にある」という女子学生のウィットに富んだ詭弁を、手放しに礼賛するに至る。学生消費者主義という「六八年精神」の軍門にくだったわけだ。キューバもまた「寛容社会」に覆われていったということだろう。副題の「宇宙からハロー」とは、その「寛容」というイデオロギーの呼び声にほかならない。

 もはや教員は各種ハラスメントを恐れて「抑圧」などとてもできない。それは親ですらそうだろう。現在、基本的に親は、子供を応援し後押しする「サポーター」である。あらゆる敵対性は除去され、多様性(多文化主義)が「寛容」に認められていく。冷戦崩壊後、「寛容社会」化するキューバで、いったいセルジオに、女子学生の「わがまま」を受容するか、教員をやめるか以外に選択肢があっただろうか。階級的な敵対や分離を可能にするような、両者の関係性自体がもはや不在なのだから。

 だが、先のジジェクが言うように、これこそが68年後の体制の統治というものだろう。「権利」は大判振舞いしながら、決して「権力」には触れさせない。「権利」漬けにして「権力」への志向を骨抜きにさせると言ってもよい。

 アメリカ西海岸発の「解放」のヒッピームーブメントから、シリコンバレー精神を経て、インターネットネットワークのプラットホーム「支配」へ。先日のファーウェイをめぐる米中の綱引きも、この通信プラットホームによる統治をめぐるヘゲモニー争いだろう。それがドラッグと禅による「意識の解放」から派生した(表裏だった)シリコンバレー精神のひとつの帰結だとしたら、米中戦争とは、経済戦争以上に、要は68年後の(広義の)「宗教」戦争ではないか(バーチャル空間を「戦場」とする)。セルジオによる「無線」のネットワークと(経済危機における)違法酒の製造は、このインターネットとドラッグの「前夜」の姿であり、キューバの地に舞い降りた「六八年の精神」にほかならない。依然として問題は、強力な「宇宙からハロー」の声に抗って、いかに敵対性を見失わないか、そしてどこに敵対の線を引き直すか、だ。

中島一夫

1968年と宗教

 少したってしまったが、先日12月15日、京大人文研で行われた公開シンポ「1968年と宗教」の後半から聴いた。講演者に武田崇元すが秀実、聴衆に津村喬外山恒一といった錚々たる面々が一堂に会するという、またとない機会だった。配布資料が膨大で、正直いまだ咀嚼しきれていないので、素朴な感想のみを。

 一言で言えば、左派(左右を問わず?)もいよいよ宗教を真正面から考えねばならなくなったということか。最近話題のジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか』などを見ても、宗教に一章を割いてその有効性を論じている。オルグの「戦場」として、いまや宗教が浮上してきているということだろう。少し前までとりあえずは共有されてきた、近代とは「脱魔術化=脱宗教」の時代であるという前提は崩れつつある。日本のオウム事件清算され、アメリカの9・11も乗り越えられた?

宗教を超自然的な行為者に対する一連の信念としてとらえるのなら、誤解は避けられない。そのような信念は、愚かな妄想と、さらに言えば私たちの脳を巧妙に利用する寄生虫とさえ見なされるのがオチだからだ。しかし宗教に対して(帰属に焦点を置く)デュルケームの、また、道徳に対して(マルチレベル選択を含めた)ダーウィンのアプローチを採用すれば、全体像は違って見えてくるはずだ。」(『社会はなぜ左と右にわかれるのか』)

 ダーウィン+デュルケーム。とりわけデュルケームの、個人レベルではなく集団や共同体レベルの功利主義。宗教とは「個々のメンバーを一つの道徳共同体へと統合する、信念と実践を一体化させたシステム」であり(ハイト「宗教とはチームスポーツだ」!)、「私たちは、低次の存在(個人)と高次の存在(集合体)のあいだを行き来するよう(自然選択によって)設計された、ホモ・デュプレックスである」。

 まがりなりにも、近代合理主義に根差していたマルクス主義による党の形成は、冷戦崩壊以降いよいよ行き詰まり、それに代わる宗教的な道徳共同体の形成が模索されているということか。

 こうした宗教によるオルグを、特にインテリは概して軽蔑してきたが、今やそれでは民衆を獲得できないということだろう。そういえば、シンポの主催者である栗田英彦も、「知識人」をキーワードに総括的なコメントを述べていた。

 さて、後半最初の武田崇元の講演は、戦後から1968年を経て80年代にかけて、「民衆宗教」観の変遷を追ったものだった。なかでも、旧左翼の村上重良の「土俗」蔑視から、新左翼梅原正紀による「土俗」の革命性重視へ、という180度の転換を焦点化。講座派史観の村上にとっては、土俗やその共同体は、近代合理主義によって乗り越えられるべき「半封建」でしかない。だが、科学重視の近代合理主義がリミットに達し、一気に批判の対象へと転じていったのが68年だった。土俗的、呪術的なもの、ヒッピー、ニューエイジカウンターカルチャー、オカルト、スピなどが、近代合理主義に対する「代替知」として必然的に要請され、民衆の革命性の結集軸として続々と導入されていった。にもかかわらず、インテリ左翼は、そうしたものを蔑視し忌避してきた結果、決定的に民衆を捉え損なっていったのではなかったか。梅原正紀の批判は、その点をついたものだった。ゆえに今なお、いや今こそ有効だろう、と。

 続く、すが秀実の講演は、だがそうした68年の革命性も、反天皇制を明確に掲げてこなかったつけとして、結局は戦後天皇制という「宗教」に包摂されてしまったといえるのではないか、と。敗戦という神の死を逆手にとって、国民全体が天皇の下へと包摂される(というか、それによって国民として(再)統合しようとする)ようなオルグを可能にしたのが、柳田国男の「神学」であり、いわゆる「祖先崇拝=トーテミズム」にほかならない、と。

 戦後天皇制とは、敗戦によってトーテム(象徴)化した天皇を、国民全体の「祖先」として崇拝せんとする「トーテミズム」である。八・一五で国民主権は成就したとする「八月革命説」(宮沢俊義)は、フロイト「トーテムとタブー」の影響著しいケルゼンの「国民主権はトーテミズムの仮面」説をふまえることで、国民主権という革命性を、天皇制=トーテミズムという宗教性へと回収するイデオロギーだった。「戦後民主主義」が天皇制という宗教の「仮面」である以上、それが現在天皇制に回帰しているのも、その表現たる戦後憲法を守ろうとするのも必然だろう、と。

 打ち上げでの私的な会話だが、外山恒一も「インテリは天皇制廃止でいいけど、大衆には無理。依然として天皇制という神話、物語が必要」と述べていた。オルグを実践する活動家の皮膚感覚だろう。聞いていて、中野重治の言った、国民の「天皇を「いただく」ことへの愛着」というやつを思い出した。中野は、国民のその「純粋」な「愛着」と、「天皇制護持商売人」の欺瞞的なそれとを「弁別」しなければならないと言った(「文学者の国民としての立場」1946年)。

 その弁別が今でも有効なのか、また中野自身、例えば共産党幹部として憲法発布直後に柳田宅で柳田と対談し、「天皇制護持商売人」の片棒を担いだのではないかという疑問は今は措く。いずれにせよ、今回のシンポは、この「愛着」に手を突っ込むには、宗教的なものを思考せざるを得ないことを痛感させるものだった。「1968年と宗教」。68年が近代合理主義のリミットである以上、それは不可避的に「宗教」という脱近代のとば口でもあったのだ。

中島一夫

止められるか、俺たちを(白石和彌)

 若松孝二の弟子である本作の監督白石和彌は、本作のラストを「引き」で撮った。それは、若松プロの時代から「遠く離れた」現在を示すとともに、師・若松孝二自体の捉えがたさ、もっと言えば師の映画をこのように描いた白石自身の「自信のなさ」が映し出されていたように思う。いったい若松とは、また若松プロとは、革命の映画だったのか、あるいは映画の革命だったのか。それとも何か別の「場所」へと、彼らは行き着いてしまったのだろうか。その問いに対する答えの見えなさ、疑問符自体をラストシーンは映し出してはいなかっただろうか。曽我部恵一の主題歌「なんだっけ?」とばかりに。

 若松孝二若松プロは、1960年代後半、それまでの五社体制によるスタジオシステムや、ブロックブッキング方式によって大手制作会社に映画市場を完全に支配されていたなか、その「岩盤」に風穴を開けようとした。一連のピンク映画で。

 若松の『壁の中の秘事』は、65年のベルリン映画祭で「国辱」呼ばわりされたが、若松らは、まさに「止められるか、俺たちを」とばかりにその後も全くひるまず、『胎児が密漁する時』、『犯された白衣』、『処女ゲバゲバ』といった問題作を次々と撮り続けた。そこにある、圧倒的なテンションとパッションに満ちた性と暴力は、当時の若者たちのやり場のない情念と欲望、名状しがたい飢えと渇きのアナーキーなエネルギーを捉えていった(現在の視点からは、それらの「性の解放」が本当に「解放」だったのかという疑問はあるが)。本作の主人公「吉積めぐみ」(門脇麦)も、『胎児』に魅了され、若松プロに吸引されたそんな一人だった。

 本作は、一貫して「めぐみ」の視点から、才能たちが離合集散するエネルギー体としての若松プロを、その内側から活写した作品である。だが、むしろ作品には映らない外側に、強固な岩盤として立ちはだかっていた映画資本=大手企業や、安保闘争全共闘運動を抑圧する国家権力の圧迫が常にあったのを感じながら見られるべき作品だろう。そうでないと、なぜ彼らが街に向かって放尿し、裸で海を疾走せねばならなかったのかが、ついにつかめないままだろう。彼らは、いわば画面の外に向かって放尿し、失踪しようとしていたのだ。

 今作を見て改めて思ったのは、若松プロは決して若松孝二「中心」の集団ではなかったことだ。やはりそこには、足立正夫がいて、沖島勲がいて、大和屋竺がいて、そこに福間健二荒井晴彦がやって来て…という多中心的な「運動体」だった。

 それは最初から左翼的な集団だったわけではなかった。本作は、そのあたりをよく捉えていたように思う。福間健二沖島勲の追悼座談会(『映画芸術』453号)で足立正夫について発言していたが、「松本俊夫的な前衛が嫌だし、大島渚的左翼も嫌だし」で、「あっちゃん(足立正夫)も最初は左翼をからかう人として存在感を持っていた」、「でも、それをやっているうちに、左翼を超える左翼にならなければいけないとなって、彼は左傾化したんだと思う」と。そして一方、若松はというと、同じ座談会で荒井晴彦が言うには「左翼を商売にする人」だった、と。

 それこそが、作品の言葉で言えば、「いかに余白に場所=陣地をとっていくか」という時代の流れだったのだろう。生き残って映画を撮り続けていくための「陣地戦」(グラムシ)である。若松プロの「止められるか、俺たちを」というラジカリズムには、時代が「左」だったゆえに、よりラジカルに「左」の「余白」へと進み出るしか道がなかった。

 それが最も明確になったのが、作品終盤の中心をなす、足立と若松がパレスチナ解放戦線へと進み出ていった『赤軍PFLP・世界戦争宣言』(1971)の頃だったのだろう。作品前半では、「インターナショナル」が嫌いで頑なに歌うのを拒んでいた若松も、この頃には自然と歌うようになっていた。それはもはやマジに左翼になっていたということなのか、それともあくまで「商売」用のポーズだったのか。

 いずれにせよ、その方向性は、すでに初期ピンク映画に胚胎していたと思う。若松のピンクは、反権力であると同時に、強烈な母胎回帰願望の表れだった。若松の場合、その母胎回帰=本来性への回帰願望が、まだ先進国の資本主義の洗礼を浴びていない、第三世界の「母胎=自然」への回帰を果たそうとしてパレスチナへと赴かせたのである。もちろん、それは作中、大島渚との会話にあったように、世界の映画市場を牛耳るユダヤ資本に対抗して、やがて独立プロを後押ししたATGに連結し闘っていく道を選択していった若松プロ自体の在り方(ラストシーン)と、世界資本主義においては構造的に共同戦線を張ろうとした闘いでもあった。『赤軍』のタイトルにあるように、日本の若松プロパレスチナがつながり連帯するという「世界戦争」として、それはあったのだ。

 このように見てくれば、『胎児』に魅せられためぐみが、自らの「母胎」に「胎児」を宿らせた時、めぐみ自身の「回帰」の旅=革命は、終わりを告げるほかなかったのだろう。そういえば、めぐみは、自殺する直前、自らの母に電話をかけ「大好き」と遺言のように告げていた。そして、めぐみが倒れたアパートに駆け付けた若松ら男たちは、警察の阻止によってその部屋の中に入ること=「母胎」への「回帰」を、断固として阻まれてしまうのだ。

 それは、若松プロの「紅一点」であり、したがってペニス=筆=武器を持たず、ついに男たちのように「若松プロの放尿」に加わりたくても加わることのできなかっためぐみだけが、しかし「母胎」に「回帰」できたということだろう(羊水=プールにめぐみが漂うシーン)。めぐみは、パレスチナへと赴かず、また『赤軍PFLP・世界戦争宣言』の真っ赤な上映運動バスにも乗らずして、「第三世界=母胎」へと接続し自身の革命を闘いきった。だからラストでは、革命戦士ゲバラの横にめぐみの写真が貼られることになる。

 したがって、本作で、白石があえてめぐみの視点で若松プロの一時期を描いたのは、若松プロの「革命」の在り方からくる必然的な選択だったといえる。それは、師の「可能性の中心」を射抜いた弟子ならではの選択だった。そのうえで、だが冒頭の疑問に戻らずにいられない。果たして、若松プロは革命的だったのか。

中島一夫

江藤淳と「開かれた皇室」論

 江藤淳が、いわゆる「開かれた皇室」論に否定的だったのは当然だが、それはそれによって「共和制に近づく」と考えていたからであった。

大原康男 歯止めを失った“開かれた皇室”とは何か。そのゆきつく先は、皇室の本来もっている尊貴性を失って大衆社会に埋没してしまうニューファミリーのモデルとしての皇室です。これは共産党のようなあからさまな反天皇論よりも一般の人たちの耳に馴染みやすい囁きですから、時間をかけてじわじわと毒が回ってくるたいへん問題の多いキャンペーンではないでしょうか。
江藤 おっしゃるとおりだと思います。待ってましたとばかりにね。
大原 新帝陛下に対しては戦争責任を追及することはできない。そこでマスコミは、“開かれた皇室”という別の手法で、意識的か無意識的か定かではないが、皇室の伝統的な存立基盤を脆弱化させようとしているように思えるのです。
江藤 “象徴天皇制”とか“戦後民主主義”という言葉でくくっているところが、いまのマスコミの浅はかなところです。“象徴天皇制”なるものが実体として存在しているかのようにマスコミではいわれていますが、因数分解すると、一方では共和制に無限に近づき、一方ではあたかも立憲君主制であるかのような分裂構造になる。開かれた皇室、国際化の先頭に立つ皇室云々というのは、共和制に近づけたいという議論でしょう。
大原 そうです。つまり国民統合の聖なるシンボルではなく、最終的には大衆社会の俗なるモデル・ファミリーに皇室を堕さしめようという方向ですね。
(「昭和史を貫くお心」1989年3月。『天皇とその時代』)

 大原が「これは共産党のようなあからさまな反天皇論よりも一般の人たちの耳に馴染みやすい囁きですから、時間をかけてじわじわと毒が回ってくるたいへん問題の多いキャンペーンではないでしょうか」と言っているように、明らかに江藤と大原は、「開かれた皇室」論を講座派的な「キャンペーン=戦略」と見なしている。

 天皇制を「半封建」と見なした講座派の天皇制論は、しかし大衆社会化にともなって「半封建」という概念のリアリティが喪失されたとき、市民社会論=構造改革論へと転回した。それは、「機動戦」をともなう「二段階革命論」から、グラムシ的な陣地戦論へという革命戦略の変更であった。その文脈で登場してきたのが、「開かれた皇室」論の元祖たる松下圭一の「大衆天皇制論」(1959年)である。

 以前の記事でも書いたように、
http://d.hatena.ne.jp/knakajii/searchdiary?word=%BE%BE%B2%BC%B7%BD%B0%EC&.submit=%B8%A1%BA%F7&type=detail
松下「大衆天皇制論」は、共和制への志向を内包させていた。市民社会の成熟にともなって、やがて大衆天皇制は陣地戦的に自然消滅していくだろう――。まさに「時間をかけてじわじわ毒が回ってくる」ように、なし崩し的に天皇制を「脆弱化させ」、その結果「共和制に無限に近づけ」ていくことが目論まれていたわけである(「子午線」vol6の拙稿で論じたように、私見では江藤の「フォニイ論争」もこの文脈にある)。

 江藤は、こうした「開かれた皇室」論に抵抗すべく、逆に「閉された」皇室を思考した。福澤諭吉の「帝室論」(1882年)と「尊王論」(1888年)である。このこともすでに拙稿で論じたので繰り返さないが、福澤「帝室論」が、天皇による国会開設の詔書を受けて、いずれ国会が開設されることを見越して書かれ、「尊王論」が憲法発布直前に書かれたことが重要だろう。国会と憲法によって、「日本は共和制でなければならない」という「自由民権運動の青書生ども」(大原)が勢いを得るのを、福澤は先手を打って抑圧しようとしたのだ、と。

 福澤の「帝室」は、政争の局外、政治の葛藤の外にあるという、ヘーゲル的な「君主」である。そして、それは大原が言うように、これが「統帥権の独立を主張している」ということが重要だろう。前回の記事でも書いたように、江藤は(大原も)、天皇制とは君主制であり、したがってそこでの主権は、例外状況における「独立」した君主の「統帥権」にほかならないと考えていた。(立憲)君主制も共和制も民主制だ、などという「ごっこの世界」(江藤)がまかり通ってきたのが「戦後」だったのだ、と。

 もちろん、江藤や大原の共和制への「怯え」は杞憂だった。大衆天皇制=開かれた皇室論は、その後も天皇制を自然消滅させることはなかった。むしろ、天皇制は時代にフィットして変化する融通無碍のシステムであり、「開かれた皇室」は大衆社会化に即応した一形態であることがますます明らかとなった。そして現在は、リベラルの「象徴」と化している。

中島一夫

小谷野敦氏の批判について

 小谷野敦が、拙稿「江藤淳のプラス・ワン」(「子午線vol6」)を次のように批判している。

中島は江藤が、日本国憲法第一条について、「しかし、この第一条を即物的に読めばはっきりしていることは、いわゆる「主権在民」です。「主権在民」という以上は、これはなによりもまず共和政体を規定した条項と読める」と語ったのを引いている。しかし、「共和制」といえば一般的には君主がいない国の形態を言うので、江藤は何か錯乱しており、まるで宮澤俊義のような憲法解釈をほどこしていき、中島はそれに沿って江藤を論じて行く。しかし「主権在民」と言っても共和制とは限らない、立憲君主制というのも主権在民で、江藤は民主制と共和制を混同している。江藤は天皇制を「共和制プラス・ワン」だなどと言うのだが、そんなことを言ったらすべての立憲君主国は「共和制プラス・ワン」であって、別段ことあげするには足りない。(「坂東玉三郎と文学」『出版ニュース』2018年10月下)

 したがって、「中島の論考は、江藤淳の過大評価だろう」と小谷野は言う。拙稿が江藤の「過大評価」だというのは、私は批評とは「過大評価」だと考えているので別にいいのだが、小谷野が「江藤は民主制と共和制を混同している」というのは、あまりにも江藤を過小評価してはいないか。むしろ江藤はそうした「混同」を避けるために、あえて「民主制」と言わず、「共和制」か「(立憲)君主制」かという対立で日本の政体を考えようとしていたからだ。これは、江藤が「主権」を、平時日常=平和時ではなく、「例外状況」(シュミット)のもとで考えていたことを意味する。

 拙稿で詳しく論じたので繰り返さないが、江藤は一貫して「八・一五革命」説や「戦後民主主義」を、すなわち「戦後」の「平和=平時日常」の欺瞞性を批判してきた。その過程で現行憲法第一条と第二条の矛盾に行き着いたのである。第二条は立憲君主制を確定しているが、第一条はそれと矛盾するように、共和制の可能性を胚胎していると読める、と。

 おそらく、小谷野はそれを「錯乱」というのだろうが、「八・一五革命」説を批判し続けてきた江藤は、批判し続けたゆえにその「革命」性と真剣に、ある意味で、「八・一五革命」説の主張者である丸山真男宮澤俊義よりも真剣に向き合ってしまったといえる。つまり、「革命」というからには、「王殺し」と「共和制」とがそこには含まれていよう、と。江藤は本気でこれに「怯え」ていたのではないか。

 拙稿は、「怯え」という言葉で、まさにこの江藤の「錯乱」を論じたものである。この「怯え」や「錯乱」は、やがて「日本は君主国だ」と主張するところに江藤を向かわせる(だから「天皇礼賛」に見える)。先日の記事でも書いたように、これはプロイセン立憲君主制を理想としたヘーゲルを彷彿とさせるが、これも「過大評価」だろうか。

 いずれにせよ、憲法はそのように共和制(第一条)か君主制(第二条)かで分裂しているのに、それを曖昧に「混同」させてしまったのが、「戦後民主主義」(あるいは「象徴天皇制」)だ、と江藤は批判したのだ。繰り返せば、江藤にとって、共和制と民主制とはまったく異質なもので、民主制は共和制と君主制とを癒着させるものとしてあった。それが「戦後」だった、と。

さきほどの区切り方の問題でいえば、「戦後民主主義」とは、冷たい法令の条項によってくっきりと区切られているものを、あたかも区切られていないかのように看做すということになるでしょう。現行憲法の条項では、共和制か君主制かという二者択一をチラつかせた区切り方が冷徹になされているものを、民主主義という雰囲気で二つ一緒にまとめて区切り直す。そうすると、あたかも矛盾も分裂も存在しないようかのような判断停止と、知的水準の低下が生じる。黙契の支配する社会に、真の知的創造などあり得べくもないからです」。(「遺された欺瞞」、『天皇とその時代』)


 それとはまた別の話だが、拙稿では触れなかったものの、先のように江藤が「怯え」、「錯乱」していった背景には、いわゆる「開かれた皇室論」のリアリティがあったと思われる。これについては、また後日、記したい。

中島一夫

すが秀実の講演「1968年以後の大学」について その2

 この「ヒステリー」から「分析家」へとディスクールの移行から、さらにさかのぼってみたい誘惑に駆られる。それは、先日の記事でも書いた「江藤淳ヘーゲル」の問題に関わってくるからだ。

 「大学のディスクール」とは、ポスト政治の「専門家=官僚」の支配にほかならない。すが氏の講演にもあったように、大学教師の言説は、それが何らかの真理(権威)に基礎付けられているとされる。だが、もはやそれは「主人のディスクール」(私=真理が話す)ではないので、いわば「真理」であり「権威」であると偽装されているわけだ。その「権威」化は、教師の存在によって隠されている。それは隠然たる「支配」なのだ。

ラカンの関心は、主人の言説から、今日の社会における支配的な言説としての大学の言説への移行に向けられている。叛乱が大学で起こったのは、まったく不思議ではない。端的に言ってそのこと自体が、科学的言説によって支持され正当化された新たな支配の形態への移行を示している」(ジジェクイラク』。ちなみに、ジジェクは、その後の『パララックス・ヴュー』においては、すでに今日のヘゲモニーを「分析家のディスクール」に見ている)。

 それはいかなる「支配」なのか。
 ジジェクは、「大学のディスクール」の式の上部(S2―a)は、要は「生政治」だと言っている。「つまり主体ではなく、aという剥き出しの存在にまで還元された個人という対象を扱う専門家の知のそれではないだろうか」。

 まさにポスト政治的な官僚による支配である。S2は剥き出しの存在aに無制約に「知」という「命令」を砲撃のように浴びせかける。現在、四六時中攻め立てられている、健康への警告を思い出せばよい。「タバコは有害です!」「太り過ぎは心臓発作の原因!」「定期的な運動が長生きにつながる!」。そして、こうした事態に理論的に最も抵抗したのがヘーゲル君主制だとジジェクは言うのである。

 ヘーゲル君主制に関する議論は、彼が〈主人〉の言説と〈大学〉の言説のあいだの独特の立場に身を置いていることの、究極的な証明である。〈知〉の脅威に対して〈主人〉が他に類を見ないポジション、すなわち安全装置になりうるということを自覚しつつ、君主制の廃止を斥ける一方で、ヘーゲルはもはや君主のカリスマ性に屈することなく、それを空っぽのシニフィアンの機能の愚劣さへと還元したのである。
 近代の〈主人(君主)〉は、自分が専門的な知をもっているということで自己正当化する。生まれや、たんなる象徴的な授与をもって〈主人〉になれるわけではない。むしろ教育と資格を通して位置を得るのだ――このシンプルな、文字通りの意味において近代の権力とは知であり、知に基礎をもっている。〈主人〉の言説から〈大学〉の言説への移行が意味しているのは、国家そのものが新しい〈主人〉として現れるということだ。

 ヘーゲルは、フランス革命後の「主人」から「大学」へというディスクールのシフトに居合わせたために、「このシフトの前後で隠されたままになっているものをただしく把握できた――純粋なシニフィアンの機能に還元され、事実上の権力を剥奪された君主制を」。

 「大学のディスクール」は、「S1」という「真理」を背後に隠した「S2」が、剥き出しの生「a」を「知」によって管理しつつ主体化($)させる。このとき、もし「S1」と「S2」のギャップを消去されてしまったら、行き着く先は全体主義的官僚制国家=スターリン主義である。だから、ヘーゲルは、「S1」と「S2」とが癒着しないように、むしろ「S1」を「空っぽのシニフィアン」として「蓋」のように確保しておくこそが、かえって人々を生政治的な「知」の管理(それは、成員全員が剥き出しの生「a」たるべきというジャコバンテロリズムとコインの表裏だろう)から守る「安全装置になりうる」と考えたのではなかったか。

 ヘーゲルは、共和制ではなく君主制を主張したが、その思考は、反官僚制を潜在させていたということだろう。すると、先日の記事(「江藤淳ヘーゲル」)でも述べたように、江藤淳の「プラス1」とは、このヘーゲルの「空っぽのシニフィアン」としての天皇だったと捉えられよう。江藤もまた、反官僚制=社稷主義者だった。

 この文脈でいえば、丸山真男は、あまりにも「大学のディスクール」を自明視していたといえる。戦後は、八・一五革命によって民主化され、したがって「主人」は消滅したのだから(だが、果たして本当に「王殺し」はあったのか)、専門的な「知」をもっている自らがディスクールの「動作主」になるのは当然だった。丸山は、自らの権威を疑うことがなかっただろう。自らの研究室を破壊されたときの「ナチスも日本軍国主義もやらなかった暴挙」という言葉は、この権威の自明視から出てくる。

 一方、江藤の大学観は、ひたすら国家や社会からの大学の自律性を主張し、学生運動なども「イデオロギイの名の下における社会人の真似」にすぎないという極めて保守的なものだった(「大学その神話と現実」など)。だが、逆に言えば、先のヘーゲルのように、「S1」と「S2」のギャップを確保し、国家と大学とが癒着しないように考えていたともいえよう。それは、「大学のディスクール」において、大学というものは、権威からの自律が不可能だと考えていたからではなかったか。

中島一夫

すが秀実の講演「1968年以後の大学」について その1

 先日の記事で触れた、すが秀実氏の講演「1968年以後の大学」は刺激的だった。とりわけ末尾に触れたラカンの4つのディスクール(言説)をベースに、大学の現在を読み解こうとする内容はきわめて示唆に富むものだった。以下、簡単にその講演末尾の部分の要旨と感想を。

 すが氏は、4つのディスクール、「主人のディスクール」、「大学のディスクール」、「ヒステリーのディスクール」、「分析家のディスクール」(「資本主義のディスクール」を含めると5つ)の中から、特に「大学」と「分析家」の二つを取り出し、68年以後の大学におけるディスクールの変容、移行を捉えてみせる。

①大学のディスクール……68年以前の大学は、あたかも科学的真理が探究され、教師によって普遍的な知が語られる場と考えられていた。「カントによれば〜」、「夏目漱石が言うには〜」、…すなわち「子曰く〜」である。教師のディスクール(知)を、何らかの権威(真理)によって基礎づけようという態度が大学の根底には存在した。
68年とは、端的に、そうした大学のディスクールへの懐疑であり「否」である。したがって、大学教師を支える権威(真理)とは異なった「真理」――マルクスエコロジー、文学、サブカルチャー、――を学び、教師に異を唱えた運動だった。68年の「大学解体」というスローガンは、物理的な破壊もさることながら、いやそれも含めて(丸山真男研究室破壊など)、「大学とは何か」、「真理とは何か」という根源的な懐疑をはらんだものだった。それは、科学が進捗すれば真理がそれだけ明らかになり、人間生活も豊かになると思われていたのが、まったく逆の帰結をもたらしてしまっている状況(例えば水俣病などの公害問題)からくる、必然的な懐疑だった。

②分析家のディスクール……ラカンは、そうした「大学のディスクール」をのりこえるスタイルとして、(精神)分析家と患者との関係におけるディスクールを考えていたのではないか。この場合、分析家=教師は、「全知と想定された主体」として患者=学生を誘惑する者として現れる。学生が今まで知らなかった「知」(例えば「高校の時に好きだった作家は、実はツマラナイ作家である」など)の存在に驚き、自らの「主体」が裂開される。そして、その裂開に埋め合わせる分析家に「転移」し帰依するのである。
 だが、この転移関係の中では、学生は結局教師のエピゴーネンにしかなれない。もちろん、精神分析はその問題が織り込み済みだったからこそ、いわゆる「パス」という手続きを導入した。「パス」とは、要するに「全能と想定された他者」に飽きることである。学生=患者は、「飽きる」ことによって、初めて独立した主体として生きていくことができる。


 そして、ここからは感想だが、すが氏の講演を聴いて、私はもう二つの言説「ヒステリー」と「主人」のディスクールのことを想起した。

 知られるように、ラカンは68年の学生たちに「ヒステリーのディスクール」を見出した。すが氏の講演にもあった、従来の「真理=権威的言説」に「否」を突きつけ続ける主体である。ジジェクは言う。

ヒステリーの主体は、根源的な懐疑と詮議に浸りきった主体である。その全存在は、自分が〈他者〉にとって何であるのか[わからない]という不確かさによって支えられている。この主体は特権的ナ(par excellence)主体である。(『イラク』)

 そして重要なのは、ジジェクも言うように、ラカンは「分析家」を「ヒステリー」の主体と「対照的な」主体として捉えていたことだ。「繰り返せば、このヒステリーの主体とは明快に対照的に、分析家は脱主体化した主体のパラドックスを表している。分析家という主体は、ラカンが「主体の欠乏」と呼んだところのものを引き受けており、欲望の間主観的弁証法の悪循環を打ち破り、純粋欲動という無頭の存在になるのである。」

 68年の学生は、それまでの大学のディスクールにおけるあらゆる言説のゲームを拒否した「ヒステリー」の主体であった。「君たちは何を望んでいるのか」「わからない」「それを望んでいるのか」「それではない」。言説式は省略するが、そのように「ヒステリーのディスクール」においては、まさに欲望の対象には決して行き着かない「対象a」そのものが「真理」の位置に置かれる。

 だが、ラカンが、その「ヒステリーの主体」とは「対照的に」、「分析家の主体」は「脱主体化した主体」だと言うとき、その「対照的」とは、あらゆる言説のゲームを拒否する真理「a」それ自体を新たな言説のゲームとして回収してしまったのが「分析家のディスクール」だという意味に捉えられるのではないか(だから、「a」は今度は「動作主」の位置にきている)。

 言い換えれば、68年の「ヒステリーの主体」が掲げた「大学解体」は、68年以後、決して目的にはたどり着かない不断の「大学改革」という、「大学解体」とは似て非なる「対照的」な新たなゲーム=言説へと、またいったいどの「主体」が「それ」を欲望しているのかまったく不明な「脱主体化」のディスクールへと移行、変容していったのである。すなわち、ラカンのいう「対照的」とは、「転向」あるいは「反革命」の謂いにほかならない。

 ここでは「分析家=教師」は、もはや「オイディプス的父」でないのはもちろんだが、学生にとって「階級闘争」の対象でもない。「そのような用語で語りうる相互の関係さえ崩壊している」のである(すが秀実『革あ革』)。「脱主体化」した「主体」は、もはや父殺しものりこえも不可能な「主体の欠乏」なのだ。

(続く)